おじいさんフィルター
ヴィルは、俺が胸の内を打ち明けたあとも、すぐには何も言わなかった。しばらくのあいだ、ただ静かにこちらを見つめていたのだが、その眼差しは先ほどまでとは僅かに違っていた。
つい先ほどまでは、一人の人間として俺を見定めるような目だった。俺が本当に何者なのか、何を考え、何を恐れ、この先どうするつもりなのか。それを確かめるような、鋭くも慎重な視線。
だが今は違う。
ヴィルはゆっくりと背筋を伸ばし、両手を身体の前で重ねた。その立ち姿は隙がなく、表情には穏やかな落ち着きが戻っている。声を発する前から、その場の空気が僅かに変わったのが分かった。
まるで、先ほどまで一人の年長者として俺に向き合っていた男が、今この瞬間から屋敷に仕える執事長へと戻ったかのようだった。
いや。
ただの執事長ではない。
主人の前に立ち、その望みを聞き届けようとする従者。その者が進む道を確かめ、必要であれば支え、間違えば正すことを当然の責務としている者の姿だった。
「して…」
ヴィルは静かに問いかけた。
「なぜ、ダイエットをしたいのですか?」
あまりにも真面目な声音だった。
そして唐突な敬語。
一瞬、俺は何を聞かれたのか理解できず、目をぱちぱちと瞬かせた。
「……え?」
「ですから、なぜ痩せたいのかと尋ねております」
ヴィルは同じ調子で繰り返す。
その顔には冗談を言っている様子など一切ない。本当に理由が分からず、俺の考えを聞こうとしているのだ。
俺は黙って自分の腹へ視線を落とした。
服の上からでもはっきり分かる、丸みを帯びた腹。
少し前屈みになるだけで布地が柔らかく押し上げられ、呼吸に合わせて僅かに上下している。
俺は両手を伸ばし、その腹の肉を左右からがしっと掴んだ。
そして。
ぽよん。
ぽよん。
わざと大きく揺らしてみせる。
「ねぇ!」
思わず声が裏返った。
「ヴィルたちの美的感覚、どうなってるんですか!?」
自分の腹を揺らしながら、俺は半ば本気で訴えた
「これ見てくださいよ! ぽよんぽよんですよ!? 走ったら腹が先に揺れるんですよ!? 階段を上っただけで息が切れるし、少し屈んだだけで苦しいし、寝返りを打つのだって重いんです!」
俺はさらに腹を掴み、今度は上下へ揺らした。
ぽよん。
ぽよよん。
「どう見ても痩せるべきでしょう!?」
ところがヴィルは、俺の必死の訴えを聞きながら顎へ手を当て、本当に悩み始めた。
眉間へ僅かに皺を寄せ、俺の顔から腹へ、腹から手足へとゆっくり視線を移している。
まるで、俺が何を問題視しているのか本気で理解できない、とでも言いたげだった。
「そうですね……」
やがてヴィルは、慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「私から見れば、かわいい孫のようなものです」
「えええぇ!?」
俺は思わず腹から手を離し、両腕を大きく広げた。
「それ絶対、おじいちゃんフィルター入ってますよね!?」
「おじいちゃんふぃるたー、とは?」
「孫なら何をしても可愛く見えるやつですよ!」
「なるほど…それは…それは…」
ヴィルは静かに頷く。
「であれば…入っているのかもしれません」
「認めるんですか!?」
あまりにあっさり認められ、逆にこちらが戸惑った。
ヴィルは悪びれる様子もなく俺を見つめている。目元こそ穏やかだが、本人としては極めて真剣らしい。
どうやら本当に、今の姿をそこまで悪いものだとは感じていないようだった。
俺は額へ手を当て、そのまま天を仰いだ。
訓練場を囲む高い壁の向こうには、澄んだ空が広がっている。薄い雲がゆっくりと流れ、外から吹き込んだ風が汗ばんだ頬を撫でていった。
「いやいやいや……」
俺は何度も首を振る。
「駄目です。絶対に駄目です。俺は痩せたいんです」
「そこまで強く望む理由が、私には今ひとつ分かりません」
「分かってくださいよ、この腹を見たら!」
「健康を著しく害しているようには見えませんが」
「見た目の問題もあるんです!」
「見た目ですか?」
ヴィルはもう一度、俺の全身を眺める。
そして僅かに首を傾げた。
その反応に、俺の中で何かが弾けた。
「俺だって、かっこよくなりたいんです!」
胸を張り、腹を引っ込めようとする。
