10.王妃ブリジット
「今、ですか?」
おずおずと尋ねると、侍女は頷く。
「はい、王妃陛下がお呼びです」
「……わかりました」
ロゼッタは小さな声で返事をすると、読んでいた本を置いてソファから立ち上がった。
いつも本を読むときは侍女たちを遠ざけているため、周りには誰もいない。
侍女に付き添われて廊下を歩いていく。緊張のせいか、心臓の鼓動が早くなっていた。
王妃宮に到着したロゼッタは、侍女の案内で王妃の部屋へと向かう。
「王妃陛下、ロゼッタさまがいらっしゃいました」
侍女が呼びかけてしばらくすると、中から返事が聞こえてきた。扉がゆっくりと開かれる。
侍女は一礼すると部屋の中に入り、ロゼッタに中へ入るよう促した。
ロゼッタは緊張しながら、部屋の中に足を踏み入れる。すると、そこには王妃ブリジットがいた。
彼女は銀色の髪を結い上げ、瞳と同じ空色のドレスを身にまとっている。その姿は優美で気品が漂い、まさに王妃と呼ぶに相応しい姿だった。
ただ、わずかに微笑んではいるものの、どことなく冷たい印象を受ける。
「よく来ましたね」
ブリジットは優雅に椅子に腰掛けたまま、ロゼッタに話しかける。優雅な所作ではあるが、どこか圧力を感じるのは気のせいではないだろう。
「は、はい……王妃陛下にはご機嫌麗しゅう……」
ロゼッタは緊張しながらも、淑女の礼を取る。本来ならば知らないはずの作法だが、ニーナとしての記憶がそれを覚えていたのだ。
すると、ブリジットは驚いたように目を見張った。
「まあ……このような美しい礼ができるのね。それも、正しく敬称まで使えるなんて……」
ブリジットは感嘆の声を漏らし、ロゼッタを見つめる。
緊張しながらも、間違っていなかったようだとロゼッタはほっとした。
ブリジットはコーネリアスのただ一人の正妃であり、国母である。
この国では、正妃を『陛下』、その他の妃を『殿下』という敬称で呼ぶ。
ニーナの出身国では、第一王妃、第二王妃と順に呼ばれ、全員に『殿下』が敬称として用いられていた。
しかし、この国では王妃とは正妃一人を指す言葉になっているのだ。
だが、ロゼッタの周りの侍女たちは『王妃殿下』と呼んでいた。
つまり、周りの侍女たちはブリジットのことを格下げして呼んでいることになる。
今、やっと侍女たちの言葉に抱いていた違和感の正体がわかった。
敬称についてロゼッタが教わったことはなく、ニーナの記憶が頼りとなる。
しかし、それも彼女の出身国とこの国で違いがあったため、気づくのが遅くなってしまったのだ。
周りの侍女たちに何やら悪意のようなものを感じたロゼッタは、不安な気持ちに襲われる。
しかし、そんな彼女の内心など知る由もないブリジットは、満足げに微笑んで立ち上がる。そしてロゼッタの前に来ると、そっと手を差し出した。
「さあ、いらっしゃい」
ブリジットの言葉に、ロゼッタはおずおずとその手を取った。
そのまま手を引かれて椅子に腰掛けると、それを確認したかのように侍女たちが部屋から出ていく。
部屋の中は二人きりになった。
ロゼッタはブリジットと向かい合い、互いに見つめ合う形になる。
しばらく沈黙が流れたが、先に口を開いたのはブリジットだった。
「ロゼッタ、何か不自由はしていないかしら」
唐突に問いかけられて、ロゼッタは思わず目を瞬かせた。
「はい? あ、ええと……いいえ……」
わけがわからないまま答えると、ブリジットは微笑を浮かべる。そして、諭すように言葉を続けた。
「遠慮することはないわ。国王陛下の宮殿にいるとはいえ、殿方には気の回らないところもあるでしょう。何かあれば、わたくしに言うのですよ」
「はい、ありがとうございます……」
ロゼッタは戸惑いながらも、なんとか感謝の言葉を述べる。しかし、内心ではひどく混乱していた。
王妃は冷酷で、己の立場を守るためには手段を選ばないという話だったはずだ。それなのに、彼女はなぜ自分に親切にするのだろう。
その疑問が顔に出ていたのか、ブリジットは困ったような顔をしながら口を開く。
「どうしたの? 何か不安なことでもあるのかしら」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
ロゼッタは口ごもりながらも答える。
すると、ブリジットは少し思案した素振りを見せたあと、おもむろに口を開いた。
「もしかして、わたくしがあなたをいじめるのではないかと心配しているの?」
「え……」
図星を指されて、ロゼッタは思わず息をのんだ。どうやら表情に出てしまっていたらしい。
その反応を見て、ブリジットは笑いながら言葉を続ける。
「大丈夫よ、ロゼッタのことをいじめなどしないわ」
「では……あの、王妃陛下はわたしを嫌っているのではありませんか?」
ロゼッタは思い切って問いかけた。
すると、ブリジットは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに微笑むと口を開く。
「どうしてそう思うのかしら?」
「だって、わたしは側妃の娘だから……」
王妃に嫌われていると聞いていたので、ロゼッタはそう答えるしかなかった。
