1章-1 岩沼中学校
【石川結菜(岩沼中・トロンボーンパート)】
今日も、私はいつも通り六時には起きて、朝食をとって歯を磨き、学校へ登校する。ただ、学校についてもいるのはまだ数人。何せ、もう夏休みにも入り、部活で学校へくる人が少ない日曜だからだ。
まだ集合する時間でもない私が早くきている理由はただ一つ。
私は空いていない昇降口を通り過ぎ、職員玄関から校舎内に入る。階段で上に上がり、最上階にある音楽室へと向かう。中の様子を見ると、やはりいた。
「おはよう、蓮」
「お!来た!おはよう、結菜。」
高橋蓮はホルンパートの二年生で、私と中学校に上がった時から仲が良い。
「いつも偉いよね〜。“あの先輩達”とは違ってちゃんと早くから練習してるんだもん。」
「そういう蓮こそ私と同じ理由でしょ。」
「まあ、私も先輩たち見返したいし。」
仲良く雑談しながら、一緒に楽器をケースから出す。金属の冷たい感触が指に伝わって、ようやく一日の始まりを実感する。「おはようございます」とちょっとテンション下げ目の複数人の声が聞こえた。見ると、噂をすれば人が現れるというのは本当なのか、珍しく早くに“あの先輩達”が来ていた。
「珍しいね、あの人たちがまともに早く来るの。槍でも雪でも降っちゃうんじゃない?」
と小声で蓮が話す。「何か裏があるんじゃない?」と言っておきながら、少し様子を見てみると、やはりそうだ。楽器を準備したかと思ったらちょっと遠くの人気の無い階段で雑談し始めた。
「ほうら、やっぱり。それよりも私たちも早く準備しなきゃ。」
「そうだね。」
楽器を出したら次は譜面台を立てたりする。私はトロンボーンだから一番奥の席に一応立てておいて、それからまた蓮のところへ戻る。そして、空き教室で、一緒に合わせるのが毎朝の日課。ただ、いつもの空き教室へ向かってみると今日は先客がいたらしく、今まで聞こえてなかったのが嘘みたいな爆音が部屋から聞こえてくる。
部屋にいるのは私と同じパートの森田雄介。ピアノを長いことやってきていて、その知識を私たちに教えてくれるのはいいことなんだけど、楽器が下手なわけじゃない。ただ、本気を出して吹いているとものすごくうるさくて迷惑なやつだ。
「またやってるよ。よくあんな音量で平気だよね」
「ほんと。こっちが先に鼓膜やられるわ」
「……C棟行こっか」
「賛成」
そう提案して、自分の身に危険が及ぶ前に避難した。
開いている部屋へと入り、窓を少し開け、譜面を広げる。私たちの課題曲は「風と民の唄」。幻想的で、どこか懐かしい和風の旋律が流れる。
自由曲は「コッペリア」――鐘の行進曲から始まる華やかなバレエ音楽だ。
どうせなら行進曲をやりたかったんだけど、「薄っぺらい部分もあって難しいから」という顧問の言葉で変わってしまった。多分ほとんどの学校がその課題曲をやるからという理由もあるのかもしれない。
「まじでよくこんな状況で、こんな正反対な曲で県大会いけたよね。ある意味すごいよ。」
「先輩達なんかもうちょいサボっても大丈夫とか思っちゃってるしね。」
そう私は言いながらも、あの光景を思い出す。舞台袖で半分諦めながらも、今年はもう最後だと思ったあの光景を頭に焼き付けたこと。そして、あのライトがついた瞬間のあの景色。あの光景をもう一度見れるなんて思っていもいなかった。だからこそ、私は東関東出場というこの学校の目標へと頑張っている。
短二度と長二度のハーモニーが美しい課題曲を合わせる。前半部はソロが多く、金管はなかなか出番が少ない。ただ後半になっていくとトロンボーンはホルンは裏打ちやメロディなどもあり、結構楽しい。
それに対して、コッペリアは鐘の行進曲から始まり、マズルカ、ワルツなどと楽しき明るい曲が選ばれている。
曲以外にも基礎練習もやったりしているとチャイムが鳴る。八時十分前のチャイムだ。部活はいつも八時五分前には集合しないといけない。
「やばい、早く行かないとだよ蓮!」
「私、ちょっと時間かかるかも。先行ってて。」
そう言われたので先生が来る前に急いで音楽室へと駆け込む。ただ、まだ先輩達は雑談しているようだった。
「おはようございます。」