だが力を入れたところで限界があり、腹はほとんど変わらない。
俺は構わず続けた。
「走ったときに、どすどす音を立てたくない! 格好よく剣を構えたい! 服だってもっと似合うようになりたい! それに、この先いろんなことが起きるなら、今のままじゃ逃げることすらできないでしょう!」
ヴィルは黙って聞いている。
「だから痩せたい! かっこよくなりたい! それと――」
俺はそこで一度、言葉を止めた。
軽い調子だけで済ませることもできた。
見た目が嫌だ。
腹が重い。
それだけでも十分な理由ではある。
けれど、本当に望んでいるものはそれだけではなかった。
俺は両手を強く握りしめ、ヴィルの目を真っ直ぐに見る。
「強くなりたいんです…」
先ほどまでよりも、声は低くなった。
自分でも驚くほど、真剣な響きだった。
ヴィルの瞳が僅かに細められる。
「……強く、ですか」
「はい」
「なぜです」
「守りたいからです」
即座に答えた。
だが、誰を守りたいのかと問われれば、まだ自分でもはっきりとは分からない。
この屋敷の人たち。
これから出会う人たち。
それとも、本来なら悲しい結末を迎えるはずの誰か。
未来のことを知っているからこそ、何もしなければ後悔する。その思いだけは確かだった。
「俺は、これから何が起きるかを少しだけ知っています。でも、知っているだけじゃ何も変えられない。危険が来たとき、誰かの後ろに隠れているだけじゃ駄目なんです」
俺は自分の手を見つめる。
柔らかく、まだ剣を握る者の手ではない。
指の付け根に硬い皮もなく、腕にも目立った筋肉はない。
「逃げるためだけでもいい。誰かを助けるためでもいい。せめて、自分の身体くらい自分で動かせるようになりたい。力があるのに、使い方を知らないせいで何もできないなんて嫌なんです」
言い終えると、訓練場に静けさが戻った。
風が地面の砂を薄く巻き上げる。
遠くで鳥の鳴く声がした。
ヴィルはしばらく何も言わず、俺を見つめていた。
その顔からは感情を読み取りづらい。
ただ、先ほどまでのどこか穏やかな空気が消え、代わりに深く考え込むような静けさが漂っていた。
「それと、レイズ」
「はい」
「敬語はやめなさい」
「……え?」
突然別のことを言われ、俺は間の抜けた声を出した。
「なぜ敬語を使っているのです」
「いや、だってヴィルは年上ですし、執事長ですし、強いですし……」
「先ほど、ヴィルと呼べと言ったはずです」
「呼び方と敬語は別じゃないですか…?」
「同じです」
「同じなんですか!?」
「少なくとも、今のおまえが私に対して妙に畏まる必要はない。私はお前に従う者です。」
ヴィルは淡々と言い切る。
「私のことはヴィルと呼び、普段通りに話しなさい」
「でも、ヴィルだって今、すごく従者っぽい喋り方して…」
「私は執事長ですから」
「ずるくないですか!?」
「何がですか?」
「ヴィルだけ敬語で、俺は敬語禁止って!」
「立場が違うだろう。」
「理不尽だ!」
俺が叫ぶと、ヴィルは僅かに口元を緩めた。
「その口調で構いません」
「最初からそれを狙ってましたよね!?」
問い詰めても、ヴィルは答えない。
ただ、俺が先ほどより自然に喋っていることを確認したように小さく頷くと、ゆっくり背を向けた。
そのまま訓練場の端に置かれた棚へ歩いていく。
そこには何本もの木刀が並べられていた。
細身のもの。
短いもの。
刃の代わりとなる部分が幅広く作られたもの。
見ただけでも重そうな、太く黒ずんだ木刀。
ヴィルはその中から一本を選んだ。
他のものと比べても明らかに太い。
長さは俺の身長に近く、表面は磨かれているものの、普通の木とは思えないほど暗い色をしていた。
ヴィルは片手で柄を掴み、棚から持ち上げる。
その動作はあまりにも軽かった。
まるで細い枝でも拾うかのように。
「では」
ヴィルは振り返った。
「これを使いなさい」
「え…?」
次の瞬間。
ヴィルは何の躊躇いもなく、その木刀をこちらへ放り投げた。
「うわっ!?」
木刀が空中を飛ぶ。
俺は反射的に受け取ろうと両手を伸ばしかけた。
だが、飛んでくる木刀が妙に速い。
それ以上に、空気を押し潰すような重い音を立てている。
本能が叫んだ。
これは受け取ってはいけない。
俺は慌てて身体を横へ投げ出した。
直後。
ドォンッ!!
