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【悪役転生 レイズの過去 】―悪役の過去を知り未来は変わる。  作者: くりょ
レイズを知る。

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思惑はすこしずつずれていく。

 ヴィルは執務机の端に置かれていた茶器へ手を伸ばし、まだ湯気の残る茶を一口だけ含んだ。


 温度を確かめるようにゆっくりと飲み込み、それから白く立ち上る湯気をしばらく眺める。何かを考えているようでもあり、遠い記憶へ意識を向けているようでもあった。


 執務室には、紙をめくる微かな音すらない。


 窓の外から入り込む風が、机上に積まれた書類の端をわずかに揺らしている。その正面にはクリスが立っていた。姿勢を崩すことなく、ヴィルから命じられていた報告を終えたあとも、次の言葉を待っている。


 やがてヴィルは、ふと思い出したように顔を上げた。


「そういえば……クリス」


 静かな呼びかけだった。


 命令を下す執事長としての声ではない。だが、気軽な雑談を始めようとしているわけでもない。そのわずかな違いを感じ取ったクリスは、すぐに背筋を正した。


「はい。何でしょうか?」


 ヴィルはすぐには答えなかった。


 茶器を受け皿へ戻し、両手を机の上で組む。何度も心の中では決めていたはずの言葉を、改めて口に出すことに迷っているようだった。


 普段のヴィルであれば、必要なことは迷わず告げる。たとえ相手にとって厳しい内容であろうと、当主家に必要なことであるならば、言葉を濁すような男ではない。


 それでも今だけは、慎重に言葉を選んでいた。


「君に一つ、頼みたいことがあります。」


 口調は穏やかだったが、その声には執事長としての威厳よりも、一人の老人としての想いが滲んでいた。


 クリスはヴィルの目を真っ直ぐに見返す。


「私にできることであれば、何なりとお申しつけくださいっ」


 返答を聞き、ヴィルは小さく頷いた。

 そして、逃げることなく告げた。


「レイズの相談役になってほしいのです」


 その言葉に、クリスはわずかに目を見開いた。


 まったく予想していなかったわけではない。


 この屋敷へ仕えるようになってから、クリスは長い時間をヴィルとセバスのもとで過ごしてきた。剣だけではない。従者としての振る舞いも、主人への忠誠の在り方も、主家を守るということの厳しさも、二人から教え込まれてきた。


 そして、レイズが変わり始めてからというもの、ヴィルが誰よりもその成長を喜んでいることも知っている。


 いずれ、自分に何かを託そうとしている。

 その気配を感じたことは一度や二度ではなかった。


 だが、こうして明確な言葉として告げられると、その重みはまるで違う。


 相談役。

 ただ話を聞けばよいという役目ではない。


 レイズが迷ったときに進むべき道を共に考え、間違おうとしたときには止め、必要であれば主人に対して異を唱えなければならない。命令に従うだけの従者では務まらない役目だ。


 数秒の沈黙が流れた。

 ヴィルは急かさなかった。


 クリスが言葉の意味を正しく理解したうえで答えることを望んでいたからだ。


 やがてクリスは、驚きを消し、柔らかく微笑んだ。


「もちろんでございます…」


 迷いのない即答だった。

 さらに胸へ手を当て、力強く続ける。


「むしろ、これ以上ないほど光栄な役目であると思っております。レイズ様のお傍で、そのお考えを聞き、迷われたときには共に悩み、必要であれば私の考えを申し上げる。私にその役目をお任せいただけるのでしたら、喜んでお受けいたします」


 ヴィルは安堵するように目を細めた。


 本来、彼が以前から思い描いていた『レイズが相談できる相手』とは、クリスのことだった。


 レイズとの年齢も近く。

 忠誠心も疑いようがない。


 剣の腕や知識だけでなく、間違ったことを間違っていると口にできる強さも持っている。そして何より、クリスはレイズを当主だから守ろうとしているのではない。


 一人の少年として。

 これから先を生きていく者として。

 心から大切に意識している。

 それをヴィルは誰よりもよく理解していた。


 だからこそ、いつかはクリスへ託そうと考えていた。

 自分が傍にいられなくなった、その先を。


 もっとも、ヴィルの知らないところで、レイズはすでにイザベルへ悩みを打ち明け、彼女の考えを聞くようになっていた。正式な役目など与えられていなくとも、イザベルは自然と相談相手になり始めていた。


