その後
本日二度目の更新です。
いつもの朝。
「……何をしているんですか?」
女学校へ行く前に、日課のお弁当を持って駐在所へと寄ると、お巡りさんの横には救急箱があった。
「あ、おはようございます。木から降りられずにいた猫を助けたら、引っかかれてしまったんです」
そう言うお巡りさんの右手の甲には、鋭い爪の跡が残っていた。
細いその跡は血こそ止まっているようだったけれど、とても痛そう。
そして足元には、おそらく助けたのであろう猫が丸くなって牛乳を舐めていた。
傷をつけられた猫に牛乳をあげるなんて、何ともお巡りさんらしいと感じた。
自分の傷の手当より、猫のご飯を優先させているところも、お巡りさんらしい。
「……貸してください」
「え?」
持って来たお弁当を机の上に置いてから、お巡りさんの向かいにある、駐在所へ来た人のための椅子に座る。
「自分の手を治療するのは難しいので、私がやります」
「でも、撫子さんは女学校へ行く前なので、そんな手間をかけるわけには……」
撫子。
何度も名前で呼ぶよう言ったため、お巡りさんは最近からようやく私を名前で呼んでくれるようになった。
家族も友人も呼んでくれる名前だけど、お巡りさんに呼ばれるとちょっとそわそわした気持ちになる。
落ち着かないけれど、嬉しくて、そわそわするそんな気持ち。
「怪我をしている人を見捨てるなんて真似はできませんから」
でも、私の口は素直に心配だからとは言えない。
どちらかといえばはっきりとものを言う性格なはずなのに、このお巡りさんの前だけでは心の中を晒せない。
だから無言で消毒液を奪い取って、猫に引っかかれた傷の手当てをした。
「いたた……」
「……消毒液は染みるので我慢してください」
「はい……」
そんな会話をしていると、足元で犯人である猫がお腹がいっぱいになったのか、呑気な鳴き声を零していた。
でも、猫の存在にちょっと助けられる。
お巡りさんと二人きりで駐在所にいるのは、緊張してしまうから。
消毒するために触れたお巡りさんの手は、私の手よりずっと大きかった。
指が長くて綺麗だけど、節々は骨ばっていて、よく見たら猫のひっかき傷以外にもたくさんの傷跡がついている。
お巡りさんになるためには剣術もできないといけないらしいから、その傷跡だろうか。
聞きたいけれど、そこまでは聞けない。
毎日少しずつ会話をしたら、そんな他愛のない質問もできるようになるのだろうか。
そんなことを考えながら、消毒をした手に包帯を巻いた。
「終わりです」
「ありがとうございます」
お巡りさんは丁寧にお礼を言う。
この人は、相手が子どもでも大人でも、女でも男でも、貧しくても偉くても、誰であっても変わらない態度で接する。
そんなところが、とても素敵だと思う。
「それでは、私はもう行きます」
「はい。お引き止めして申し訳ないです」
駐在所から出て、女学校の方向へと進もうとしたとき。
「撫子さん。気をつけていってらっしゃい」
後ろから名前を呼ばれて、それがとても嬉しくて、嬉しすぎて、私は振り返ることもできずに女学校まで走った。
息せき切って教室に着くと、友人の椿が見透かしたような表情で笑っていた。
そんなある日。
両親とおばあ様、二番目の兄と夕食を食べているときのこと。
私はもうすぐ女学校を卒業するので、縁談の話題になった。
「撫子に色んな縁談が来ているんだよ。みな家柄も良く、立派な仕事についている方ばかりだ」
お父様が自信満々な顔をしながら、そんなことを言う。
お母様は側で静かに聞いていて、二番目の兄は興味なさそうにしていた。
年齢的にもそろそろ時期だとは思っていた。
でも私は恋愛結婚がしたいし、結婚したい相手はもう決まっている。
お父様の持って来た縁談は断ろう――そう思っていたとき。
「撫子のお相手は、駐在所のお巡りさんがよろしいでしょう」
食後のお茶を飲んでいたおばあ様がそんなことを言った。
私は思わず湯飲みを落としそうになる。
友人の椿が以前に、おばあ様は孫とお巡りさんを結婚させようとしていると言っていた。
まさかの大正解。
ありがとう、おばあ様。
「え、駐在所のお巡りさん?」
けれど、お父様が口を挟んだ。
なんて余計な真似を。
「でも、撫子にはもっと裕福な相手を……」
「いいえ。彼以外は認めません」
「はい……」
おばあ様が言い切ると、婿養子で少し気の弱いお父様は、それ以上は何も言えず黙ってしまった。
我が家では、おばあ様は絶対だ。
おばあ様が言ったことは、誰も逆らえない。
だから私は顔には出さなかったけれど、結婚相手が彼になったことがとても嬉しかった。
と、思っていたのに。
翌日、お父様が気まずそうな表情を浮かべながら告げた。
