月光の魔女 ①
29
一時を過ぎ、さらに深くなった静けさは、あさひの心を落ち着かせてくれた。
白兎を排除したことで今のところ追っ手はいない。
分身たちはばたりと倒れたまま動かなかったので放置したけれど、しばらくすれば起き上がり、もとの居場所に戻っていくだろう。
名前を失った彼の手を引いて街を歩いていると、視線の先に、数時間前に見た女性の姿があった。
服装は何も変わっていないのに、頭と肩は真っ白に雪を積もらせている。
ずっと、帰ってこない息子を探しているのだと思うと、あさひは居た堪れない気持ちになった。
すぐ後ろに息子はいるけれど――。
「あの……! 息子を探しているんです! 背は、その……年は――息子を、探して」
何かを言おうとするたびに喉を詰まらせたように言葉を止めた。
それが、名前を失うということなのだと理解する。
正直なところ、見てみなければわからないと考えていたけれど、それはあまりに残酷なものだった。
個人を決める名前を奪われた彼は、もうこの世界に居場所なんて存在しない。
魔法使いとはそういうものなのだ。
あさひに言った言葉を、女性はもう一度寸分違わず彼に話しかけた。
彼がその息子なのだと言っても、彼女はまた言うだろう。
「息子を探しているんです」と。
それが理なのだ。
彼のことを思えば、彼女に気がついた時点で離れるべきだった。
しかしあさひは、これが最後だと思い近づくことにしたのだ。
あさひが使命を全うし始めると、彼は一人きりになる。
魔法使いに感情なんてないのだとは思っても、しかし見るからに存在する感情の起伏を無視はできない。
もし微かに、《空木木葉》が残されているのなら、それが痛みを生むとしても知らせておくべきだったのだ。
「 」
僕だ、と彼は言った。
ただ救いを求める母の顔と、失い忘れられた少年の顔との距離は、親子の距離をそのままにしたものだ。
すぐに離れてしまった女性は、赤く腫れた足を引きずって闇に溶けていく。
ずっと息子を探し彷徨い続けるのだろう。
しかしそれも、今日だけの話だ、とあさひは知っている。
次第に記憶が薄れ、息子がいたということも忘れてしまうだろう。
だから今、彼を会わせたのだから。
あさひにはできなかった、親との最後の別れだ。
残り四時間ほどだ。
あと四時間を過ぎれば、あさひは太陽の魔女として使命に動かなければならない。
もう敵はいないのだろうと考えてはいても、白兎だけだとはまだ決め付けられないのだった。
そもそもの話、あさひは太陽の魔女を狙う存在こそ知っていたけれど、なぜ狙われるかまでは知らないのだ。
太陽の魔女を殺そうとすることがいったいどうなるのか知らないのかもしれないと予想していたが、白兎の態度であさひは確信していた。
太陽の魔女が何をするものなのかまでは知らなかったのだ。
きっと何者かにそそのかされやってきたのだろうけれど、白兎が知っていたのは、今日だけはあさひが魔法を使わないということ。
太陽下でなければ魔法が弱まるとも思っていたようである。
片方は間違っていたとしても、騙されていたのか、それともそそのかした本人も知らないだけなのかもわからないが、もっと重要な、太陽の魔女の使命を知らないというのはあまりに危険だ。
太陽の魔女の使命は全人類の救済のようなものだ。
もちろんその中に魔法士たちも入っている。
白兎も救われる側だったのだ。
あさひを殺してしまうということは、救済が叶わないということ――それは人類の滅亡を意味する。
そんなこと、だれが好き好んでするというのだ。
望んで死に向かう、死滅願望を持った狂人でもなければ、そんなことをするはずがないのだ。
「……」
母の背を見送る少年の背を、あさひは見ていた。
手を繋いだままだったから、彼の体の震えが直接伝わってくる。
彼が持っていた死にたくないという願望は、あまりに強すぎて壊れていたものだったが、死滅願望はいかに弱くとも壊れきった願望である。
しかし、いま彼女を襲うというのならば、そんな人物でなければありえないのだった。
そんな人物が本当にいるのか――あさひはいま、使命のために死ぬわけにいかないと考えている。
人の皮を被った魔法は、自身を維持するために動いている。
人でなくとも、死ぬわけにはいかない、消えるわけにはいかないという意志はあるのだ。
さあ、とあさひは手を引いた。
これ以上ここにいても何もないのだから。
軽く力を入れた程度だったのに、その腕は簡単にあさひについてきた。
腕は人の体にぶら下がっているもので、腕の長さより下には落ちない。
人体の構造として当たり前のことである。
あさひは腕にかかる重さに驚く間もなく、軽く石がぶつかった程度の衝撃を右の横太ももに感じた。
