発現 ②
27
「追え! 追え! 追え!」
建物から聞こえる怒声に怯み、僕は扉を開いたまま駆け出した。
外に捨てられるように放ってあったカバンを拾い上げ、ふらつきながらも先を見続ける。
顔を避けるように流れていく雪は肩に積もり、避けきれなかった鈍臭い雪が顔に張り付いてきた。
ローブの袖で拭うと、じんわりと水滴になり、その冷たさに頰の肉が痺れている。
白兎の声は外にいた複数の白いローブの耳に届いていて、僕はすぐに囲まれてしまった。
正面に二人、後ろに一人だ。
素直にいくなら後ろを選ぶべきだが、それでは白兎がいる方角に戻ることになる。
それはあまりに危険だ。
もうすでに僕のいる方角に向かってきているに違いない。
「逃がすな!」
振り返る余裕はない。
もうすぐ近くまで来ている。
前の二人を抜けて、先に進まなければならない。
障害が二つになった程度で、僕の判断力が乱れることはない。
障害がひとつだけだったことの方が少ないのだ。
ひとつの危険を避ければその先に倍の危険があることがよくある。
その先を見て障害を全て回避するために、判断力だけは研ぎ澄まされていたのだ。
僕は後ろの障害をないものとした。
今関係のあるものは目の前の二人の白いローブのみだ。
腕を広げて掴みかかってくる左のローブと、それから避けた僕を捕まえるために構えたまま待機している右のローブ。
同時にこなかったことだけが救いだった。
同時でなければ、それはひとつひとつの障害に過ぎない。
ひとつの障害を乗り越える程度、今の僕にならどうにでもできる気がした。
掴みかかってくる左のローブは、おそらく右利きなのだろう。
右腕を上げて、左腕を下にして飛びかかってくる。
狙うならば上がっている右腕の下である。
そこは安全だ。
危険性はない。
そこに足を踏み込み、まずは一人目を突破する――。
『右腕は下にある!』
それは人に許されていい動きではなかった。
そこにいる三人の白いローブは、三人が同時に右腕を下に構える。
僕はすでに足を踏み込んでいた。
腹の前に腕が滑り込んでくる。
もともとそこにあったというように理が屈折し、自分の勢いで腹部に衝撃を受けた。
折れ曲がる体はそのまま雪の上に叩きつけられてしまう。
僕は頭を振って、顔に跳ねた雪を振り払いすぐに危険を確認した。
それはやはり、人と言っていいものではなくなっている。
肩は上を向いているが、その先の腕だけが下に生えていた。
分身である彼らにとって、白兎の命令は絶対である。
白兎が叫んだ命令は、理を捻じ曲げて正しいものとなった。
「確かに貴方は人間だったはずだ。つい先ほどまでは、ただの人間だったはずだ。魔力をほぼ感じなかったのだから、私の感覚に間違いはないはずだ」
起き上がろうとしたところを、後ろ首に手が伸ばされ押さえられてしまう。
後ろにいた白いローブの仕業だ。
「魔法使いの契約には工程がある。魔女に名を告げ、魔女がその名前を唱えること。あの一瞬で何をしたのだ。魔女は近くにいなかったというのに! なぜあのタイミングで! ああ、ああ、ああ!」
まだ血が止まっていない腕を齧っても、彼の精神は安定しない。
血の川ができた腕で頭を掴まれる。
すぐ目の前の雪が赤く染まっていった。
血の気が引いていく感覚がはっきりとわかった。
自分の血でもないのに、まるでそれが自分の血であると錯覚してしまう。
「僕は関係ないだろ!」
そんなこと言うつもりはなかったのだ。
ただ、ずっと想像してきた死が、目の前の赤い雪に現れているようだったから。
そのまま雪が溶けその下に、死が埋もれていると想像してしまったから。
「僕から手を離せよ! あの魔女を殺しに来たんだろ! なんでそんなことをするか知らないし、あの子が何か悪いことをしているのかも知らない! どっちが悪いかもわからない僕なんか放っておいて、あいつを殺しに行けばいいだろ!」
「おや」
頭を掴まれたまま持ち上げられる。
にんまりとした醜い笑みが、すぐ目の前にあった。
伸ばされた汚らしい舌が、うねりながら頰を撫でていく。
砂利のようなざらざらとした舌は、鮮やかな赤の血を掬い上げ口に運び戻っていった。
「ああ、ああ、ああ」
舌を転がし、喉を鳴らした後、しばらく恍惚な表情を浮かべていた白兎は、左の小指で僕の眉間を差した。
「貴方、太陽の魔女のことを何も知らないのですねえ」
チクリと刺すような痛みの後、鼻の頭を雫が垂れる。
「契約したのですよねえ?」
「知らない。離せ」
「先程のあの妙な現象、いったいどのような魔法に使われているのです?」
「知らないって言ってるだろ!」
急に興味をなくしたように手を離され、僕は膝から雪に落ちた。
腹部への衝撃がまだ体に残り感覚を麻痺させている。
腕をついて顔が雪に沈むことだけは避けたが、洗脳されていた時とは違い動かせるはずなのに、動かしたくないと脳が勝手に拒否してしまっているようだった。
四つん這いの横腹を蹴り上げられ、僕は結局雪に転がった。
仰向けに空を見上げていると、ひらひらと雪が降ってくるだけで、真っ暗な空だった。
青空でもなく、ただ黒い空だった。
もう日付も変わっただろうから、明るくないのは当たり前だが、星も見えない夜空はなんだか寂しいだけだ。
「僕は関係ないのに」
守ってもらえるはずだったから、僕は彼女についていっただけだ。
だからこうして痛い目に遭っているのは彼女のせいに違いない。
そうやって人のせいにしなければ、落ち着いていられない。
白兎が毛を噛むように、僕には気を落ち着かせるものがないのだから、そうするしかなかったのだ。
「あの子のせいだ」
そう言うしか、なかったのだ。