第十章 有我と無我(2)
二人の間に緊張が走る。特に上泉は微動だにせずその男の様子を見つめていた。
鉤鳥は昨日と同じ足取りで公園を横切っていく。珪たちの隠れているトイレのそばを通り過ぎた。声をかけるなら今しかない。
「すみません」
上泉の手を引き、珪が後ろから声をかけた。
「やあ、何か会えそうな気はしていたよ」驚いた様子もなく鉤鳥が顔を向けて言う。
それを見て、珪も昨日の恐さが蘇ってきたが、上泉の手前心を奮い立たせて言葉を続ける。
「ちょっとだけお話いいですか? 急いでますか?」
「いいや、話に付き合ってくれるなら僕も歓迎だ」
おい……、と珪は後ろの上泉を呼ぶ。反応はない。
珪が振り返ると、そこにはひどく怯えた上泉がいた。脚はガクガクと気の毒なくらい震えている。こんな上泉は初めてだった。怯えるにしても程があるだろうと言いたいくらいの怯えようで、それを見て逆に珪は冷静になれた。
何が、死にゆく自分を想像できる? ――だ。
――平生何程口巧者に言うとも、死にたることのなき侍は、まさかの時に逃げ隠れするものなり。
珪は武士道の言葉を思い出すくらいの余裕が出てきた。
頭の隅にわずかに不安がよぎるが珪はそれには触れないよう、考えないよう努めた。
「本当はこいつがあなたに言いたいことがあったんだけど、今は言える状態じゃないみたいで」
「いいさ、また後日でもね。ところで君は僕に言いたいことはないのかい?」
言いたいことか……。珪は頭を巡らせる。言いたいことは色々ある。上泉の代わりに、なぜあのとき刺したのか訊いてやろうかとも思ったが、それを訊くのはやはり上泉であるべきだと思ってやめた。それ以外なら――。
「なぜ、僕と話がしたかったんですか?」
これはずっと疑問だった。
「それはね……、君は僕とよく似てるからだよ」
似ているだって――? こんな犯罪者とおれが? どこが?
「そう怒るなよ」珪の心を見透かしたように鉤鳥は言う。
「君からすると似てないと感じるのも無理はない。君は昔の僕とよく似ているんだ。君にとっては未来のことだからわからなくとも、僕にとっては過去だからよくわかるんだよ」
自分だけ一方的にわかっているというのか、気分悪いな。珪は癪に障ったが黙っていた。
頭の片隅に追いやった不安が再び顔を出してくる。この不安の正体は気になるが、本能的に考えてはいけない気がした。
「勝手に決めるな! おれはあんたみたいにはならない!」
不安を振り払うように珪は叫んだ。
「なあ、僕を怒らせるなよ」
鉤鳥の表情が曇っていく。ふと上泉の方に目をやると泣きそうな表情で怯えたままだ。
それを見て、珪はずっと遠ざけていた先程からの不安の正体に気づいてしまった。
なぜ上泉はこれほど怯えているのか。自分よりも武術が上手で覚悟もできている上泉が、だ。自分も同じく怯えてしまっているならわかる。それだけ鉤鳥が異常だということだ。だが自分はそうではない。あまり認めたくはないが、上泉よりも本来劣る自分がなんともなくて上泉が震えているのなら、それは上泉が感じ取っているものを、自分が感じ取れていないだけなのだ。それはたぶん身を守るために必要なもの。この男に近づくなと教えてくれているのだ。
珪は足が震えてきた。この不安を本能的に遠ざけようとしたのもわかる。一度これに気づいてしまったら、もう恐怖で動けなくなるからだ。
上泉を連れて逃げなくてはならない。完全に動けなくなる前に!