すると、ブリジットは困ったような表情になる。
「確かにあなたは側妃の娘ね。でも、だからといってあなたを憎んでいるわけではないのよ」
そう言うと、ブリジットは再び微笑んだ。
その表情からは、最初に感じたような冷たさは見当たらない。むしろ、どこか慈愛に満ちた眼差しを向けられているような気さえした。
「本当ですか?」
ロゼッタが尋ねると、ブリジットは頷く。
「ええ、本当よ。むしろわたくしは、あなたが良い扱いを受けていないと知りながら何もできず、つらい思いをさせてしまったことを申し訳なく思っているのよ。ごめんなさいね、ロゼッタ」
「い、いえ……そんな……」
ブリジットから謝罪を受けて、ロゼッタは恐縮してしまう。まさか謝られるとは思っていなかったのだ。
思わず口ごもってしまうが、ブリジットはさらに言葉を重ねる。
「いっそ、わたくしがあなたを引き取りたいと願ったこともあったのよ。でも、あなたの実の母である側妃が健在だった以上、わたくしがしゃしゃり出るわけにはいかなかったの」
「そうだったのですか……」
ロゼッタは呆然とした様子で呟く。
まさか自分が王妃に気にかけられていたとは思わなかったのだ。その事実を知り、ロゼッタの胸は熱くなる。
ブリジットは椅子から立ち上がると、ロゼッタに近づいてくる。そして優しく頭を撫でたあと、そっと抱き寄せた。
「わたくしはあなたが生まれてきてくれたことを嬉しく思っているわ」
耳元で囁かれる言葉に、ロゼッタは目頭が熱くなるのを感じた。その言葉だけで救われたような気持ちになり、涙がこぼれ落ちそうになる。
しかし、ぐっと堪えてブリジットの腕の中でおとなしくしていた。
しばらくすると、ブリジットはゆっくりと身体を離す。そして、再び椅子に腰掛けると口を開いた。
「アイザックもね、妹としてあなたを大切に思っているのよ。もちろん国王陛下も、あなたのことを娘として愛しているわ。それだけはわかってちょうだいね」
「はい、王妃陛下……ありがとうございます……」
ロゼッタは深く頭を下げる。
それを眺めて優しく微笑みかけると、ブリジットはさらに言葉を続けた。
「もうわたくしを母と呼んでくれても良いのですよ」
ブリジットは悪戯っぽい口調で言う。
それが冗談であることはわかっていたが、ロゼッタは少し考えてから返事をした。
「では……母さま、とお呼びしてよろしいですか?」
ロゼッタの言葉に、ブリジットは一瞬驚いたように目を見開く。だが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「ええ、そう呼んでくれると嬉しいわ」
「はい、母さま」
ロゼッタは笑顔を浮かべると、もう一度頭を下げた。
そして顔を上げると、ブリジットに向かって口を開く。
「あの……ありがとうございます。わたしを娘として受け入れてくれて……」
「いいのよ、ロゼッタ。あなたはわたくしの大切な娘なのだから」
ブリジットはそう言って、再びロゼッタの頭を優しく撫でる。その手の温もりを感じながら、ロゼッタは幸せを感じていた。
「……あなたを見ていると、とても懐かしくて涙が出そうになるわ。自己満足の罪滅ぼしかもしれないけれど、今度こそは……。国王陛下もきっと、あなたを慈しむことで心が救われるのでしょうね……」
ブリジットが独り言のようにそう呟いたが、ロゼッタにはよく聞き取れなかった。
聞き返そうとロゼッタがブリジットを見つめると、彼女はすぐにごまかすように微笑んで言葉を続ける。
「何でもないわ、気にしないでちょうだい。ただ、わたくしのような可愛げのない女ではダメだということを言いたかっただけなの」
「そ、そんなことありません! 母さまはとてもお優しい方です!」
ロゼッタは思わず立ち上がって否定する。
すると、ブリジットは一瞬驚いたような表情を浮かべたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、嬉しいわ」
その笑みは、王妃という身分からは想像もつかないほど純粋なもので、ロゼッタは思わず見惚れてしまう。
そして、侍女たちから聞いた噂話とは全く異なる印象を抱いた。
実際に接して、ブリジットの人柄に触れてみれば、彼女たちが抱く偏見に満ちた噂など嘘でしかないことがわかる。
最初に冷たいと感じたのは、先入観で目が曇っていたのだろう。
「ロゼッタ……どうか国王陛下の側にいてあげてね」
ブリジットは切実な響きを持った声で、そう言った。
その瞳はどこか遠くを見ているようで、ロゼッタは思わず息をのむ。
「……はい、母さま」
ロゼッタはそう答えることしかできなかった。
何か見えない糸が絡まってしまっているような、そんな気がしてならない。
それからしばらく談笑したあと、ロゼッタは王妃の部屋を後にした。
「やっぱり、かわいそうだけれどあの子には……いえ、きっとそのほうがあの子のためにも……」
ロゼッタが部屋を出る間際、ブリジットは小さな声で呟いていた。しかし、その言葉は誰の耳にも届くことはなかった。