訓練場全体へ、腹の底を震わせるような音が響いた。
地面へ落ちた木刀の周囲から砂埃が舞い上がる。
俺は尻もちをついたまま、目の前の光景を呆然と眺めていた。
木刀が落ちた場所には、僅かに地面が窪んでいる。
「……」
木刀を見る。
ヴィルを見る。
もう一度、木刀を見る。
何度見ても状況は変わらない。
「そのさ……ヴィル」
「はい」
ヴィルは実に穏やかな顔で返事をした。
「頼むから、投げて渡すのやめて……ください」
「敬語」
「投げて渡すのやめろよな!?」
「はて?」
ヴィルは本気で分からないといった様子で首を傾げた。
冗談ではない。
本当に、何が問題なのか理解していないらしい。
「危ないだろ!」
「避けられたではありませんか」
「避けられなかったら死んでたよ!」
「その程度で死ぬようでは困ります」
「困るのは俺だよね!?」
俺は立ち上がり、地面へ落ちた木刀を指差した。
「何なんだよこれ! 木刀が落ちた音じゃないだろ! 岩だろ! いや、岩でももっと静かに落ちるだろ!」
「それは重木と呼ばれる木材です」
「じゅうぼく?」
「この大陸でも特に密度が高く、硬度にも優れた木です。成長が極めて遅く、一本を加工できる大きさまで育てるには長い年月を要します」
ヴィルは木刀へ歩み寄り、片手で軽々と持ち上げた。
先ほど地面を揺らした物とは思えない。
「武器の訓練だけでなく、身体を鍛えるためにも使われます。通常の木刀より遥かに重く、耐久性も高い。多少乱暴に扱っても折れることはありません」
「多少って、地面にめり込むくらい投げても平気ってこと?」
「この程度なら問題ありません」
「問題しかないだろ!?」
俺の抗議を聞き流しながら、ヴィルは木刀を縦に持ち、その重さを確かめるように僅かに上下させた。
「その大きさなら、そうですね」
ヴィルは俺へ視線を向ける。
「今のレイズと、ほぼ同じくらいの重さでしょうか」
「……は?」
「多少の差はあるでしょうが、おおよそ同程度です」
俺は固まった。
ゆっくりと、自分の身体を見る。
次に木刀を見る。
ヴィルはその木刀を片手で持っている。
それどころか、さっき俺へ投げた。
勢いをつけて。
片手で。
「余計に投げるなぁぁぁぁぁぁ!!」
俺の叫びが訓練場へ響き渡った。
「俺と同じ重さなんだろ!? それを人に向かって投げるな! 死ぬだろ! ていうか、俺と同じ重さの木刀を片手で放り投げるな! 何なんだよお前! 化け物なのか!?」
ヴィルは怒るでもなく、穏やかに笑った。
「ですが、先ほどは持ち上げてみせたではありませんか」
「……え?」
「先ほど、おまえはそれを持ち上げました」
「いやいやいや、持ち上げてないけど?」
「持ち上げました」
「いつ!?」
「私へ正体を話す少し前です。木刀を掴み、僅かな時間ではありますが、確かに浮かせていました」
言われてみれば、記憶の片隅にある。
鍛錬の途中。
ヴィルからいきなり…持てと言われ、訳も分からず両手で掴んだ。
死ぬほど力を込めて、ほんの少しだけ持ち上げた。
だが、あのときは必死すぎて重さを考える余裕などなかった。
「……あれ、これだったの?」
「はい」
「俺と同じ重さだったの?」
「概ね…ですが。」
「先に言ってよ!」
「先に言えば、最初から諦めたでしょう」
図星だった。
「うっ……」
俺は言葉に詰まる。
確かに、最初から自分と同じ重さだと聞かされていたら、触る前から無理だと決めつけていたかもしれない。
ヴィルはそんな俺を見て、僅かに目を細めた。
「おまえは、重さを知らなかったから持ち上げようとした。そして実際に持ち上げた」
「ほんの少しだけだろ…」
