月光の魔女 ②
30
「魔法士を魔法使いにするなんて、普通思いつかんしなあ」
見ず知らずの少女の言葉は、僕を納得させた。
ずっと、わからなかったことだ。
気づかないふりをしてきたことだ。
でもそのことは、自分が魔法士であったのなら――魔法がひとつ使えたのだとしたら納得のできることだった。
ただ、死にたくないと思っていることは本当だったし、それ以外を考えないようにしてきただけだ。
今でも覚えていることがある。
その怪我はきっと初めてではなかったのだろうけれど、僕の記憶の中では、自分が怪我をしたのだとわかった初めての出来事だった。
なにを追いかけていたのかまでは覚えていないけれど、アスファルトに盛大に転んだ僕は、膝を真っ赤にして母の元へ帰ったのだ。
痛みを我慢しようと思うと、自然と痛みが引いていく。
我慢強いということはなかったが、そうすれば痛みは引いていくと思い込んでいたのだと思う。
母に見せると、小石や砂利が刺さったままだったようで、母はカッターナイフを持って風呂場に行けと言ったのだ。母は泣きながら言っていた。
「母親失格よ、こんなこと」
既に塞がった傷口を開いて、シャワーでゴミを流していく。
傷は塞がったけれど、小石や砂は皮膚の内側に飲み込まれていたのだ。
それからだったと思う、僕が怪我をしてはいけないのだと思ったのは。
それから何度も怪我をした。
いくら気を配っても、回避できなかった危険はある。
その度僕は、怪我をしなくてよかった思うことで平気だった。
小指をぶつけて爪が剥がれたような感覚があっても、でもきっと大丈夫だなと血だらけの靴下を脱げば、綺麗な小指がある。
それが普通だったのだ。
何かもう一度くるかもしれないと思い、しかしまた同じことように勝手に動かない方がいいかもしれないと思い――。
僕は回避した。
僕は静止した。
そして気がつくと、失ったはずの右腕は戻っていたのだ。
小指の怪我が戻ることと同じだ。
何も、変わったことじゃない。
そのことを忘れるはずがないのに、当たり前のことだったのに、僕は一体なにを恐れていたのだろうか。
どんな怪我をしても平気だと知っているのに、どうして僕は、一体なにを――。
そんなこと、とっくの昔に知っていることだ。
きっと全身が一瞬にして消しとばされでもしない限り、僕は死んだりしないだろう。
病気の本もたくさん読んだけれど、そもそも僕は風邪をひかないことに気づいた。
とすれば、僕を殺すものはたった一つだ。
寿命である。
人が避けては通れない、人間の終着点だ。
怪我をしても死なない。
病気でも死なない。
そんな僕でも、寿命からは逃げられない。
そのことに気がついてから、僕は壊れたように死を恐れるようになった。
死そのものが、怖くなった。
その程度で死ぬはずもないのに、もしかしたらと思うと考えられなくなった。
寿命というものがあまりに曖昧すぎて、それが老いではなく、決められたタイミングでパチリと電源が切れる電気ポットのように定められたものだとしたらと考えると、もうなにもできなかった。
驚き硬直し、しかし体を無理に動かしている太陽を見て僕は思う。
彼女はやることがあるのだ。
それを邪魔するものがいる。
殺されるわけにはいかないと、死ぬわけにはいかないと彼女は動いている。
死ぬわけにはいかないのに、避けながら向かう先は僕だった。
僕を守るために、彼女は腕を伸ばし押し倒そうとしている。
横薙ぎの一閃は首を狙った迷いない一撃だった。
あらかじめ太陽の首がそこに来るとわかっていたように振るわれた闇を切り裂く斬撃に、彼女の首は吸い込まれるようにして流れていく。
僕を押し、僕を守るつもりなのだろうが、それと同時に彼女の首は切り落とされてしまうだろう。
そのことに気がついているのは、鎌を振るう少女と、先を予測している僕だけだ。
ならば、僕が動かなくてはならない。
怪我をしても平気だということは思い出したけれど、それでも体に染み付いた恐怖感は簡単に消えたりしない。その恐怖感を克服しなければ。
守ると言って、そして今も僕を守ろうとしてくれている太陽にお返しをしなければ。
「「今の僕ならできるじゃないか」」
柄の長い武器を振り回すように使えば、先端ほど威力が大きくなる。
それは遠心力によるものだ。
軽い力で振り回しても、それ以上の力が収束される。
一度先に重りがついた長い棒を振ってみるとわかることだが、ずっと力を入れることは不可能なのだ。
振り回し始めに込めた力で、勢いは変わるのである。
もしそれ以上に力を入れようとしても、すでに加速した先端は勝手に動いて、力が追いつかない感覚がわかるはずだ。
遠心力で自分の力を超えてしまい、支えているのが手一杯になるだろう。
だから、もう振り下ろされる過程に入ったのならば、持ち手を押すだけでいいのだ。
支点を固定するだけで、その鎌は狙った軌道を進めなくなる。
「あぁ!」
閃は中途半端に途切れ、しっかりと握っていたからか、鎌を握っていた少女の手首は歪んでいた。
思わず離した鎌は勢いをそのまま地面に突き刺さる。
僕は攻撃を阻止できたのだ。
もう理解していることだ。
僕ができることはひとつだけじゃないと。
守りにきた彼女の腕を掴み、距離を取った。
もしも失敗したときのためにと、攻撃が当たるかもしれない範囲を避け、頭を下げて回避する。
「いたぁい! 信じらんない、女の子の手首を折るなんて、信じらんなぁい!」
笑って、少女は言った。