 ヴィルの思惑もまたここですこしずつずれていく。


 レイズが一人で抱え込まず、誰かを信じ、頼れるようになること。その事実こそ、ヴィルが望んでいたもの。


 相談できる相手は一人である必要などない。


 クリスにはクリスにしかできない支え方があり、イザベルにはイザベルにしかできない役割もある。


 それでもヴィルがあえてクリスへ頼んだのは、もっと遠い未来を見据えていたからだった。


「クリス」

「はい」

「これは、今だけの話ではありませんよ?」


 ヴィルの言葉に、クリスの表情が引き締まる。


「レイズがまだ幼い間だけ、話を聞いてやってほしいと頼んでいるのではないのです。あの子が成長し、本当に当主として多くのものを背負うようになった後も、君には傍にいてほしい」


 ヴィルは一度だけ目を伏せた。


「人の一生は、永遠には続きません。私も、セバスも……いつまでもレイズの傍にいられるわけではない」


「ヴィル様……」


「当然のことです。悲しむ必要はありません。私たちはすでに、十分すぎるほど長く生きましたから」

 静かな言葉だった。


 しかしクリスには、ヴィルがどれほどの覚悟でその言葉を口にしているかが分かった。


 ヴィルは自分の死を恐れているのではない。


 自分がいなくなった後、レイズが一人で立つことになる未来を恐れている。


 迷ったとき。

 悩んだとき。


 誰にも弱音を吐けず、自分一人で答えを出さなければならなくなることを、何より案じているのだ。


「私たちがいなくなった後も、レイズが一人にならぬようにしたいのです。あの子が間違った道へ進みそうになったとき、恐れずに止める者がいてほしい。苦しみを抱えたとき、当主ではなく一人の人間として話を聞く者がいてほしい。そして、あの子自身が誰にも見せられぬ弱さを抱えたとき……それを受け止められる者が、傍にいてほしいのです。」


 クリスは静かに拳を握った。


 ヴィルの真意を理解しているからこそ、その願いを軽い言葉で受け取ることはできない。


「お任せください…」


 声に揺らぎはなかった。


「この先、どれほど長い月日が流れようとも、私はレイズ様のお傍におります。レイズ様が私を必要としてくださる限り、決して離れません」


 ヴィルは黙ってクリスを見つめる。


 クリスはさらに言葉を続けた。


「レイズ様が迷われるのであれば、共に迷います。立ち止まるのであれば、無理に引くのではなく、隣でお待ちします。もし道を誤られるのであれば……たとえお叱りを受けようとも、私は必ずお止めします」


