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第七章   鬼夜叉(2)

 その週末、珪は街一番の大きな本屋に来ていた。朝から蝉がうるさく鳴いていた。梅雨も明け、もう来週には夏休みに入る。この夏休みで、珪は絶対にやろうと心に固く誓っていることがあった。

 それは夏休み初日で読書感想文の宿題をやること。そして始めの三日で全ての夏休みの宿題を終わらせることだった。そうしてこの夏休みは、春と違って何の憂いもなく心の底から楽しんで遊びまくろうと思っていた。

 絶対に絶対にやるつもりだった。だからこそ、この日曜の午前中に本屋に来ているのだ。課題図書を買って夏休みが始まるまでに何度か読み込んでおく。夏休みの最初の朝から書き始め、どんなことがあってもその日のうちに書き上げるつもりでいた。

 故に課題図書選びは重要だ。話が短いもの、感想が書きやすいものがいいが、どんなに薄くても内容に興味が持てないものは避けたい。お店の一角に平積みにされた課題図書をあれこれ手に取りながら、珪は真剣に読み比べていた。

「あ、珪君」

 不意に声をかけられた。まさかと思ったが、その声には聞き覚えがあった。

 振り向くと上泉が笑っていた。珪はため息をつきたくなった。こうならないように近所の大きな本屋を避けて、わざわざ遠い駅前の商店街まで来ていたというのに。

「なんでおまえがここにいるんだよ」

「なんでって、そりゃ珪君と同じだよ。課題図書探そうと思って」

「別に学校近くの本屋でいいじゃないか」

「他にもちょっと読みたい本があって。ねえ『月刊古流武術』って雑誌知ってる? 最近お父さんの記事が載るようになったんだよ。短いコラムなんだけどさ。あれって学校近くのあの本屋さんでは置いてないだよねえ」

 よく喋るよなあ、女は。珪は上泉を追い払い、再び平積みの本を吟味し始めた。珪が難しい顔で本を選んでいる中、上泉は何度も戻ってきては、こんな本があったとかこれが面白そうだとかしつこく付きまとっていた。

 散々迷ってようやく珪は買う本を決めた。『イーリアス物語』という古代ギリシャの戦争の話だった。他の本よりやや厚いのが気になるが、少し面白そうだと思った自分の感性を信じた。

 上泉がいないのを見計らって素早くレジへ行き、そのまま店を出る。夏休みが始まる前に三回は読んでおこう。大変だなと思いながらも改めて心に誓う。

「ねえ、珪君」と上泉が追いかけてくる。

「夏休みの間、またうちの道場の稽古に来てもいいよ」

「うちの道場も同じくらいの時間から始まるんだよ」

 本当は伊勢森道場の少年部の稽古には行こうと思えば行けた。でもそのあとの成年部の稽古は県武道館の稽古時間と被ってしまう。

 そのままあれこれ話しながらアーケード街を歩いていた。

 休日の昼近くなると人通りはかなり多くなる。ここは駅の正面から続くこの町で最も大きなアーケード通りだ。喫茶店や靴屋・雑貨屋、ゲームセンターなどが見える。かなり広い通りなのだが、意識的に避けようとしないとすぐ人にぶつかってしまう。避けた先にも人がいるわけで、膝の力を抜いて柔らかくすると、歩くスピードを落とさずに方向を変えることができた。

 上泉は東京から来たんだよな、東京はやはりもっと人が多いのだろうか。もっと店も大きいのだろうか。珪は一度も東京には行ったことがなかった。東京から来た上泉にはこの商店街はどう見えるのだろうか。上泉の横顔を見ながらそんなことを考えた。右側から見るその横顔は目が閉じられ、まるで目を瞑ったまま歩いているようだった。

 しかし女子と一緒に歩いているなんて知ってる人には見られたくないな。珪は周囲を見回す。これだけ人がいるんだ、学校の友達や道場の先輩がいるかもしれない。

「あ、おれ自転車こっちに置いてるから」

 自転車置き場はもう少し先なのだが早くこの場を離れたくなった。上泉の声も聞かずに大通りを抜けて脇道に出た。道を一本外れるだけで辺りは急に静かになった。

 珪は大きく息を吐いた。ずっと騒がしいところに騒がしいやつといたから、その静けさが心地よかった。

「あの、ちょっと……」

 急に後ろから声をかけられた。上泉ではない。男の声だ。その声色を頭の中で知っている者の声と照らし合わせたが、思い当たる人がいない。誰だろう、訝しがりながらゆっくりと振り返った。

 そこには三十歳くらいの男性が立っていた。にこやかに笑っている。やはり珪の知らない人物だった。

「何でしょうか」こちらに敵意はなさそうだった。

「さっき君と話していた女の子は、ひょっとして伊勢(いせ)(もり)(めい)(こう)先生の娘さんですか?」

「はい……」

 反射的に正直に答えてしまった。東京にいたころの道場生なのだろうか。ただ男の様子を見る限りでは武道家のようには見えなかった。痩身で身体を鍛えているという感じがしない。珪の道場でも重鎮の大久保は痩せた体格でいかにも強そうというわけではないのだが、線が細くともバランスのとれた筋肉が付いており武道家然としていた。

 この男はそのようには全く見えない。稽古していた時期が短かったのか、こちらへ来て長い間稽古をしていないのか。

「ああ、やっぱり」男は嬉しそうに言う。

「実は僕は以前東京で伊勢森先生の道場にいたんですよ。そのころ娘さんの命ちゃんのこともよく知っていましたので」

「まだ近くにいますよ。直接本人に声かけたらよかったじゃないですか」なぜ自分なのだろうと不思議に思う。

「もう何年も経っているからね。ひょっとしたら人違いかなとも思ったし。そんなに親しく話をしたわけでもないので。知らない人からいきなり声かけられたらびっくりするでしょう」

 いやおれの方に言われてもびっくりするんだけどな……。そう思いながらも、元道場生なら言ってもいいだろうと考え、ここの伊勢森道場のことを伝えた。この様子なら、この町にも道場があると知ったら喜ぶに違いない。

 案の定、その男は驚き、喜んでいた。

「いやあ、嬉しいですよ。なかなかこちらで仕事が忙しいものだからすぐには行けませんが、近いうちに必ず行きたいですね。親切にありがとうございます」男は深々と頭を下げた。

「あなたも同じ道場生なんですか?」

「僕はあいつと同じクラスなだけで……」道場へ行ったことまで話すのは面倒に感じた。

「では今度学校ででも、(みこと)さんに会ったらお伝え下さい」

「はい」

「ちょっと変わった名字なんですが、(かぎ)(とり)が東京でお世話になりましたと。鉤鳥の名前を出してもらえればわかると思いますので。では」

 そう言って鉤鳥と名乗った男は頭を下げて去っていった。その後ろ姿を見て、男の歩き方が少しおかしいことに珪は気づいた。ものすごく目立つというわけではないが、重心がかなり偏っている。怪我をしているのだろうか、もともとの癖なのか、それは珪にはわからなかった。

 悪い人ではないのだろうが、色々と変わった人だなと思った。何か本能的にもやもやとした思いを抱いたが、でもそれ以上深くは考えなかった。


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