手をつないでいたはずの白い手袋――握り返されることはないが、あさひは不自然に脱力した手のひらを見下ろした。
肘までもなくぶら下がった彼の腕先は、ひたひたと血を垂らしてあさひに吊り下げられたいた。
「あ、ああ、あ――」
先のなくなった腕を掴んで、彼は表情を歪めた。
「死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――」
あさひは混乱して手を離した。
雪が圧されてシャリと音を立てる。
ただ壊れていく彼の姿を見ることしかできなかった。
しかしそれも数秒、あさひは攻撃されたのだということも忘れて、彼を助けるために動き始める。
「死にたくない、死にたくない!」
そこに魔法の姿はなかった。
それは魔法にある、消えるわけにはいかない自己維持の本能ではない。
《空木木葉》にあった、過剰な生存願望である。
魔法にはあまりに例外が多いことを知っているあさひは、過剰な生存願望が魔法使いになる魔法化に著しく影響を与えたのかもしれないと想定した。
そんなはずはないからと、彼が《空木木葉》であることを否定しようとしていたけれど、もう彼がただの人の皮を被ったものだとは考えられない。
名前は失ったけれど、彼はやはり彼のままだったのだ。
止血しなければと火を出したあさひは、風を切る音に気がつき後ろに飛び引いた。
ほぼ同時に転がり避けた彼は、胴体を真っ二つにされても泣き喚いたまま立ち尽くしている。
「久しぶりやねえ、太陽の魔女。ああ、ごめんなさいね。あんたに会ったこと自体は初めてや。ってことは久しぶりっていうのってすごーく変やんね、撤回するわ。初めまして、太陽の魔女。ご機嫌いかが」
彼の姿をかたどっていたいた魔力の奔流が、霧のように散っていく。
あさひはその光景に息を飲んだ。それが彼の魔法なのだとすれば、たった一つの魔法しか使えない魔法使いにできることではない。
「おもしろいことをしたわねえ、太陽の魔女。さすがにうちでもそんなことは思いつかんわ」
彼は確かに二人いた。
それは間違いなく魔法だ。
どういう魔法なのかまだ予想がつかないけれど――あさひが変だと思ったのはそれである。
確かに彼女が手をつないでいたのは一人だ。
腕を切り落とされた段階でも、一人だった。
分身したのはその後だったのだ。
分身を作る魔法ならあさひでもできるけれど、それはただのコピーでしかない。
もし怪我をした状態で分身を作り出したとすれば、その分身も同じ傷を負っているのだ。
それが分身を作る魔法の決まりごとである。
いくら例外の多い魔法でも、水中では火を出せないような、そんな単純な決まりはあるのだ。
「まあたしかに、考えてみると気になるわ。うん、あんたがしていなかったらうちがそのうちやってたかもしれん。あんた天才なんちゃうか? 魔法士を魔法使いにしよなんて、普通思いつかんしなあ」
やっとあさひは、好き勝手話し続ける存在に目を向けた。
電柱の上に座り、足をぱたぱたと遊ばせている。
真っ赤なリンゴを齧り、何度か咀嚼して吐き出すその行為に意味が有るのか気になるところだけれど、あさひはそのブロンドの髪を揺らす少女がただの魔法士ではないことにすぐ気がついた。
もちろんのことながら、少女は魔法使いでもない。
「あなた、何者……?」
「まさか、魔女が自分だけだなんて思ってたん? 太陽の魔女」
いつの間にか雪がやみ、雲の切れ間から月の光が差し込んでくる。
その淡い光は立ち上がったもう一人の魔女の姿をはっきりと浮かびあげた。
あさひは言葉を失った。
それは病だと言われても信じることはできないほど細い体だったからだ。
肉もなく、もしかすれば骨もないのではないかというほどの腕と足が、どう支えあっているのかわからない奇妙なバランスで成り立っている。
しかし顔だけはつやつやと、その噛み合っていない不気味な体で身の丈以上の鎌を背負っているのだ。
「魔女同士だからって親しみを持たんといてや? うちは太陽の魔女が大っ嫌いやし。死んでもらわんと、いつまでたってもうちは死ねんから。いろんなやつにやらせるつもりでおったけど、結局どいつもこいつも役に立たん役立たずばかりな気がしてなあ。やっぱり、自分でやらんとって思って」
「あなたが白兎を向かわせてきたのね」
「そやね。これから世界を滅ぼそうとしてるって言えば、すぐに飛んで行ったわ。あの子の魔法、なかなかいいものやったんやけどねえ。自分の群れを作る魔法なんて、うちも欲しいくらいやわ」
背負っていた鎌に手を伸ばし、彼女は乾いた笑い声をあげた。
「っ!」
と同時、電柱を蹴り一直線に空を走るもう一人の魔女は、一閃、闇を切り裂いた。