先生が入ってくると、それにちょっと遅れて先輩達がくる。「チッ、遅えよ」と言っている声が小さく聞こえたが、先輩達はそれを気にすることもなく席に着く。
「じゃあ、今日は、基礎練習30分間やったら合奏するからね。一年生は、各自でパート練をしててください。」
先生が指示した後、出ていく。基礎練習は毎日同じものを続けてやっていて、ノータンギングやリップスラー、アンブシュアを正す練習、半音階、音程・音階の練習をしている。
「じゃあ、あれ、なんだっけ?」
「ノータンギングでしょ。」
「あそっか!ノータンギングします。」
日直が各自いて、今日はあの先輩の中の一人であり、多分一番サボっているであろう、幸田航だった。だから、基礎練の順番もわかってない。おまけに呆れて返事みんなしてないし…。
吹いてる途中もそう。いつも最後まで吹き切らないで、やってないとバレないようなギリギリラインを攻めているようだ。すごく感じが悪くて嫌な感じがする。
「え〜っと、次は…?」
「リップスラーでしょ。」
「それやります。」
「「はい」」
今度は返事をしている人もいたが、結局呆れで少数だ。やれやれ、長くなりそうだな。
「じゃあ、音階の練習します。」
「「はい」」
「ねえねえ、これ長いからちょっと短くしてもいいんじゃない?」
馬鹿げた提案が飛んできたかと思えば、私たちのパートのリーダーの宮下知菜ではないか。
「たしかに、合奏前に少し練習したいし。じゃあ、二番と四番飛ばします。」
「…」
返事はみんなしない。呆れか。やる気をなくしているのか。そして、そんなバンドの中でただ一人。いや、みんなも変えたいと思っているだろうけど変えられない自分の無力さ。私は本当に何をしているのかわからなくなった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「じゃあ、合奏するね。」
「起立」
「「失礼します」」
「お願いします」
「「お願いします」」
「着席」
「「失礼します」」
このような動作を毎回やってから合奏を始める。挨拶をしっかり息を合わせてタイミング合わせることができたら合奏もきちんと合う。って先生とかは言っているけど、本当なのだろうか。
「じゃあ、本番近いし、バランス練習とハーモニーだけやってから合奏するね。」
結局基礎練習をカットされたこともあり、これで合計ようやく三十分間と言ったところだろうか。そんな短時間しか基礎練習をしていないからか。もしくはやる気がないからか。バランスもハーモニーもよくない気がした。
「それじゃあ、『風と民の歌』からやりますね。」
私のパートは2ndだ。と言ってもこの曲は1stと2ndしかトロンボーンのパートはないが。この曲は目立つところはあまりないし、面白いと聞かれたら秒であまり面白くないと返せる曲だ。と言ってもそもそもトロンボーンという楽器はあまり目立たないし、音楽の教科書に載ってても、どうせ名前を聞いてもわからない人の方が多いんだし。
先生が指揮棒を持って前に立ち、曲が始まる。
変拍子が多く、裏拍を感じないと難しいこの曲は合わせるのが辛い。おまけに縁の下の力持ちとされるチューバがあんなにも、それも幸田航という人がいるせいでめちゃくちゃになる。また間違える。七小節目をいつもあの人は間違える。
「チューバ、そこは一拍後からですからね。もう一回最初から。」
先生は穏やかにそう言うが、内心どう思っているかもわからない。実際、この部活の中で先輩うぜえ、ちゃんと練習しろという態度を表面に堂々と出しているのは、森田雄介くらいだから。
ようやくC前まで進む。ここからが問題だけど、ここまで順調で、時間をあまりとらなくて済んだと思うと安心だ。ユーフォのメロディが終わり、チューバソロが始まる。が、まただ。突っかかり、突っかかる。ちゃんとピストンは動いている。だが、動かすのが遅い。というかピストンとタンギングが合わなくて下手に聞こえる。
だけど、そのままテナーサックスのソロが始まり、フルートとクラリネットの掛け合いも終わる。先生は素通りしてしまった。
速度が早くなるところで止めたかと思えば、速くなるところからのやり直し。本当に大丈夫か?