「僅かであろうと、持ち上げた事実は変わりません」
ヴィルは木刀を地面へ立て、俺の前に置く。
「できぬと思い込むことと、実際にできぬことは違います」
その言葉に、俺は木刀を見下ろした。
さっきよりも、さらに重そうに見える。
自分と同じ重さ。
そう聞いた途端、絶対に持ち上げられない物に思えてしまう。
けれど、ヴィルの言う通りだ。
俺は先ほど、これを一度持ち上げている。
ならば、もう一度できない理由はない。
「ふっ……」
俺はわざと鼻で笑った。
「見てろよ、ヴィル」
「何をです?」
「俺なら、こんな木刀くらい優雅に持ち上げられる」
「先ほどは随分と必死でしたが」
「今回は違う。コツを掴んだ」
「そうですか」
ヴィルの返事は淡々としている。
明らかに信じていない。
その態度が、妙に腹立たしかった。
「見てろよ」
俺は木刀の前に立ち、脚を肩幅ほどに開いた。
腰を落とす。
背筋を伸ばす。
先ほどヴィルから教えられた姿勢を思い出しながら、両手で柄を掴んだ。
表面は滑らかだったが、普通の木よりもひんやりとしている。
「まずは力を抜きます」
ヴィルが横から口を挟む。
「分かってるよ!」
「腕だけで持ち上げようとしないことです」
「分かってるって!!」
「腰を痛めますよ??」
「今から優雅に持ち上げるところだから黙ってて……?」
俺は一度、深く息を吸った。
鼻から吸い、口から吐く。
身体の力を抜き、呼吸を整える。
そして。
「よし」
俺は木刀を持ち上げようとした。
びくともしなかった。
「…………」
木刀は地面へ根を張ったように動かない。
俺は何もなかったふりをして姿勢を直した。
「今のは確認」
「何のです」
「重心だよ…」
「そうですか」
「次で持ち上げる!!」
もう一度、力を込める。
やはり動かない。
顔だけが熱くなっていく。
「……」
「レイズ」
「話しかけるな。集中が途切れる」
「まだ何も言っていませんが?」
「視線で話しかけてる」
俺は歯を食いしばった。
腕へ力を込める。
肩へ力を込める。
腰を落とし、脚で地面を踏みしめる。
「んっ……!」
木刀は動かない。
「んぬ……!」
まだ動かない。
「んぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぅぅぅぅぅぅぅぅ!!」
訓練場に、言葉とも叫びともつかない雄叫びが響いた。
歯を食いしばる。
顔を真っ赤にする。
首筋に筋が浮かび、両腕がぷるぷると震え始める。
額から汗が噴き出し、頬を伝って顎から落ちる。
優雅さなど、どこにもなかった。
先ほど自信満々に宣言した姿は消え失せている。
そこにいるのは、地面から抜けない巨大な大根と格闘する子どものような俺だけだった。
「ぬおおおおおおおおおっ!」
それでも、手を離さなかった。
重い。
腕が痛い。
腰が悲鳴を上げている。
指が柄から外れそうになる。
いっそ諦めてしまえば楽だった。
どうせ自分と同じ重さなのだ。
持ち上がらなくても不思議ではない。
むしろ、持ち上がらない方が普通だ。
そんな考えが頭をよぎる。
けれど同時に、ヴィルの言葉が蘇った。
できぬと思い込むことと、実際にできぬことは違う。
「まだ……だ……!」
俺は足の位置を僅かに変えた。
腕だけではない。
脚へ力を込める。
地面を押し返す。
腰を伸ばしながら、身体全体で木刀を引き上げる。
「んんんんんんっ!」
そのとき。
木刀の先が、ほんの僅かに地面から離れた。
「……っ!」
俺は目を見開く。
持ち上がった。
ほんの一瞬。
ほんの僅か。
だが、確かに浮いた。
ヴィルもそれを見ていた。
「そのままです」