「珪君!」
上泉の叫びとともに、鉤鳥が襲ってきた。ナイフを持って突進してくる。
珪は両手でその手を受け止めた。とても躱せるスピードではなかった。
そのまま珪は押し込まれる。技など何も使えない。少しでも気を抜けばそのまま胸を刺されるだろう。珪は押されまいと必死に堪えていた。
そのとき鉤鳥は一瞬で身を反転した。珪は勢いあまって前方に放り投げられる。
それでも即座に受け身を取って立ち上がった。今の投げ技は何だ? あの動きは本来力の弱い自分こそがやりたい動きだった。鉤鳥は本能で動いたのか。いや、まさか……。
「もう少し話をしよう。君は何か武道やっているだろう。そしてそれを嫌々やってきた。違うか?」
ナイフを持つ手をぶらぶらさせながらそう言う。鉤鳥は続けて攻めてはこなかった。
「……」
鉤鳥が何を言いたいのかわからず、珪は黙っていた。
「僕もそうだ。小さいころからずっと剣道をやっていた。やらされていたんだ。痛いし恐いし、でも両親は厳しかったからやめさせてはもらえなかった……。中学になったらさらに柔道もやらされた。首は絞められるわ、剣道以上に痛かったよ」
「嫌々やらされていたなら、そりゃ嫌な思いしか残らないだろ」
珪は柔術の稽古をさぼっても何か言われるわけではなかったが、休まず稽古に出て欲しいという両親や祖父の願いは感じていた。だから仕方なく稽古に出ていた。それはある意味やらされていたとも言える。
だが、かつてはそうでも今は違う。今は自分がやりたいからやっている。上手くなりたいから稽古に励んでいる。祖父や先輩方が目指すものに自分も近づきたかった。
「ああ、そういうことだ。そして僕は大人になり、その頃は剣道も柔道もやめていたが、ある日仕事で上手くいかず、もうすべてがどうでもよくなった。だから何かとんでもないことをしてやろうと思ったんだ。目の前にはたまたま道場があった。僕は土足で上がり込み、最初に会った誰かを刺そうと決めていた。そして通りかかった女の子の片目をナイフで思い切り突き刺した。そのときはたまたま道場があったからと思っていたけど、後になってよく考えると、子供の頃にやらされていた武道に対する憎しみがあったのかもしれない。まあ、そういうわけだよ。上泉命ちゃん、僕は君には感謝している。君を刺したおかげで僕は生まれ変わることができた」
「何を……」
上泉の声がかすかに聞こえた。
「あんたはその後、その道場のお弟子さんに半殺しにされたんじゃなかったか」
「ああそうだよ。でもそれさえも僕は可笑しかったんだ。壊れた身体が可笑しくてたまらなかった。僕はわかったんだ。心も身体もブレーキなんてかけちゃいけない。心と身体の望むままにさせてやることがこんなに幸せなことだなんてね。きっとそれが奥義なんだよ。あんな柔道も剣道も必要なかった。君たちに一つ見せてやろうか」
そう言うや珪の眼前に鉤鳥が迫り、一瞬で消え去った。珪は訳がわからず一歩も動けず立ち尽くしていた。
ドサッと音がして後方を振り返るとそこに鉤鳥が倒れていた。珪は首に手をやり、恐る恐る掌を開いて見たが、血はついていなかった。
珪はほっと胸を撫でおろす。転がっていた鉤鳥はゆっくりと起き上がった。
陸前流の稽古の基本動作ではいかにぶれない体軸を作るかが大事であり、故にバランスを崩して転がるなどもっての外だった。だが、一対一の戦いならばこんな動きもありなのか。そもそも鉤鳥は右足が不自由なはず。その不自由さをものともせず、右足の踏ん張りが効かないならそれはそれで、こんな突き抜けた動きができるとは、珪は度肝を抜かれた。
「ここで相手に怪我をさせないようになんて思ってはだめなんだ。それで心も身体も固くなる。当てないようにやったつもりだけど、当たったらそれはそれで構わない。そういう気持ちが大事なんだ」鉤鳥はゆらゆらと立っている。
「今の攻撃を君は躱せるか? 道場での稽古なんて必要ないんだよ。君はとても苦しそうだ。もっと楽になったらいい」
今の鉤鳥の動きは武道館の誰よりも速かった。もはや動きの次元が違う。人間技ではない。珪は犬や猫のような、獣の動きを連想した。
「そうすれば、僕みたいになれるよ」そう言って鉤鳥はまた屈託なく笑う。
こんな怪物を前に自分はどうするればいいのだろう、珪は自問するも答えは出ない。