痛くないことはないのだと思うけれど、痛みを苦しみだとは思っていないようである。折れ曲がった手首を振って、ミシミシと嫌な音を鳴らしながら元に戻していた。手首が無事戻ったことを確認し、彼女はブロンドの髪をかきあげて「ふう」と息を漏らした。
「どうして彼女を襲うんだ」
僕の腕の中で、まだ何が起きたのか理解しきれていない彼女は、慌てて僕を振りほどき立ち上がった。
「そうよ。本当に、あなた一体何者?」
僕は一度選択した。
回避した体を残し、攻撃に向かった体を消去する。
消えていく体を、なんだか羨ましそうに見つめ舌舐めずりをしているので、白兎の舌を思い出し少々嫌な気分になったが。
「あら、ごめんなさい」
どうやら顔に出てしまったらしく、もう一人の魔女は謝罪した。
それ以前に謝ることはあると思うけれど――なにせ腕を切り落とされ、胴体も真っ二つにされたのだから。
「うちは月光の魔女。世界にたった二人の魔女のうちの一人や。太陽の魔女を殺したいのは、まあ、さっきも言った通りやね。死にたいんや。太陽の魔女が動いたらうち死ねへんやろ? それってすごく迷惑やわ。何も食べんくたって、肉こそ減っていくけど、死ねんから」
「……」
何と言えばいいのかわからなかった。
死にたいという彼女の表情に嘘はなかったし、しかし太陽が動くことで死ねないという意味がわからない。
「あら、配慮が足りてなかったわ。うちのことは光ちゃんって呼んでな」
「……光ちゃん」
別に呼び方に困っていたわけではなかったが。
「呼ばなくていいの」
太陽に言われてしまい、僕は「わかってる」と手を振った。
話を戻せば、太陽が動くことで光ちゃんが死ねなくなるという話だが、ということは太陽がこれからすることは、生死に関わることなのだろうか。
とても小さな話には思えない。
僕はただ、襲われるから逃げているだけなのかもしれないとか、何かしなければいけないことがあるのだろうとか、守られるだけだからしっかり考えなかったけれど。
「日が昇るまでもう四時間は切ったやんね。こうしましょ」
光ちゃんはにっこりと笑って、その動きに殺意はなかったから、僕は何もできないまま腕を掴まれる。
「離れて!」
太陽は慌てて声を荒げたが、光ちゃんは手のひらを見せて制止する。
「落ち着いて、落ち着いてってば。なんも食べたりせーへんよ。ちょーっとこの子の体が気になっただけ。魔法士の魔法使いやなんて、隅々まで調べてみたいわ。魔法化はされているみたいやけど、人格は残ってるみたいやしねえ」
頰に指を這わせ、それは人の指でもなく木の棒を押し付けられているようだったが、麻痺したように体が動かせないでいた。
それは洗脳によるものでもなく、言うことを聞かなければならないという使命感のようなものがあったからだ。
「待って、月光の魔女。あなたが狙うのは私だけ、私だけでいいはずよ。だから彼は離して。彼は関係ないのだから」
「嫌や」
ときっぱりと言った。
反射的に火を出した太陽を見て、光ちゃんは指を立てる。
ゆっくりと動く指先は、僕のこめかみを指差して止まった。
太陽は唇を噛み火を消すが、殺気の込もった視線だけは隠さない。
「いい? よーく聞いて」
背伸びをして耳に唇を近づけたまま、光ちゃんは言った。
「今からうちについてくるか、太陽の魔女につくか選んでちょうだいな。ああ、いや、選択しちゃいかんよ? 分岐するだけや。君は可能性を見るだけやからね」
言われるがまま、僕は先を見た。
光ちゃんの手を離れた僕と、捕まったままのぼくが同時に存在している状態になる。
「すごぉい!」
と手を叩いて光ちゃんは喜んだけれど、ぼくはただ不安だった。
手を離れたのだから、そのまま逃げ出したかったけれど――。
「もう一度言うけど、選択しちゃいかんからね。太陽の魔女はもうわかってると思うけど、魔法使いは月光の魔女の言うこと拒むことはできひんから。うちの命令は絶対や。これから太陽の魔女が何か言ったところで、うちの命令は覆されへんからね」
「…………それで、何をさせるつもり?」
解放された僕の腕を引いて背中に隠し、彼女は問いかけた。
「三時間後、町の東にある山、昇山に来な。それまでこの子は預かっておくから。まあ人質やと思っといて、殺したりはせーへんけど。殺してもあんた側に選択が移るだけやからね。もちろん、あんたは片割れのこの子を放って、使命を果たしに行っても構わんけど。その場合、彼はずっと分岐したままになるってこと忘れたらあかんよ。分岐の片方は平穏無事に生きていけるかもしれへんけど、もう一人、うちのそばにいる子はひどい目にあうかもしれんわ。ああ、ちょっと待って、あんたについていく方も、あんたがいなくなればフリーやんね。うちが貰いにいくわ。そういうことにしよ」
「……わかった。三時間後ね」
「ちょっと待ってくれ!」
僕は太陽の肩を掴んだが、彼女は振り払って頷く。
「これから三時間、あたしはあんたに何もしーへんって約束するわ。ええ、うちって約束だけはしっかり守るタイプやから。三時間じっくり、この子のこと調べさせてもらうわ。ほな、待ってるから」
「心配しないで」
と、ぼくは太陽を気遣って言ったが、彼女の耳には届いていないようだ。
細い棒のような腕で掴まれ、力も込められないまま体が浮き上がる。
小さくなっていく二人の体は、すぐに待の風景として溶け込んでいく。
僕は、これ以上先のことを予測できない。自分の予測の限界がはっきりとわかった。
選択しない限り、分岐を選んだ後でなければ、次の分岐には入れないのだ。
「二人きりやね」
その顔だけはただの少女だけれど、ぼくは不安に思うだけだった。