先ほどまで静かに見守っていたヴィルが、初めて声を出す。
「腕だけに頼らない。脚で立ち、腰を伸ばしなさい。呼吸を止めすぎるな」
「分かって……るっ!」
「分かっている者の顔ではありません」
「うるさ……いっ!」
返事をしながらも、俺は力を緩めなかった。
木刀が再び地面へ触れそうになる。
「まだだ!」
さらに力を込める。
身体中が震える。
視界が狭くなる。
耳の奥で自分の心臓の音が響いている。
それでも、指だけは離さなかった。
少しずつ。
本当に少しずつ。
木刀が地面から離れていく。
一寸。
さらに一寸。
やがて、木刀の全体が完全に浮いた。
「持ち上がった……!」
俺は驚きと喜びが混じった声を漏らす。
だが、木刀の重さは容赦なく両腕へ食い込んでくる。
「うおおおおおおおっ!」
膝はがくがくと震え、上半身は左右へふらつく。
足元もおぼつかない。
その姿に英雄らしさなど一欠片もない。
勇ましい剣士にも見えない。
強いて言うなら、洗濯機へ放り込まれ、必死に外へ出ようともがいている濡れた子犬だった。
それでも。
俺は確かに、自分と同じ重さの木刀を持ち上げていた。
「み、見たか……ヴィル……!」
歯を食いしばりながら、どうにか顔だけを向ける。
「俺は……持ち上げたぞ……!」
「見ていますよ。」
「もっと驚けよ……!」
「先ほども持ち上げていましたから。」
「そういうところだぞ……!」
次の瞬間、限界が来た。
木刀が手から滑り落ちる。
「うわっ!」
俺は慌てて足を引いた。
ドンッ、と再び重い音が響き、木刀が地面へ落ちる。
今度は先ほどより低い位置からだったため大きな窪みこそできなかったが、それでも砂埃が薄く舞い上がった。
俺はその場へ尻もちをついた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息が苦しい。
腕が上がらない。
指が勝手に震えている。
腹も脚も背中も、全身が痛かった。
それでも、口元には笑みが浮かんでいた。
「持ち上がった……」
もう一度、小さく呟く。
たったそれだけのことが、今はどうしようもなく嬉しい。
自分には無理だと思っていた。
重さを聞いた瞬間、絶対にできないと感じた。
けれど、実際にはできた。
ほんの僅かな時間。
見栄えも最悪。
立っているのがやっとの状態。
それでも、できた。
「どうだ、ヴィル……」
俺は地面へ座り込んだまま、誇らしげに胸を張った。
だが疲労で腹に力が入らず、胸を張るというより腹を突き出しただけになってしまう。
「俺、意外とすごいだろ」
「そうです。」
ヴィルは静かに答えた。
「今のおまえにしては…よくやりました」
「今の俺にしては、って余計じゃない?」
「事実だ。」
「もっと素直に褒めてくれてもいいと思う」
「褒めすぎれば、すぐに調子へ乗る。」
「もう乗ってるんだよ!」
「見れば分かります。なのでまだその程度です。」
そんな会話を交わしながらも、ヴィルの眼差しは先ほどまでとは明らかに違っていた。
その変化に、俺は気づいていない。
ただ持ち上げられたことを喜び、疲れ切った腕をさすっている。
だがヴィルは、そんな俺を静かに見つめていた。
諦めなかった。
重さを知り、一度は無理だと思いながらも、再び手を伸ばした。
持ち上がらなくても誤魔化さず。
苦しくても途中で投げ出さず。
顔を真っ赤にして、みっともない声を上げながら、それでも最後まで力を込め続けた。
できないと決めつけなかった。
逃げなかった。
その姿は、ヴィルの知るレイズと似ているようで、まるで違っていた。
かつてのレイズも、幼い頃は何度失敗しても立ち上がる子どもだった。