「身体だけじゃないぞ。相手の心だってある程度読める。これも武術家なら必要なことじゃないか?」
たしかに鉤鳥は今までの会話でもこちらを見透かすようなことを何度かしていた。
「たとえば君たちは仲町小学校の生徒でいいのかな?」
「――っ」
それを答えるわけにはいかない。学校の誰かが襲われることになる。
「知らないな……」なるべく感情を込めずに珪は言った。
「確定だな。君はもっと気の遣い方を勉強するといい。昨日、僕が何回君のそばを通ったか知っているかい? 八回だ。一度なんて君の鼻をつまめるくらいのところまで近づいたんだぞ。僕はもう笑いを堪えるのに必死だったんだ」そう言って大笑いする。
「難しいことじゃない。気ってのはそのまま意識のことだ」
そう言うと鉤鳥の表情は歪み、その殺意を飛ばしてくる。珪はプレッシャーを感じ腰が引けてしまう。
「でもこのまま攻撃しても君にばれてしまうから意識を消すんだ」
すっと鉤鳥の顔が眠ったように穏やかになる。
「これでもう君には、僕がいつ攻撃するかわからないはずだ」
ゆらりと一歩、鉤鳥が間合いを詰める。
ここで死ぬのかなおれは……。珪は思う。
このまま上泉を置いては逃げられない。友達をかばって死んだなら、父さんは褒めてくれるだろうか……。
「安心しなよ。僕は腹を立ててなければ君たちを傷つけようと思わないから。それより……」
また一歩詰める。
「君の名前を教えてくれるかな」
名前など知ってどうしようというのか。
「僕の名前は知っているんだろう? 鉤鳥有我だ」
こいつに名を知られていいことなんてない。今逃げおおせても、何か調べていつか襲うつもりなのか。
「神子上、珪だ」
極度の緊張で朦朧とした意識の中、答えたのには深い意味はなかった。上泉は名前が知られていて、自分が知られていないのは、何か不公平な気がしただけだ。
「そうか、ミコガミ君か」
何度もその名を繰り返しつぶやく。鉤鳥は何やら納得したように深くうなずく。
「じゃあ、もう帰っていいよミコガミ君。君と話せてよかったよ」
鉤鳥の不気味な気配は消えた。
「また話を聞きたくなったらいつでもどうぞ」
これで解放されるのか――。上泉と二人で怪我もせず帰れるのか。
上泉の方を振り返る。上泉にも明らかな安堵が見えた。震えも収まっているようだ。珪もほっとした。
「なにせ君の将来の姿がこの僕なんだ。これからも仲良くしようじゃないか」
ほっとしたが――。
――君の将来の姿がこの僕なんだ。
これだけは、聞き捨てならない言葉だった。
たしかに自分は素直でもおとなしくもない。親や先生の言いつけも守らないし、何度も友達とケンカもした。女子をからかって泣かせたこともあった。でも、こんなやつと……、こんなやつと一緒にされるのか……?
屈辱だ。
こんな侮辱を受けて、この先どう生きていけばいい。
上泉の前に立ち。珪は鉤鳥を睨みつけた。
「おれはあんたとは違う! どんなに嫌なことがあったって、自分の憂さ晴らしに無関係な人を傷つけたりなんか絶対しない! 強い弱いは関係ない。おれは生涯、絶対にあんたのようにはならない‼」
「いや、そうなるよ。そう言うやつに限ってなるものさ」へらへらと鉤鳥はそう言葉を返す。
「ならねえよ、絶対に。あんたみたいな……、あんたみたいなやつになるくらいなら、おれは死んだ方がましだ‼」
「ミコガミ君、言ったろう? 僕は腹を立ててない限り君らを傷つけないって。せっかく怪我せず帰るチャンスじゃないか。僕を怒らせてどうする」再び鉤鳥の表情が曇る。
「謝れよ。そうすれば僕は君たちを気持ちよく帰してあげよう」
「上泉……」振り返らずに言う。後ろの上泉はまた震えているだろうか。
「走って逃げろ!」
鉤鳥が動いた。珪にはそこまでしか見えなかった。足も身体も固くなって動かない。防ごうにも何も見えないのだ。どうしようもなかった。
意識だけは集中していたためか、真っ白い景色で何かがゆっくり動いている。鉤鳥なのか、いや小さな背中が見えた。
光が消えてゆく――。
大きく上体を反らした鉤鳥が真っ逆さまに落下する。
ゴッとなにか鈍い音が聞こえた。
鉤鳥は仰向けに倒れ、上泉の後ろ姿が見えた。
上泉がやったのか。
鉤鳥は呻きながらも立ち上がれずにいた。
「走るぞ!」
珪は上泉の手を取って全速力で走った。