「幸田くん、楽器の調子大丈夫?」
と先生は一声かけた。こいつは、ソロを吹けないのが楽器のピストンの動きが悪いからと言い張っているが、いつもそれはソロの時だけ起こる。本気でその嘘を通せると思っているのかわからないが、その言い訳は本当に醜くて、嫌な気分になる。
「ちょっと二番菅が動かない時があって…。今は大丈夫です。」
「あら、そう。楽器見てもらったけど特に異常ないらしいしね。まあ、無理しないでね。」
と言ってまた合奏は再開する。本当大丈夫か?顧問から先輩まで誰もがダメダメだ。金管がメインのところまでようやく来れた。もう合奏開始から一時間半はたっただろうか。そして、ようやくトロンボーンが少し目立つところまできた。もうすぐ、楽しいコッペリアが合奏できる。だが、この曲の最後も少々イライラする。トロンボーンとユーフォの旋律の裏に木管がいる感じで吹いている参考音源とは違い、そんなこと理解していないのか、木管は自分たちがメロディだと思って、いかにも裏でやってそうな十六分音符を大音量でやってくるので、結局目立たないまま終わる。
「結構時間かかっちゃったから二十分間休憩してコッペリアやるからね。」
という先生の言葉でみんなが休憩時間に入る。
「結菜〜!私疲れた〜!」
「私もだよ、蓮。」
そうしているうちにも、うちの部活のやる気がわかる。私はまだマシな方だが、先輩たちは静かな少し遠くの場所まで行き、雑談して休憩時間を過ごすからだ。……まあ、森田から見たら、私もちゃんとやってない判定なんだろうけど。森田を含む少数派は、こういう時間にも練習をしている。ある意味すごいが、多分、あんな先輩たちを見返すためだけに頑張っているのだろう。
私はあんな人になりたい。だけどなれない。本当は、東関東行きたい。そう思っているのに。だけど、私がそんなこと言う立場じゃないと思ってしまって……。結局はいつも通り。
二十分の休憩は、思っていたよりずっと短く感じた。少し友達と話し、喉を潤して、少しだけ肩を回して、また椅子に戻る。
「それじゃあ、コッペリア行くよ。鐘の行進曲から」
その一言で、空気が少しだけ変わった気がした。少なくとも、私の中では。コッペリアは好きだ。音が前に進む感じがして、吹いていて「音楽をやってる」って思える。さっきの曲とは違い、低音はあまり気にしなくてもいい曲。譜面を見て、スライドの位置を確認して、息を深く吸う。
——カン、カン。打楽器のチャイムが鳴る。テンポは、いつもよりほんの少し速い。金管が入る。
トロンボーンは、最初は控えめ。でも、ユーフォと一緒に動くところが来ると、身体の奥がじんわり熱くなる。
(ここは、ちゃんと合えば気持ちいいんだけどな)
案の定、ズレる。ユーフォと私の音が噛み合う前に、木管が前に出てくる。0.5拍分早いのだけど、本当にわかっているのだろうか。
自分たちが主役だと言わんばかりの音量。私は、ほんの一瞬だけ息を弱めた。ぶつかっても意味がない、そう分かってしまったから。
マズルカに入る。ここはリズムが命だ。拍を感じて、身体で揺れながら吹くはずのところ。
「……」
チューバの列から、明らかに合っていない伴奏が聞こえる。誰かが間違えた、というより、揃えようとしていない音。
先生は止めない。ワルツに入る。三拍子。本当は、ここで一気に華やかになるはずなのに、音が平坦だ。
(ねえ、これでいいと思ってるのかな)
そう思った瞬間、自分でも驚くくらい、胸の奥がチリっと痛んだ。私は、吹いている。ちゃんと。毎日、早く来て。合わせて。考えて。でも、それだけだ。
ワルツが終わったところで、指揮が止まる。
「うーん……。ちょっと全体、バランス気をつけようか」
それだけ。誰の名前も出ない。パートも呼ばれない。誰も呼ばれない。そして、誰も、謝らない。
「じゃあ、もう一回ワルツから」
やり直し。私は譜面を見つめながら、ふと蓮の方を見た。目が合って、蓮は小さく肩をすくめる。
——だよね、って顔。
吹きながら、思う。もし今、私が「鐘の行進曲の木管ちょっと大きいです」って言ったら。もし今、「ここ、金管が前じゃないですか」って言ったら。
空気は、壊れる。でも、このままなら、何も変わらない。
曲が終わる。
「今日はここまでにしようか」
先生の一言で、合奏は終わった。椅子を片付ける音。楽器をケースにしまう金属音。
先輩たちの、もう帰る気満々の声。私は、トロンボーンをそっと拭きながら、手を止めた。
(……私、何がしたいんだろ)
東関東に行きたい。その景色を見てみたい。
でも、それを口に出す勇気が、私にはない。楽器をケースに入れて、蓋を閉める。カチッという音が、やけに大きく聞こえた。
その時。
「結菜」
名前を呼ばれて、顔を上げる。立っていたのは、森田だった。
「今日の合奏どう思った?率直に」
森田が、楽器を片付けながら聞いてくる。一瞬、言葉が出なかった。
「……木管目立ちすぎ……」
「だよな……」
そう言って森田は自分の楽器ケースに目をやる。
「あとは、チューバはソロは雑だし、マズルカの伴奏絶対間違ってたし」
「だよな……。まあ、あいつは合奏中にショート動画見るくらいのバカだからな。感想ありがとさん」
それだけ言って、森田はケースを抱えて出ていった。私は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。
何をしたかったのか、そしてこんな事をなぜ私に聞いたのか、よく分からない。
ただ一つ、はっきりしたことがある。
——私は、このままじゃ嫌だ。
ケースの取っ手を、ぎゅっと握る。胸の奥で、何かが、静かに動き始めていた。