 その瞳には、燃えるような決意があった。


「私は必ず、レイズ様のお力になります。今だけではありません。この先も、ずっとです」


 その言葉に偽りはない。

 ヴィルはゆっくりと頷いた。


「……うむ」


 返事は短い。


 だが、その一言には深い信頼が込められていた。


 窓の外では、柔らかな風が木々の葉を揺らしている。


 まだ幼い当主は、こうして自分の知らないところで未来を案じられていることなど知る由もない。


 だが、知らぬところであっても構わない。


 未来へ続く支えは、少しずつ形になり始めていた。


 そのとき、執務室の扉が静かに開いた。


 入ってきたのはセバスだった。


 足音をほとんど立てることなく室内へ入り、ヴィルへ一礼する。その姿は年齢を感じさせないほど整っており、立っているだけで場の空気を引き締める力があった。


 クリスもすぐに身体の向きを変える。


「セバス様」


 セバスはクリスを一瞥した後、僅かに目を細めた。


「クリス…話は終わりました。」


「はい」


「それでは、行きなさい。」


「はっ」


 クリスは深く頭を下げた。


 そのまま退出しようとしたが、扉へ手をかける直前に一度だけ振り返る。


 ヴィルとセバス。

 クリスにとって、二人は単なる先達ではなかった。

 主人を守る者として。

 主家のために生きる従者として。


 超えなければならない大きな壁であり、決して失いたくない理想でもあった。


 ヴィルは主人でありながら、誰よりもアルバード家のために己を削ってきた。


 セバスはそのヴィルを長い年月支え、言葉を交わさずとも意図を理解し、必要とあれば命すら差し出す覚悟で傍に立っている。


 圧倒的な主人。

 そして、圧倒的な従者。


 その関係こそが、クリスが思い描く未来の姿だった。


 いつの日か。

 成長したレイズの傍に、自分が立つ。

 ヴィルの隣にセバスがいるように。


 レイズが振り返ったとき、必ずそこにいる存在になる。


 クリスはその光景を胸へ刻み、改めて深く一礼した。


「失礼いたします」


 扉が閉じられる。

 足音が廊下の向こうへ遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。


 しばらく、ヴィルとセバスの間に言葉はなかった。


 沈黙を気まずいと感じるような関係ではない。

 二人は長い年月を共に過ごしてきた。


 言葉を交わさずとも、互いが何を考えているのか、おおよそ理解できるほどに。


 ヴィルは先ほど置いた茶器へ再び手を伸ばした。だが茶はすでに冷め始めており、口をつけることなく元の位置へ戻す。


 その様子を見ていたセバスが、珍しく自分から口を開いた。


「私も…見ておりました」


 ヴィルが僅かに眉を上げる。


「レイズを…ですか。」


「はい」


「そうですか。」


 ヴィルは柔らかく笑った。


 レイズが木刀を持ち上げようと何度も挑戦していたこと。


 身体が動かなくなっても諦めず、倒れては立ち上がっていたこと。


 おそらくセバスは、気配を消しながら遠くから見ていたのだろう。


 自分から表立って褒めることはしなくとも、セバスがレイズの成長を案じていることをヴィルは知っている。


「セバス。貴方の目には、レイズはどのように映りましたか?」


 問われたセバスは、すぐには答えなかった。


 視線を下げ、何かを思い出すように僅かに目を細める。


「そうですね……」


 低い声が、静かな室内へ溶ける。


「昔を思い出します」

「昔…ですか?」


「ええ。友を……思い出します」


 誰のことを指しているのか。

 わざわざ名前を出す必要などなかった。

 二人には、それだけで十分に通じている。


 ヴィルはしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。


「そうでしょう…」


 その表情には、懐かしさと痛みが入り交じっていた。


「私よりも……レイズは弟によく似ている。」


「私も…そう思います」


 セバスの返答に迷いはなかった。


 顔立ちの話だけではない。


 不器用なほど真っ直ぐで、守りたいもののためならば無茶をする。そのくせ自分自身のこととなると、ひどく無頓着になる。


 そして、一度信じた相手を簡単には見捨てない。


 レイズの中にあるものは、確かにヴィルではなく、ヴィルの弟を思わせた。


 セバスはヴィルを見つめる。


「教えて差し上げないのですか?」


 主語はなかった。


 それでも何を問われているのか、ヴィルには分かっている。


「今は、まだ」

「レイズ様には、知る権利がありますが…」

「もちろんです。いずれはすべてを話します」


 ヴィルの声は静かだった。


「ですが、今あの子へ教えるべきことは、他にあります。過去を知ることは大切です。しかし、過去を背負うだけの力もないまま真実だけを与えれば、あの子を押し潰してしまう」


