第七章 鬼夜叉(3)
翌日。この日が学校の終業式だった。午前中に校長先生の話を聞いて、クラスに戻って担任の先生の話が終われば昼過ぎには下校となる。
生徒たちは授業からの開放感と夏休みに突入する期待とで色めき立っていた。教室で皆が夏休みどうするか、何をして遊ぼうかと騒いでいる中、珪は上泉の様子を窺っていた。できれば上泉が一人になったときに声をかけたかったが、今を逃すともう夏休みに入り話す機会がない。他の女子たちと話している最中だが仕方ない、珪は上泉の机に向かった。
「おい上泉、昨日あの後おまえの東京の道場の先輩から声かけられてさ、伝言頼まれたんだけど」
「ええ? あの後で。誰?」
「ええと、鉤鳥とかいう人で、東京で世話になったとか。名前を言えばわかるはずだからって言ってたな」
「……」
上泉の顔は凍りついたように固くなった。そして見る見る顔色が青ざめていった。
「どうしたんだよ? 知り合いなんだろ?」
「ちょっと珪、いきなり何よ。みこっちに変なこと言わないでよ」
「だいたい何? あんた昨日みこっちと会ってたの?」大石と羽深がきつい口調で問い詰める。
「昨日本屋に行ったらたまたまこいつがいたんだよ!」珪も負けずに言い返す。
「珪君、ちょっと……」
言うや上泉は強引に珪の腕を引っ張って廊下へ出て行った。その華奢な体格からは想像できない強い力だった。
「なんだ。痛いだろ!」
「珪君。その鉤鳥って人は何歳くらいだった?」有無を言わせぬ強い口調だった。
「ああ、三十代くらい? 山岡先生よりは若いのかなあ」
「そう。間違いなく鉤鳥って言ったのよね?」
「ああ……。何なんだよ、誰なんだよそいつ」
「明日の午前十時。昨日の本屋の前まで来て。そこで話すから」
上泉は一方的に言いたいことを言うと教室に戻って行った。
珪は一人呆気にとられて廊下に残された。
何なんだ。何者なんだ……? 昨日会ったその姿を思い出す。ちょっと変わった男。嫌な予感がした――。
ついに夏休みの初日を迎えた。朝から暑く、昨日以上に蝉が大音量で鳴いている。珪にとっては読書感想文の宿題をやり遂げようと意気込んでいる大事な初日だ。
だが珪は机に向かわず一昨日来た本屋に向かって歩いていた。昨日の上泉との約束があるからだ。
昨夜も遅くまで『イーリアス物語』を読んでいた。結局三回は読めなかったがどうにか二回は読むことができた。それでも上泉のことが気になったのであまり集中して読めてはいない。
本屋の前に来ると、すでに来ていた上泉が手を挙げた。顔を見ると目の下に隅ができている。どうやらこいつも眠れなかったらしい。
「ここではあれだからお店に入るよ」そう言って上泉は歩き出す。珪は黙って付いて行った。
上泉は喫茶店に入って行く。珪はちょっと戸惑った。女子たちは普通にこういう店に入るのだろうか。ハンバーガー屋ならわかるけど、善也たちと喫茶店に入ることなど百パーセントない。そもそも金出して苦いコーヒー飲むんだろ、あり得ねえな。
そんな珪の気持ちを読み取ったのか、上泉が声をかける。
「あ、私がお金出すよ。私が言ったことなんだし」
「金ぐらいあるっての」珪は無理に平静を装ってずかずかと空いてる席に着いた。
「で、話ってのはこの前の男のことなんだよな」
「うん……」上泉は言い辛そうに、その視線が泳ぐ。大きくため息をついた後、意を決して口を開いた。
「その鉤鳥という人は、私の目を刺した男だと思う……」
「……」珪は全身が固まってしまった。昨日の上泉の様子からなんとなく予想はしていた。
「そう……。鉤鳥有我という男」
言い終えると上泉はまっすぐにこちらを見据える。その上泉の閉じられた右目を見て、珪ははたと気がついた。