木刀を持てずに泣きながら、それでも翌日にはまた訓練場へ来た。
転んで膝を擦りむいても、悔しそうに唇を噛み、もう一度やると言い張った。
だが、いつからだっただろう。
少しずつ周囲の声を恐れるようになった。
自分にはできないと決めつけるようになった。
失敗するくらいなら、最初から何もしない方がいいと考えるようになった。
ヴィルが手を差し伸べても、それを振り払うようになった。
叱れば反発し、諭せば目を逸らし、やがて訓練場へ姿を見せることさえなくなった。
ヴィルは何度も考えた。
どこで間違えたのかは理解している。
理解したときに孫として抱きしめるべきだったのか。
ただの祖父である時間を失ってしまったのではないか。
だが、どれほど考えても過去は戻らなかった。
閉じてしまったレイズの心を、再び開くことはできなかった。
いつしかヴィルも諦めていた。
レイズが変わる未来を。
この家が再び前へ進む未来を。
自分の手で何かを教え、その背中を押せる日が来ることを。
すべて、もう遅いのだと。
だが今。
目の前にいる少年は、本来のレイズではない。
それをヴィルは知っている。
知っているからこそ、胸の奥には痛みがある。
それでも、その少年はレイズの身体で木刀を握り、顔を真っ赤にしながら立ち上がろうとしていた。
できないことを恥じるのではなく。
できるようになろうとしている。
その姿を見た瞬間。
ヴィルの胸の奥で、長い年月止まり続けていた何かが、ほんの僅かに動いた。
錆びつき、二度と回らないと思っていた大きな歯車。
諦めという名の埃を被り、過去の後悔に埋もれていた歯車。
それが今、ぎしりと小さな音を立てながら回り始める。
(……これなら)
ヴィルは心の中で呟いた。
レイズはまだ弱い。
体力もない。
技術もない。
知識も足りない。
木刀を一度持ち上げただけで、座り込んで動けなくなるほど未熟だ。
魔力の扱いも危うい。
自分の立場も、この世界の常識も理解しきれていない。
それでも。
確かな意思がある。
痩せたいか…。
かっこよくなりたい…。
強くなりたい。
その言葉の中には、幼い願いも混じっている。
だが同時に、誰かを守りたいという意思もあった。
未来を変えたいという決意もあった。
まだ曖昧で、形さえ定まっていない。
それでも、何もないより遥かにいい。
意思さえあるなら、教えることができる。
知らぬなら教えればいい。
弱いなら鍛えればいい。
迷うなら、正しい道を示せばいい。
倒れたなら、もう一度立たせればいい。
(これなら、進められる)
諦めていた未来が、ほんの少しだけ形を持つ。
レイズが強くなる未来。
この屋敷を支える者となる未来。
自分の力を恐れながらも、正しく使えるようになる未来。
そしていつか、周囲の者に胸を張って向き合える日。
ヴィルは、その可能性を初めて信じてもいいと思った。
同時に。
自分もまた、前へ進まなければならないと感じていた。
本来のレイズを失った悲しみに縛られ、過去だけを見続けるのではない。
目の前にいる少年を、偽物として遠ざけるのでもない。
今ここにいる者を見て。
今できることをする。
それが、執事長として。
そして、祖父として選ぶべき道なのかもしれなかった。
「……ヴィル?」
俺の声に、ヴィルは思考から引き戻された。
「どうしたんだよ。急に黙って」
「いえ」
ヴィルは静かに首を振る。
そして、地面へ座り込んでいる俺の前まで歩いてきた。
「少しだけ、考えていただけです」
「俺が意外と才能あるって?」
「それは今後の鍛錬次第ですが、」
「そこはあるって言ってくれよ」