「……そうですか」


「逃げているわけではありません。」


「分かっております」


 セバスはそう答えたが、その声音には僅かな寂しさがあった。


 ヴィルもそれを聞き逃さない。


「当主であるためには、ただ強くなればよいというものではない…」


「はい…」


「剣が振るえる。魔法が使える。敵を倒せる。それらは必要でしょう。しかし、それだけで人の上に立てるわけではない…」


 ヴィルは机の上の書類へ視線を落とした。


 そこには領内の収穫量、治安、商人からの要望、使用人たちの配置に至るまで、多くの報告が記されている。


 当主が背負うものは、剣一本で解決できるほど単純ではない。


「ここアルバードにおいて、何よりも大切なのは、守ることそのものだ。」


「守る……ですか」

「ええ」


 ヴィルはゆっくりと頷いた。


「領地を守る。家族を守る。仕える者を守る。民の暮らしを守り、明日を守る。当主とは、力を示す者ではありません。力を使って、守るべきものを守り続ける者です」


 セバスは黙って聞いている。


「ですが、それはあまりにも難しい」

「そうですね」


「何かを守ろうとすれば、必ず選択を迫られる。すべてを救うことができるとは限りません。何かを選び、何かを諦めなければならないこともある。その度に、当主は自分の判断によって誰かが傷つく可能性を背負うことになります」


 ヴィルの指先が、机の上で僅かに震えた。


 ほんの一瞬のことだった。


 だがセバスは、その小さな変化を見逃さない。

「守るための最低条件は、まず自分自身を守れることです」


 ヴィルは淡々と言葉を続ける。


「自身を守れぬ者に、誰かを守ることはできません。力の話だけではない。心も同じです。自分を追い詰め、すべてを一人で背負い、壊れてしまう者に、多くの命を預かることなどできない」


