第十二話「出発の朝」
朝が、来た。
いつもと同じ朝だった。
でも——最後の朝だった。
グレイスが荷物をまとめていた。
小さな革袋に、必要なものだけを入れていく。手際がいい。でも、いつもより少しだけ動きが遅かった。
俺はベッドの柵を掴んで、その背中を見ていた。
九ヶ月の体。でも今日で、この部屋とお別れだ。
窓の外に、朝の光が差し込んでいた。
148年ぶりに見た太陽から、九ヶ月が経った。
太陽は、今日も温かかった。
セルが来たのは、朝食の後だった。
扉を開けて、黙って部屋に入った。
荷物を見た。グレイスを見た。俺を見た。
床に座った。直接。いつものように。
「行くんだな」
俺は頷いた。
「……王都か」
また頷いた。
セルが膝の上に肘をついて、少し前を向いた。
「レイン領は、俺がやる」
俺は板を出した。
し・っ・て・る
「……言いたいのはそれだけか」
俺は少し考えた。
た・の・む
セルが鼻を鳴らした。
「さっきも言っただろ。任せろって」
俺は笑った。
セルは笑わなかった。でも——耳が、少し赤かった。
「一つだけ聞いていいか」
俺は待った。
「王都は——お前にとって、どんな場所だ」
俺は少し考えた。
し・ら・な・い
「知らない?」
頷いた。
148年分の記憶の中に、王都の記憶はある。何人かの冒険者が、王都を見ていた。大きくて、騒がしくて、綺麗で、怖い場所だった。
でも——俺自身は、知らない。
ダンジョンの暗闇しか知らなかった俺が、外に出て九ヶ月。
次は、王都だ。
し・ら・な・い・か・ら・い・く
セルが俺を見た。
長い間、見た。
「……そうか」
それだけ言って、立ち上がった。
「手紙を書け。定期的に。板じゃなくて、ちゃんと言葉で」
俺は頷いた。
「読んでやる」
セルが扉に向かいかけて——止まった。
「アル」
俺は待った。
「無理するな」
振り返らないまま、言った。
「お前が思うより、世界はお前に厳しい」
俺はセルの背中を見た。
九歳の背中が、少しだけ、強張っていた。
「……わかってる」
俺は板を並べた。
で・も・い・く
セルが、小さく笑った気がした。
「行ってこい」
それだけ言って、出て行った。
父が来たのは、出発の一時間前だった。
静かに部屋に入って、静かに俺の前に立った。
最初の頃とは、違う顔だった。
二秒で名付けた頃の、目の奥が死んでいた顔じゃない。
疲れているけれど——ちゃんと、生きている顔だった。
「アル」
俺は父を見た。
「王都で——何かあったら」
父が言葉を探した。
喉が動いた。
「逃げていい」
俺は少し驚いた。
「お前はまだ、子供だ。国がどう言おうと——父親としては、そう思う」
父の目が、俺を見ていた。
二秒じゃなかった。
ちゃんと、見ていた。
俺は板を並べた。
あ・り・が・と・う
父が、小さく頷いた。
それから——大きな手を、俺の頭に置いた。
いつもより、少しだけ長かった。
「行ってこい」
セルと、同じ言葉だった。
馬車は、黒かった。
王都から来た馬車だ。紋章が入っている。御者は二人。護衛が四人。
過剰だった。
九ヶ月の赤ん坊を迎えに来るには——明らかに、過剰だった。
グレイスが俺を抱いて、馬車に乗り込んだ。
扉が閉まった。
窓から、領地が見えた。
畑が見えた。黄金芋の収穫が終わった後の、静かな畑。
グロムが遠くに立っていた。腕を組んで、こちらを見ていた。
セルが屋敷の前に立っていた。腕を組んで、こちらを見ていた。
父が隣に立っていた。
馬車が動き始めた。
景色が、少しずつ遠ざかっていく。
グレイスの腕の中で、俺は窓を見ていた。
領地が、小さくなっていく。
使者が、馬車の中で口を開いた。
「アル・レイン様。王都到着後は、魔法師協会の施設にご案内します」
丁寧な声だった。でも——温かくはない。
「ヴァルト・クレイン協会長が、直接お出迎えの予定です」
俺は、その名前を聞いた。
148年分の記憶の中に、その名前はなかった。
でも——使者の声に、微妙な何かが混じっていた。
敬意。でも——それだけじゃない。
警戒、だ。
俺に対してじゃない。
ヴァルト・クレインという人間に対して。
使者自身が、警戒している。
俺は窓の外を見た。
王都はまだ、見えない。
でも——その空気が、少しずつ近づいてくる気がした。
夜。
馬車の中で、グレイスが眠っていた。
俺は眠れなかった。
窓の外、星が見えた。
148年間、ダンジョンから見ていた星と、
同じ星だ。
でも今は——馬車の中から見ている。
王都へ向かいながら。
「保護」という名目で、呼ばれながら。
148年分の記憶の中に、王都の知識はある。政治も、魔法も、貴族社会も。
でも——俺自身は、知らない。
記憶の中の王都と、本当の王都は——きっと、違う。
俺は星を見上げた。
ここから先は、知らない世界だ。
148年の記憶でさえ、届かない場所へ行く。
でも——
俺は笑った。
怖くない。
148年間、暗闇に隠れ続けた俺が、今は馬車で星を見ながら王都へ向かっている。
一等賞への道は——まだ、続いている。
第十二話「出発の朝」 了