そうだ、ずっとあの男の不自然な態度が引っかかっていたんだ。直接上泉に声をかけずにどうして自分に声をかけたのか。あの鉤鳥が、目が見えなくなってからの上泉を知っているのなら、人違いとか気にしないだろう。右目を常時閉じている小学生なんて他にいないだろうから。逆に目が見えなくなる前の知り合いなら、絶対に右目のことを聞いてくるはずだ。聞くのは失礼だから敢えて聞かなかったという風ではなかった。
でもなぜ自分に声をかけたのか。上泉への伝言なんて頼んで、結局自分の正体はすぐばれるわけだし。何か情報を引き出したかったのか? 頭を巡らすと、珪は男に道場のことを言ってしまったのを思い出した。
「すまん。あいつが本当に道場生だと思って、仲町に伊勢森先生の道場あるって教えちまった……」
珪は深々と頭を下げた。
「いいよ、気にしないで。珪君はまったく悪くないんだから」上泉は努めて明るい口調で言った。
「あいつは多分、楽しんでるんだよ。遠回しに自分の存在を伝えて、怯える私を見て、きっと喜んでる」
それから上泉は、自分が刺されたときのこと、それからのことを話し始めた。
ある日道場に突然知らない男が入ってきて、全く動けないまま目を刺されたこと。疋田という弟子がその場で倒したが、鉤鳥は脳挫傷になり過剰防衛で裁判中なこと。その後右目が見えず不自由したこと。その後は学校でいじめられて休みがちになったことなど――。
上泉は話し方はたどたどしかったが、涙は一切見せなかった。
「思い出せば辛いけど、今はみんなに会えて楽しいからね」
珪は当時の上泉の様子を想像しながらただ黙って聞いていた。
「しかしあいつはまだどこかの刑務所にいるんだと思ってたけどね。脱走したのか、三年も経ってるから服役が終わったのかな。私が心配するからお父さんが教えてくれてなかったのかも」
そこまで黙って聞いていた珪だがここで口を開いた。
「おまえ、これからどうするんだ? 夏休みの間はまだいいかもしれないけど、学校始まれば登下校中に狙われるかもしれないぞ。いや、道場の場所なんて調べればすぐにわかるかもしれない。すぐに警察に連絡した方がいい」
「実は珪君と今日話をした本当の理由はね、一つどうしてもお願いしたいことがあったの」
「なんだよ……」珪は少し身構えた。
「誰にも、警察にもお父さんにもこのことは絶対に言わないで。内緒にしていて欲しい」
「なんでだよ!」
「やっと、やっと私は取り戻せるの……」
「何を」
「あの時の負けを。そのあとの鬱屈した気持ちを。学校に行けずに自分を責めた思いを――」
いったい何を言っているのだろうこいつは。そう思いながら珪は聞いていた。
「ずっとこの負けを抱えて生きていかなきゃいけないと思ってた。あの犯人に今後会うことなんてあるわけないと思ってた。だからこんなこと考えもしなかったけど――」
上泉は左目で珪をまっすぐ見つめて力強く言った。
「私はあの男と戦うよ。今度は必ず勝つから」
「……」
「別に恨みとか憎しみとか、同じ目に遭わせてやろうとかそんなんじゃないよ、安心して。ただ勝ちたいの、ううん正確に言えば立ち向かいたい。一回当て身を当てられればいい、ひと技かけられればそれでいい。それで私は過去を克服したことになる。あのとき、私は恐かった……。なにもできなかったし動けなかった。ずっとそれが、本当は今も続いている……」
珪は窓へ目を向けた。アーケード通りは人通りが多くなっていた。一昨日上泉と一緒に歩いた道だ。どこかであの鉤鳥が見ていたんだな。よくここへ来るのだろうか。どこに住んでいるのだろうか。今歩いている人々のどこかにいたりするのだろうか――。
黙っていた方がいいのか、一刻も早く警察に伝えた方がいいのか。
長い間考えていたが、珪にはそれはわからなかった。