 それはレイズへ向けた言葉であると同時に、過去の自分へ向けた言葉でもあった。


「そしてそれは……私のように……失うものが、あまりにも多くなってしまう」


 その言葉だけが、少し掠れた。

 セバスの目が揺れる。


「ヴィル……」


 ヴィルはゆっくりと顔を上げた。

 そして、ほんの少しだけ驚いたように目を細める。


「久しく聞きましたね。その呼び方をするとは」


 普段のセバスは、人前であろうと二人きりであろうと、ヴィルを『ヴィル様』と呼ぶ。


 それは主従のけじめであり、セバス自身が望んで守り続けてきた距離でもある。


 だが今。

 その距離は一瞬だけ消えていた。

 セバスは目を伏せたまま答える。


「私は……今でも、貴方を兄のように慕っていますから」


 ヴィルは何も言わなかった。


「血は繋がっておりません。生まれた場所も、背負っていた名も違います。それでも、私にとって兄と呼べる者は、昔から貴方だけです」


「セバス……」


「どれほど年月が流れても、そのことは変わりません」


 セバスの言葉に、ヴィルは静かに目を伏せた。


 長い年月の中で、二人はあまりにも多くのものを失った。


 友を失い。

 家族を失い。

 国に奪われ、引き裂かれ、名前さえも意味を変えられた。


 それでも二人だけは、今もここにいる。

 主従という形を取りながら。

 かつてと変わらぬ絆を、胸の奥へ抱えたまま。


「私は……今でも気にしているのです」


 ヴィルはゆっくりと言った。


「貴方をタフガイヤの者たちから引き離してしまったことを。あのとき、他に道があったのではないかと……何度考えたか分かりません」


 セバスはすぐに首を横へ振った。


「気にしないでください」


「しかし」


「タフガイヤという名は、王国が勝手に授けたものでしかありません」


 セバスの声は穏やかだった。


 だが、その奥には決して消えることのない怒りが沈んでいる。


「クリスがグレイオンの名を捨て、アルバードへ来たように、私もまたタフガイヤを捨てた身です。誰かに奪われたのではありません。私が、自分の意志で選びました」


「セバス……」

「それに、私はまだ…王国を許しておりません」


 はっきりとした言葉だった。


 普段のセバスからは想像できないほど、強い感情が込められている。


「王国にも…王国の事情があったのでしょう。それぞれが正義を掲げ、それぞれの立場から判断した。すべてが間違いであったとは言えません。」


 ヴィルは慎重に言葉を返した。

 セバスは静かに頷く。


「ええ。王国のすべてが間違っているとは、私も思っておりません」


 そこで一度、言葉を切る。


「ですが……ヴィズを…私の友を許すことのできない国を、私が…許せるはずがない…」


 室内の空気が、静かに凍りついた。


 ヴィズ。


 その名が口にされた瞬間、ヴィルは言葉を失った。


 遠い過去へ置いてきたの弟の名。


 決して忘れたことなどないのに、口にすることを避け続けてきた名前だ。


 ヴィルは目を閉じる。


「ヴィズ……」


 呟きは、あまりにも小さかった。

 セバスもそれ以上は何も言わない。

 慰める言葉などない。

 忘れろとも、過去のことだとも言えない。

 そんな言葉で薄められるほど、二人が失ったものは軽くなかった。


 長い沈黙の後、ヴィルはゆっくりと顔を上げた。


「セバス」

「はい。何なりと」


 先ほどまでの個人としての表情を消し、セバスは再び従者として返事をする。


 ヴィルはそんな彼を見つめ、静かに問いかけた。


「クリスに、当主を補佐する者としての教育を任せてもよいでしょうか」


 セバスは僅かに目を見開いた。


 相談役になるだけなら、忠誠心と覚悟があればよい。


 だが、当主を補佐する者となれば話は違う。

 領地経営。

 政務。

 交渉。

 兵の管理。

 使用人たちの統率

 危機が起きた際の判断。


 そして、主人が誤った場合に進言するための知識と度胸。


 剣が強いだけでは務まらない。


 セバスは、アルバード家が現在まで残っている理由の一端を担ってきた。彼がしてきたことをクリスへ教えるというのは、単なる指導ではない。


 自分の役目そのものを、次の世代へ譲り渡すという意味だった。

 セバスの脳裏へ、クリスが初めてアルバードを訪れた日のことが蘇る。


 あの頃のクリスは、ちょうど今のレイズと同じ程度の年齢だった。


 まだ少年と呼ぶべき年頃。


 それにもかかわらず、王国の戦士としてすでに完成されつつあった。


 そしてグレサス・グレイオン。


 現在、王国最強の座に立つ男。


 その弟であるクリスもまた、幼い頃から並外れた才能を見せていた。才能だけに驕ることなく、努力を惜しまず、十三か十四という年齢ですでに王国から座位を授けられるほどの力を得ていた。