「才能がある者ほど、努力を怠れば容易に堕ちる」
「じゃあ、ない方がいいの?」
「あるに越したことは…」
「どっちなんだよ」
俺は疲れ切った顔で睨む。
ヴィルは僅かに笑った。
その笑みは小さかった。
けれど先ほどまでより、ずっと柔らかい。
「レイズ…」
「なんだよ」
「本当に強くなりたいのだな、」
改めて問われ、俺は一瞬だけ黙った。
そして、地面へ置いた手を握りしめる。
「ああ」
今度は迷わなかった。
「強くなりたい」
「苦しいですよ」
「今でも十分苦しいよ」
「今日の比ではありません」
「……どれくらい?」
「まず、朝は日が昇る前に起きてもらいます」
「え」
「走り込みの後、基礎鍛錬。食事を挟み、魔力操作。その後に木刀を使った訓練です」
「ちょっと待って」
「昼食後は身体の構造と戦いに関する座学。夕刻には再び走り込みを行います」
「待って待って待って」
「就寝前には柔軟と魔力循環の確認をします」
「一日中じゃないか!」
「強くなりたいのだろう。」
「なりたいけど、死にたいわけじゃない!」
「死なぬ程度に調整します。」
「その言い方、一番信用できないんだけど!」
ヴィルは真顔のまま続ける。
「食事も見直します」
「そこは大事!」
「量を減らしすぎる必要はありません。身体を作りながら余分な脂肪を落とすには、適切に食べることも必要です」
「おお……急にまともな話になった」
「ただし、甘味は制限します」
「嫌だ!」
「即答ですか」
「だって甘いものは心の栄養だぞ!」
「では、鍛錬の成果に応じて与えます」
「ご褒美制!?」
「励みになるはずだ。」
「なるな!」
反射的に答えてから、俺ははっとした。
完全に子ども扱いされている。
けれど、今さら否定するのも恥ずかしい。
ヴィルはそんな俺を見下ろしながら、手を差し出した。
「立てますか」
「無理かもしれない」
「では、そこで夕刻まで休みますか」
「それは嫌だ」
俺は差し出された手を掴んだ。
次の瞬間、身体が軽々と引き上げられる。
「うわっ」
自分とほとんど変わらない重さの木刀を片手で投げる男だ。
俺一人を起こすなど、何でもないのだろう。
立ち上がったものの、脚にはまだ力が入らず、俺はふらついてヴィルの腕へしがみついた。
「大丈夫ですか」
「腕と脚と腰と背中と腹が大丈夫じゃない」
「ほぼ全身ですね」
「分かってるなら優しくしてくれ」
「これから優しく鍛えます」
「その優しい、絶対俺の知ってる意味と違うよね」
ヴィルは答えなかった。
ただ、倒れそうになる俺を片手で支えながら、もう片方の手で重木の木刀を持ち上げる。
その横顔には、ほんの僅かながら確かな期待が浮かんでいた。
俺はまだ知らない。
この日、自分がただ木刀を持ち上げただけではなかったことを。
ヴィルの中で止まり続けていた時間を。
諦めに覆われていた未来を。
もう一度、動かしたことを。
ヴィル自身もまた、まだ知らなかった。
この小さな決意が。
痩せたいという単純な願いが。
強くなりたいという真っ直ぐな思いが。
やがてこの屋敷だけでなく、領地を、王国を、そして世界そのものを大きく変えていく最初の一歩になることを。
その始まりは、あまりにも小さかった。
自分と同じ重さの木刀を、ほんの僅かな時間だけ持ち上げた。
ただ、それだけのことだった。
けれどヴィルにとっては十分だった。
諦めずに手を伸ばす者であるならば。
何度倒れても、また立とうとする者であるならば。
教える価値がある。
支える意味がある。
そして、自分の残りの時間を託してもよい。
ヴィルの胸の奥で、止まっていた大きな歯車が、今度こそ確かに回り始めていた。