「相手方に断られてしまったよ……」
おばあ様に聞かれたら叱られると思ったのか、お父様は私だけを呼び出してそう言った。
我が家で絶対のおばあ様が決めたことだから揺るがないと思っていたのに、まさかの本人に断られるなんて考えてもいなくて、私はしばらく返事もできずにいた。
「でも撫子には、もっといい相手がいると思うよ。ほら、銀行で働いているこっちなんて……」
お父様は仕事用の机から、お見合いの釣書をいそいそと取り出し始めた。
けれど私はそんなものには全く興味を惹かれない。
「お父様は断られたからといって、のこのこ帰ってきたのですかっ?」
「のこのこ……。で、でも、お父様はこっちの銀行の方が……」
「もういいです! 私が自分で言ってきます!!」
「な、撫子……!?」
お父様が引き留めるのを振り切って、私は家を飛び出した。
もちろん向かう先は決まっている。
「私の何がご不満でしたか!?」
駐在所へ入るなり、私は大声でそう言った。
「わぁっ!? びっくりしたぁ!!」
机に向かって書類仕事をしていたらしいお巡りさんは、椅子から飛び上がらんばかりに驚いていた。
ばさばさと音を立てて机から書類が落ちる。
「撫子さん? 一体どうしたんですか?」
お巡りさんが私の名前を呼んでくれる。
それが嬉しかったのに。
少し近づけたと思っていたのに。
「私との結婚を断ったと聞きました!」
「あぁ、そのことですか」
そのこと。
お巡りさんにとっては『そのこと』ですませられる程度のことだったと知り、私の心はひどく落ち込んだ。
「私のどこがお気に召さなかったんですか……?」
「いえいえ、私には過ぎた話なので辞退しただけですよ」
けれどお巡りさんに詰め寄って理由を聞くと、いつもの声であっさりとそう言われた。
「……私に不満があったからではなく?」
「君に不満なんてないですよ。でも私たちは歳が離れていますし」
「……おいくつなんですか?」
「私ですか? 二十九です」
私は十七歳なので、一回り年上ということになる。
けれど、一回り年上の夫婦なんて珍しくない。
女学校を卒業したらすぐに結婚する予定の学友も多いし、十歳年上の許嫁がいる子も知っている。
だから年齢なんて関係ない。
そう思っていると、お巡りさんが続けた。
「それに、撫子さんの好みは男らしい人ですよね?」
「ど、どうしてそれを……」
「友人の方とそう話しているのを聞いたので。あ、盗み聞きしていたわけではなくて、街を巡回していたときに偶然耳にしたんです」
おそらく、友人の椿とお喋りをしながら歩いていたときに聞かれたのかもしれない。
椿とは途中まで帰り道が一緒なので、よくそんなお喋りをする。
確かに、私は男らしい人が好みだった。
自分の意見をはっきりと言える、堂々とした男らしく強い人が。
いつものんびりしていて、夫婦喧嘩の間に挟まれて朝まで不満を聞かされたり、木から降りられない猫を助けようとして引っかかられるお巡りさんは、そんな好みから遠かった。
けれど。
ならず者たちに囲まれたとき、私の前に立ちはだかって守ってくれたお巡りさんは、とても心強かった。
お巡りさんだから単に職務からの行為かもしれないけれど、私はあのときに恋をした。
普段はのんびりしていて頼りないお巡りさんだけど、誰にでも優しく親切で、歩けずに困っているおばあ様を家まで背負ってくれるような彼が、私は好きだった。
「私はあなたが良いんです!」
「えぇっ?」
そう口にした瞬間、目の前でお巡りさんが驚いた顔をしていた。
私は結婚するなら自分で選んだ人がいい。
おばあ様が決めたことだけど、でも先に好きになったのは私の方。
決められた人と結婚するのではなく、お巡りさんと結婚したいと、私が決めた。
「前に私を助けてくれたときのお巡りさんは、とても男らしかったです。私はあれ以来、お巡りさんのことが好きなんです!」
「な、撫子さん?」
私の名前を呼んでくれるこの声を一生聞いていたい。
「私と結婚してください!」
気づけば私は自分から求婚していた。
それから、私は毎日のように駐在所に押しかけて、そのたびに求婚し続けた。
晴れの日も、雨の日も、雪の日だって、お巡りさんが真っ赤な顔をして頷いてくれた日まで。
そうして女学校を卒業した春、私は念願かなってお巡りさんの妻になった。
表に出ない裏設定。
お巡りさん:実は政治家の庶子。頭もよく剣術の腕も良いが、家庭事情が複雑だったのでのんびりと過ごしたい。
撫子:素直じゃない女学生。将来、突然やってきた夫の異父兄が夫を馬鹿した際「私には世界で一番の旦那様です!」と反論する。
おばあ様:東堂家の最高権力者。
お父様:気の弱い婿養子。
読んで頂きありがとうございました!




