第十章 有我と無我(3)
夏休みの校舎は閑散としていた。平日の騒がしさが嘘のようだ。
遠くから、校庭で遊ぶ生徒のはしゃぐ声がする。その楽しそうな声をうらやましそうに聞いていた。
山岡精太郎は仲町小学校で今日も仕事をしていた。生徒は夏休みでも教師はそうではない。倉庫の備品の整理や休み明けの授業の準備、勉強会など、公務員は忙しいのだ。
空手をやっているからか、力仕事をよく教頭から押しつけられる。
今も教材の整理をしている最中だった。
両手で紙束を抱え、西校舎に運ばなければならない、北校舎の昇降口を抜け渡り廊下へ出る。
そのとき突風が吹き抜けていった。
涼しい、実に心地よい風だった。今日は本当にいい天気だ。校庭で子供たちが蹴り野球をやっている。山岡は仕事を放り出して一緒に遊びたい気持ちになった。
教師をやってよかったと心から思っている。
生意気な子供たちを相手にするのは大変だが、どこか自分には、ずっと子供の気持ちでいたいという願望があるのかもしれない。
しばらく遠くの子供たちを眺めていたが、さすがに本当に遊ぶわけにはいかない。歩き出そうとしたそのときだった。
ふと目を向けた校舎の角からこちらへ駆けてくる者がいた。
子供ではない。大人だ。
すぐ山岡の前まで迫ってくる。手にはナイフを持っているのが見えた。
――そうか。
山岡は腑に落ちた。
――そういうことだったのか。
自分が今まで空手をやってきたこと。ずっと勝てないでいた浅利のこと。全部このときのためにあったのか。
山岡はだらりと力を抜き、紙束を落とした。
また風が吹き抜け紙を巻き上げていく。
視界を遮られながらも感じていた。心が澄みわたり、身体は喜びに湧いていた。
鋭く突き出されたナイフを回し受けでさばく。稽古で何万回も行ってきた動作だが、今の山岡にはとても新鮮に感じられた。そのまま静かに鳩尾へ突きを入れた。
舞い上がった紙は散り散りになり視界が晴れていく。
そこには男が一人倒れていた。




