第3話 船長を替えても、船は軽くならない
朝の〈白鷺〉の甲板で、後任の船長が検測板をレナートに差し出した。
水深と船の喫水が並べて書かれている。
「若旦那。この〈白鷺〉、庭園正面の支流へ入れるのは無理だ。本流回りに変えてくれ。宮殿下手の桟橋なら着けられる」
レナートは顔をしかめた。
「あなたまで、カリーナと同じことを言うのか。あの水路は以前、私も通ったことがある。今朝の水位が低いからといって、祭りの日まで駄目とは限らないだろう」
「小娘の言うことなんぞ知らん。私が自分の目で見て、測った結果だ」
老船長は煙管をくわえ、船首の喫水標を指差した。
「大理石の舞台に、薔薇の植え込み、客室の重いオーク材の調度品。客を乗せる前から、この喫水だ。支流の砂洲の上は、今朝測った水深でも足りない。そこに客を百人乗せてみろ。腹がつっかえて動けなくなるのが関の山だ」
レナートは検測板を見ようとせず、唇を噛んだ。
「……本流回りだと、宮殿下手の桟橋から賓客を庭園まで歩かせることになる。それでは王女殿下の歓迎式典の絵面が台無しだ」
「船が座礁して立ち往生するよりはマシだろう。本流で行くなら舵を取るが、支流へ突っ込むなら私は船を降りる」
「わかった。本流回りで届け出てくれ」
レナートは吐き捨てるように応じ、踵を返した。
事務所へ戻ると、ソファで寛いでいたエレナが甘えた声を上げて駆け寄ってくる。
「レナート様、いかがでしたの? 宮殿のテラスからは、わたくしの花嫁席が真っ先に見えるのでしょう?」
「ああ、もちろん心配いらないよ、エレナ。ただの段取りの確認だ」
レナートは笑みを作り、彼女の肩を抱いた。
招待客への案内状は、すでに「正面庭園桟橋への華麗なる入港」として帝都中の貴族や豪商へ配り終えている。「水深が足りないので下手の裏口に着けます」。そんな訂正を受け取った取引先に、どんな顔で会えばいい。
(祭りまでには水位も上がるかもしれない。今すぐ訂正を出すことはないだろう)
レナートは経路変更の告知書類を机の引き出しに収めた。昔もカリーナは難しいことを言いながら、最後には予定どおり通してくれた。雇った船長にも、もう少し考えてもらえばいい。
*
同じ頃、上流の宿場町リバーフォールを出航した〈ツバメ〉の甲板には、清々しい川風が吹き抜けていた。
そして、操舵席のすぐ脇にある濡れる木製ベンチには――昨夕の予告通り、ダミアンが座っていた。外套こそ乾いたものに着替えていたが、足元にはやはり書類箱が置かれ、手帳を開いている。
「クロイツ船長」
「はい、ダミアン様。そこ、まだ湿っていたでしょう」
「日当たりがいいからじきに乾く」
ダミアンは淡々と返し、手帳の図面を指差した。
「次の寄港地の手前、西岸の石積み護岸だが、臨時に船を寄せ、現場技師を乗せたい。乗船前の確認も含めて、十分ほど取れないか」
カリーナは今日の寄港時刻を思い返した。
「あそこは浅いので、船を寄せるのにも時間がかかります。寄り道と停泊で、次の村への到着が二十分ほど遅れます」
「それは困るか」
「次の村で、製粉所へ向かう職人さんたちが待っています。遅れるなら、先に知らせておかないと」
ダミアンが目を細めたので、カリーナは身構えた。だが彼はすぐ手帳へ目を落とし、鉛筆を走らせた。
「ならば、そこでの確認はやめよう。技師を乗せたらすぐ出てくれ。次の村の手前で、私の面談のために取ってある停泊時間を削れば、帳尻は合うか?」
「……その停泊を短くしてよろしいなら、差し引きで遅れずに済みます。技師さんとのお話は、船の中でお願いします」
「よし、それで頼む」
正午過ぎ、船は川沿いの開けた船着き場に三十分の昼休憩のために係留された。
イーヴォが機関の点検で油壺を持って下へ潜るのを見届けると、カリーナは甲板の端の木箱に腰を下ろし、朝に用意した包みを開いた。黒パンに塩漬け肉とピクルスを挟んである。
そこへ、足音が近づいてきた。
「隣、いいか」
見上げると、ダミアンが自分用の紙包みを持っていた。随員たちは気を利かせたのか、少し離れた桟橋の茶屋へ昼食を取りに行っている。
「……どうぞ。狭い甲板ですが」
ダミアンは隣に腰を下ろし、長い足を投げ出した。包みの中は、町のパン屋で買ったらしいサンドイッチだ。紙の端を膝で押さえ、風を避けて広げている。
「クロイツ船長」
「カリーナで結構です。停泊中ですし」
「では、カリーナ」
自然に名を呼ばれ、カリーナはパンを口へ運ぶ手を止めた。
「君はなぜ、自分でこの小さな船を動かしているんだ?」
商会の寄合でも、同じように聞かれたことがある。『女だてらに舵を取って』『嫁の貰い手がなくなるぞ』。カリーナの返事は硬くなった。
「女が川へ出るのは、可愛げがありませんか」
ダミアンは怪訝そうに眉を寄せた。
「いや、そういう意味ではない。君なら大きな商会の船にも乗れるだろう。それでも、この船を続けたいのかと思って」
そういうことか。カリーナは包み紙へ目を落とした。
「……停める場所と、船を出す時間を、自分で決めたかったからです」
「自分で?」
「商会の船だと、運ぶ荷も、停める場所も決まっていますから。この船なら、お年寄りが下りやすいところを選べます。野菜を市場へ届ける時間にも合わせられる。祖父の船で、そういう仕事を続けたかったんです」
そこまで言って、カリーナは言葉を濁した。
「……以前は、婚約者と一緒に、大きな船とこの船を組み合わせて、もっと上流まで新しい航路を拓く約束もしていました。でも、それはもう終わった話です」
カリーナは包み紙を折り返した。ダミアンはしばらく川を眺めていた。
「この船は、その計画に入っていたのか」
「ええ。大きな船の入れない町へ、この船で荷を運ぶつもりでした」
「そうか。君が航路を延ばしたら、私もその町まで乗ってみたいな」
「……はい。でも、今はこの時刻表のところまでですよ」
カリーナが笑うと、ダミアンも笑った。手帳に挟んである時刻表の端を、指で叩いてみせる。
「カリーナ、君は――」
「おーい、カリーナ! 蒸気圧、上がったぞ!」
機関室のハッチからイーヴォの野太い声が響き渡った。
「あ……もうそんな時間。叔父さん、すぐ行くわ!」
カリーナは食べかけの包みを素早く片付け、立ち上がった。
ダミアンは口を閉じた。カリーナが畳もうとしている包みには、まだサンドイッチが半分残っていた。
「……すまない。私が長く話しかけたせいで、食べる暇がなかったな」
「いいえ。続きは、また明日に。出航準備にかかりますので、お足元にお気をつけください」
カリーナが小走りに舳先へ向かうのを見送り、ダミアンは時刻表を手帳に戻した。帝都へ着いてからの予定を、とうとう尋ねそびれた。
(……明日、帝都に着くまでにもう一度聞けばいい)
視察は今日でほとんど終わっていた。それでも、明日はまだ一緒に船に乗れる。ダミアンは帰りの時刻を確かめて、手帳を閉じた。