 兄であるグレサスと比較しても、何ら遜色がない。


 剣の腕だけならば、当時から王国でも屈指の存在だった。


 そんな少年がある日、アルバードへ仕えたいと自ら名乗り出た。


 グレイオンの家名。


 それはアルバード家にとって、あまりにも因縁深い名だった。


 そしてグレイオン家にとっても、アルバードは長く敵として扱われてきた。


 疑わない方が難しい。

 罠である可能性。


 内部からアルバードを探ろうとしている可能性。


 いずれ裏切り、主家へ刃を向ける可能性。

 セバスは、クリスの受け入れに強烈な拒絶を示した。


 レイズへ近づけることなど論外だった。

 屋敷へ置くことすら認められないと、

 ヴィルへ何度も進言した。


 だがクリスは去らなかった。

 拒絶されても。

 疑われても。

 冷たい言葉を浴びせられても。


 毎日同じように頭を下げ、アルバードへ仕えることを願い続けた。


 そして、言葉だけではなく行動で示した。


 誰も見ていない場所でも鍛錬を怠らず。


 命じられた雑務も投げ出さず。


 アルバードの者が危険に晒されれば、自分の身を盾にして守った。


 数年の月日が流れた今、クリスをグレイオンの者として警戒する者は、もうほとんどいない。


 クリスは立派なアルバードの一員だった。

 今ではヴィルの弟子であり。

 セバスの弟子でもある。


 不器用ではあっても、誰より真っ直ぐに主人を支えようとする若者へ育った。


 そんなクリスへ、自身がしてきたことをすべて教える。


 それは、セバスにとって喜ばしいことであるはずだった。


 だが同時に。

 自分の役目が、いつか終わることを認めることでもあった。


「ヴィル……様」


 セバスはゆっくりと口を開いた。


「私も、必ずお供いたします」


 ヴィルは僅かに困ったように眉を下げた。


「それは……困りましたね」


 言葉だけを聞けば、軽い冗談にも思える。

 だが、二人の間では違った。


 セバスが言っているのは、旅行に同行するという意味ではない。


 ヴィルがこの世を去るとき。

 自分も共に行く。

 そう告げているのだ。

 二人の老人。


 若い日々から続く繋がりは、あまりにも強固だった。


 生きる場所も。

 背負う名も。

 立場も変わった。


 それでも二人は、長い年月を共に生きてきた。


 だからこそ、いま交わされた言葉の意味を長く説明する必要などない。


 ヴィルはしばらくセバスを見つめていた。


「それでは、レイズが困ります」

「クリスがおりますので…」

「まだ若い」


「若いからこそ、これから育てるのでしょう」

「貴方は時折、私より頑固になりますね」

「貴方に教わりましたので…」


 セバスの返答に、ヴィルは小さく笑った。


 それは執事長として見せる作られた笑みではない。


 遠い昔の面影を宿した、穏やかな笑顔だった。


「レイズは、まず自分自身を守れるだけの力を身につけなければなりません」


 ヴィルは窓の外へ視線を向ける。

 どこか遠く。


 訓練場のある方向へ。


「あの子は、守ろうとしすぎるだろう。まだ何も守れるほどの力を持っていないというのに、すでに誰かのために傷つこうとする」


「それも、あの方に似ていますね」

「ええ。だからこそ恐ろしい…」


 ヴィルの表情から笑みが消える。


「レイズには、まず自分を守ることを覚えてもらいます。それは自分だけを大切にしろという意味ではない。生き残らなければ、守り続けることはできないと知ってもらうためです」


 セバスは静かに頷いた。


「そして、その先でレイズを支える存在は……私でも、貴方でもなくなる」


 その言葉が、二人の間へ重く落ちる。


「……そうですね」


 セバスは目を伏せた。


「私たちの役目は、レイズのすべてを代わりに背負うことではありません。あの子が自ら歩けるように教え、その隣を歩く者を育てることです」


「クリスを、その者にすると」

「ええ」

「イザベル様もおられますが…?」


「もちろんです。リアナも、リアノもいる。これから先、レイズはさらに多くの者と出会うでしょう」


 ヴィルは穏やかに続ける。


「一人で支える必要などありません。誰か一人へ、レイズのすべてを背負わせるつもりもない。多くの者がそれぞれの形で支えればよいのです」


 そして、セバスへ真っ直ぐ視線を戻した。


「ですが、クリスには君の持つものを継がせてほしい。主人の半歩後ろに立ち、必要なときには前へ出る。その判断を。主人の命令に従いながらも、主人のためであれば命令に逆らう覚悟を。何を守り、何を捨てるべきかを選ぶ厳しさを」


