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第十章   有我と無我(1)

 翌日、珪は上泉との約束の時間に遅れていた。昨日はあの後すぐに横になって休んでしまった。こんな状況だからこそ、稽古には行かなければと思ったのだが、体力も気力も空になっていた。稽古を休んでしっかり睡眠をとったはずなのだが、それでも今朝はひどく身体が重い。立って懸命にペダルを漕ぎながら、待ち合わせにしている本屋へ向かっていた。


「すまん。遅れた」

 上泉はすでに着いていた。上泉も早朝の新幹線で戻ってきたなら疲れがあるかと思ったが、元気そうに見えた。

 上泉は珪を見るや驚いた様子で言う。

「珪君どうしたの? 具合悪いの!?」

 そんなに驚かれるほどひどい様子なのかと戸惑うも、昨日のことを急ぎ伝えなければならない。

「昨日、(かぎ)(とり)に会ったぞ……」

「嘘、なんで! 一人では行かないって」

 何かされたのかと泣きそうな顔を見せるので、珪は昨日のことをありのまま伝えた。

 話しながらも立ってるだけで身体が辛い。珪は途中で近くのベンチに腰掛ける。上泉もすぐ隣に座った。

「……とにかくそういうわけだ。アパートの場所は突き止めた。いつでも会いに行こうと思えば行ける」

「珪君は、その話どう思う? あいつは本当のこと言ってるのかな?」

「おまえに危害を加えるつもりはないって話だな? 正直まったくわからない。あの時は嘘は言ってないように感じたけど、気分が変われば躊躇なしに人を刺しそうな雰囲気はあった」

「なんで珪君と話がしたいのかな」

「それはおれもわからない。見当もつかない」

 上泉は軽く目を擦り大きく息を吐いて言う。

「本当にありがとう、珪君。でももうこの件に関わらないで。だってあいつは珪君を狙ってるみたいだし」

「おれは最後まで付き合うよ。その覚悟はしてきたからな。それよりおまえはどうなんだ?」

「どうって?」

「鉤鳥から逃げずに居場所まで突き止めたんだ。おまえがどう感じるかわからないけど、復讐というか、鉤鳥に立ち向かうってことでいうならもう目的は果たされたんじゃないかってこと」

 上泉は目を伏せ黙っていたが、しばらくして口を開く。

「あいつが危害を加える気がなくて、話を望んでいるなら、私は話がしたい……。でも珪君に迷惑はかけたくない」

「なら行くしかないだろう。ただ一つだけ言わせてくれ」

「何?」

「意固地になるな。やばいと思ったら、一目散に逃げろ。武道家なら引き際が大切なのわかるよな」

「わかった……。約束するよ」


 珪は上泉を連れ、鉤鳥のアパートが見える位置までやってきた。昨日は夕方で薄暗くなっていたからわからなかったが、比較的大きなきれいな公園だった。

「どうしよう。ドアのところまで行こうか」

「いや、離れたこの場所でいいだろう。いざというときはこういう広い場所の方が逃げやすいから」

上泉の問いに答え、そのまま公園のトイレの影に身を潜めた。ここからなら相手が出てきてもこちらは気づかれない。

 二人はしばらく待っていたがドアが開かれることはなかった。

「仕事とかに出ているなら夕方まで帰ってこないかもしれないな」珪はぽつりと言った。

「一度帰るか? 何もすぐ引っ越したりはしないだろう。また明日以降来ればいいし」

 そう言い終わるや、上泉の返事を聞く前に、突如鉤鳥のドアが開かれた。


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