八
帰る時には太陽は完全に沈んで、辺りは暗かった。善次と学校はまで並んで歩いた。帰りに送ってくれるのが常だった。
「コトちゃん」
不意に名前を呼ばれ振り返った。善次はいつの間にか立ち止まっていた。俺の数歩手前にいる。彼は真っ直ぐ俺を見た。
「今日はありがとうね。来てくれて……僕、友達とクリスマスを過ごすのは初めだったんだ。だから嬉しかった」
彼は目を細めて微笑んだ。その微笑みは何の濁りのない幸福そうな顔だった。きらきらして、眩しかった。白のコートを羽織った背に、翼さえ見えた気がした。その時、善次が本当の天使に見えた。
真っ直ぐに「ありがとう」と言われ、照れくさくって、善次から顔を背け歩き出した。善次は駆けてきて、俺の隣に並んだ。
「……ケーキ、うまかったな」
「うん」
俺は天使のような友達と並んで歩いた。善次と過ごした時間はまるで夢のようだった。現実味がないのだ。彼の家も、為すこと全てが善行ばかりの彼の天使のような人間離れした性格も。
善次と善次の母親は善意の象徴だった。何者をも拒まない、全てを受け入れる寛容さが彼らにはあった。
そうであるのに、食事前の祈りの言葉を口する善次の母親に恐ろしいと感じた。今でもはっきりとした理由はわからない。が、その後も稀にその顔を見る――またはそう感じることはあった。
ここで、聖書について立ち返らなければならない。それは善次を説明する事において重要なものだったから。
善次はその本に書かれてある事を正しいことだと信じていた。つまり、良き行いをすることが重要なことであり、そうしなければならない使命でもあるかのように振舞っていた。
彼は自己より他者を優先し、自分の持っているものを持っていない人に分け与えた。俺ならばそんなこと出来ない。そういう行動をとる善次が理解できないでいた。(理解できないからといって、嫌だったわけではない。むしろその性質に救われていたから)
俺は何よりまず自己の感情を優先する。それに加え、ろくに人と関わらずに生きてきたから、他者との意思疎通や共に何かをするといった経験が乏しい。
それだから、俺にとって他人の感情を想像することは容易ではなかった。人のためにだとか、相手を心地良くさせる言葉や態度を知らないでいた。自分から挨拶したり、話しかけたり、愛想よく笑ったり――そういうことはしたことがなかった。
気に入らないことがあると言葉で表現せず、相手を睨み黙り込む。思い返せば、却って相手に反感を与えてばかりだった気もする。
善次はそんな俺にも優しかった。どんな人間にも良い面を探し、感謝していた。
そういう善次の性質は彼自身に良い影響ばかり与えたわけではなかった。何でも受け入れる彼は何かと押し付けられやすかった。そして、良いように使われていた。
あれは掃除の時間のことだった。俺と善次のいる班は一階から三階の階段を割り当てられていた。善次は二階から一階へかけて帚で掃いていた。
三階から二階までを帚で掃いていた同じ班の二人の内の一人が「下に落としちゃえばいいよ」と言って、塵取りでとらずに、踊り場から二階の階段に向かってごみを掃き落とした。そうしてさっさと帚を片付けに行ってしまった。
教師が通りかかって、階段に溜まったごみを見て、掃いたごみを塵取りで集めている善次を呼んだ。二階の踊り場から階段を指さして「ここ、ごみ残っているわよ。ちゃんと掃除しなさい」と注意した。
善次は不思議そうな顔をしていた。それもそのはずだ。善次はちゃんとやっていたのだから。
怒られている善次を見ても当の本人たちは知らん顔していた。善次も善次で何も言い返さなかった。訳のわからないまま、教師に謝っていた。それで、善次が悪いことになった。
そうやって罪を着せられることはあっても、善次は笑っていた。眉を下げて、少し困った顔で。
俺はあの時人間の狡さを見た。怒られることから逃れるために、他人に罪を着せる。そして、その罪などまるで知らない顔をして、平然と生きている人間が如何に多いことか。
あれは――確か昼休みの時間に起きたことだった。その日は、雪が降っていた。珍しい雪に興奮して、皆校庭に出ていた。俺と善次は雪にはしゃぐような性質じゃなかったから、図書室で二人で本を読んでいた。
休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴った。俺達は教室に向かって歩いた。
途中で、善次が図書室に忘れ物をしたと言った。「先に戻っていて」と言い残して、元来た道を足早に戻って行った。
それで俺は一人先に教室に戻った。教室には二人の男子生徒がいるだけだった。
どういう経緯があったのかははっきり思い出せない。ただ、あの時の言葉だけは覚えている。
その二人の前には壊れた何かがあった。この二人が壊したのだろう。二人は「どうしよう?」と焦っていた。
「坂下がしたことにすれば?」
一人の生徒がこんなことを言い出したのだ。
「坂下がやったなら、先生もそんなに怒らないし、それにあいつ、絶対いいよって言うよ」
俺はその時、何故だか無性に腹が立った。正義感とかそういう大層なものではない。ただ、善次の顔が浮かんだ。口元に笑みを浮かべて、目には何の色も浮かべない善次の顔が。
それで、善次が怒られて、当の二人はお咎めなしで、平然としている……
善次と一番親しいのは俺だった。善次は俺のものだと認識していた。その善次が良いように扱われる――それが、どうにも気に食わない。
そして何より気に食わないのは、罪を着せられても善次が否定しないことだった。彼ならば自分がやったと謝罪しかねない。
俺は二人に近づいた。二人の前に立って――俺の背は低く、背の順で並ぶといつも前から一番か二番だった――「坂下がしたことにすれば」と言った男の顔を見上げた。
「何だよ」
俺はそいつの二つ目をじっと見た。
「聞いていたのか?」
彼は声を荒げ「お前には関係ないだろ」と突き放そうとした。
当時の俺は不満を視線で訴えるしか手段を知らなかったから、何を言われても視線を外さなかった。
「何だよ、気持ち悪いな……あっちいけよ!」
そう言われた瞬間、カッとなった。理解できない。受け入れられない。こんな理不尽を許してはならないと思った。
感情を言葉で訴えることの出来ない俺は、代わりに頭からそいつに向かって突っ込んだ。
その後どうなったかははっきり思い出せない。ただ、そいつが床に座り込んで、目を真っ赤にして口元を抑えていた姿を記憶している。
後で知ったことだが、どうやら前歯が欠けていたらしい。先までの威勢の良さはどこかに消え、子どもみたいに声を上げて泣いている。
俺も頭頂部がずきずき痛んだ事は何となく覚えている。それよりも、だ。俺にはこの先忘れられない出来事があった。