 セバスは黙って聞いていた。


「私には剣を教えることはできても、君の役目をすべて教えることはできません。セバス。貴方にしか、伝えられないものがあります」


 長い沈黙のあと。


 セバスは深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 その声には、もう迷いがなかった。


「クリスの件については、私が責任を持って引き受けます。私がしてきたこと。見てきたもの。判断してきたすべてを、可能な限り継がせます」


「ありがとうございます」

「ただし」


 セバスは顔を上げる。


「私の代わりにするつもりはありません」


 ヴィルは僅かに目を細めた。


「クリスは、クリスです。私と同じように立つ必要はない。レイズ様とクリスが、二人にしか築けない関係を築けるように教えます」


「ええ。それでよいのです」


「ヴィル様と私の関係が、唯一の正解ではありませんから」


「分かっています」


 ヴィルは少しだけ笑った。


「それでも、クリスが私たちを理想としていることは、少々気がかりですが

「先ほどの顔を見れば分かります」

「やはり気づいていましたか」


「嬉しそうに我々を見ておりましたので」


「……困りましたね」


「若者が夢を見ることは悪いことではありません」


「夢にされる側は、落ち着きませんよ」

「私は光栄ですが」


「本当に、貴方は時折図太い」

「それも貴方に教わりました」


 先ほどと同じ返答に、ヴィルは今度こそ声を漏らして笑った。


 僅かな時間。


 二人は主従ではなくなっていた。


 ヴィルとセバス。


 かつて多くのものを失い、それでも共に生きることを選んだ二人の男へ戻っていた。


「セバス」

「はい」

「本当に……頼もしい限りです」


 ヴィルは穏やかに頭を下げた。


「これまでのことも。そして、これからのことも。貴方には感謝してもしきれません」


 セバスは驚いたように目を見開く。


 すぐに表情を戻したものの、声には僅かな震えが混じっていた。


「それはこちらも同じことです。貴方がいなければ、私はとうの昔に生きる意味を失っておりました」


「大げさですよ」


「大げさではありません」


「そういうことにしておきましょう」


「ヴィル様は、都合が悪くなるとすぐに逃げますね」


「年寄りには、逃げる権利があるのです」


「私も年寄りですが」

「貴方はまだ働けます」

「随分と身勝手な基準で」


 二人の間に、穏やかな空気が流れた。。

 ヴィルは窓の向こうへ目を向ける。

 ヴィルは目を細めた。


「まだまだ、先は長いですね」

「ええ」

「ですが」


 セバスも同じ方向を見る。


「楽しみでもあります」

「貴方の口から、そのような言葉を聞けるとは思いませんでした」


「私にも感情はありますよ?」

「存じてます。随分と分かりにくいだけで」


「ヴィル様ほどではありません」

「私の感情は分かりやすいでしょう」


「レイズ様の前では、特に」


 ヴィルは無言でセバスを見る。

 セバスも平然と見返した。


 先に視線を逸らしたのはヴィルだった。


「……クリスの教育については、明日から始めてください」

「承知いたしました」

「厳しくしすぎぬように」

「それは保証できませんが…」

「セバス」

「必要なことは、すべて教えましょう。」


「ほどほどに」

「ヴィル様にだけは言われたくありません」


 再び、遠くから木刀の落ちる音がした。

 その直後。


 まだ幼い少年の、悔しそうな声が微かに聞こえてくる。

 二人の老人は、同時に窓の外へ視線を向けた。


 アルバードがアルバードとして、今もなお残っている理由。

 それは土地でもなければ、血筋だけでもない。


 この家を守ろうとした者たちがいたからだ。

 すべてを失いながらも立ち続けたヴィル。

 その傍を離れることなく支え続けたセバス。

 二人の存在が、この家を現在まで繋いできた。


 だが、その時代もいつかは終わる。

 だからこそ、次へ渡さなければならない。


 クリスへ。

 イザベルへ

 リアナへ。

 リアノへ。


 そして、まだ見ぬ多くの者たちへ。


 幼い当主が、いつか自分の足で立ち、多くのものを守れるようになるその日まで。

 守るという意志を。

 支えるという覚悟を。

 未来へ繋いでいくために。


 ヴィルは、誰に聞かせるでもなく呟いた。


「レイズ。貴方が守ろうとするものが、いつか貴方自身を守ってくれるように……私たちは、そのための道を残しましょう」


 セバスは何も答えなかった。

 ただ、ヴィルの半歩後ろへ静かに立つ。

 それだけで十分だった。


 長い年月を共にした二人には、もはや言葉など必要なかった。

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たくさんの方に読んでいただき、本当にありがとうございます。 完結済の長編です。レイズたちの物語をぜひ最初から。
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