七
「明日の夜?」
あの日は学校が休みの日だったから、金曜日のことだ。善次から夕飯を食べに来ないかと誘われた。
「うん、もし用事がないなら――ほら、クリスマスでしょう?母さんがぜひ来て欲しいって――ケーキもあるから……」
行かないという選択肢はなかった。それまで、善次の家でお菓子を食べることはあっても、ごはんに誘われたことはなかった。
次の日になって、善次は学校まで迎えに来てくれた。俺たちは二人で並んで歩いた。
善次の家に着いて、玄関の扉を開けると、いつもの温かい匂いがした。
善次は着ていたコートを脱いだ。コートの下には赤いニットに、サンタクロースの顔の刺繍がしてあった。特徴的だったから今でも覚えている。
夕食までには時間があった。それで、いつものリビングには行かずに、善次の部屋で待つことにした。
彼の部屋は二階にあった。階段を上がって、左右に伸びた廊下を左に進む。
廊下を歩きながら、一体この家にはいくつ部屋があるのだろうと考えていた。俺の住むアパートは、台所と俺の部屋と、母親の部屋の三つきりだった。
この家には沢山の人が住んでいるのかもしれないなどと扉を見ながら思った。
「お前、兄弟がたくさんいるのか?」
「いないよ。僕一人きり」
この家で善次と母親以外の人間を見たことがなかった。こんなに広い家なのだから、家政婦がいてもおかしくはない。
廊下を真っ直ぐ進んだ一番奥の部屋が善次の部屋だった。
彼の部屋は広かった。俺の家の全ての部屋を合わせても、善次の部屋の方が広いくらいだった。
扉と反対側の壁には背丈よりも高い大きな本棚があって、ぎっしり本等が詰められていた。その本棚はほんの小さな子どもだった俺には威圧的だった。
右手には勉強机が左手にはベッドがあった。そして、中央には背の低い小さなテーブルが置いてあった。
「何にもないのだけれどね」と善次は自嘲気味に言った。嫌味にも聞こえかねない言葉だった。けれど、彼は本心からそう言っているに違いないのは、誰にでもわかることだった。
ぼんやり立っていると、「本でも読む?」と善次が遠慮がちに言った。部屋の奥に進み、本棚の前に立った。
背表紙の作者の名が記されてあるところを見ると、カタカナで書かれてばかりあったのを覚えている。恐らく、全て外国の作家の本が翻訳されたものだった。
こんなのがあった。トム・ソーヤの冒険にハックルベリー・フィンの冒険、メアリ・ヒギンズ・クラークの本がいくつか並んであって、それから聖書――聖書を始めとして、キリストの行った奇蹟の話だったり、クリスマスの話、それから天使の話だったりとキリスト教関連のものが沢山あった。
その中に印象的なものがある。それはある画集だった。漫画チックな絵ではなくて、妙にリアルに描かれた絵で、聖書にあるキリストの絵や天使の絵が描かれていた。
とても子どもが好んで見るものには思えない。それが、善次の本棚にはあった。あの本には仰々しい絵ばかりで威圧されたのを覚えている。
その中のある天使の絵を見て、善次と似ていると思った。俺が善次を度々天使のようだと思うのも、この絵を見たせいだった。
その絵は今でも覚えている。というのも今、手元にその本があるからだ。グイド・レニの受胎告知。それがその絵の題名だった。
ふっくらした頬に色の白い肌、色素の薄い髪――あの頃の善次はまるで天使のようだった。天使のように清らかで美しい。こういう人間が存在するのかと疑るほど、彼は善良な人間だった。
俺は本棚の前に立って選んでいるふりをした。背表紙を眺めるけれど、そのどれにも少しも興味が湧かなかった。
ちょうど目線の高さにある段の目に付いた本を適当に手に取ってみた。それは子ども向けの新約聖書だった。
「これは?」
善次はその本は、新約聖書でキリスト教という宗教の聖典だと教えてくれた。そして、キリストの行った奇蹟について滔々と喋り出した。如何に良きことかを俺にわからそうとするように。
「まさか、覚えているのか?」
善次は頷いた。「前はね、毎週日曜日には教会に行ってたんだ。その時に読んでいたの。それで覚えちゃった」
「ふうん」
聖書も教会も俺には馴染みのないものだった。善次は「今は寝る前に読んでいるの」と付け足した。
「特にね、悪魔との問答のところが僕は好きなんだ。ちょっと借りていい?」
これは善次のものなのだから、断らなくともよい。俺は善次に本を渡した。
善次は中央にあるテーブルに座った。そして、俺に手招きした。俺は善次の隣にぺたりと座った。
善次は本を開いた。パラパラと捲って、目当てのページで捲るのを止めた。すぐに目当てのページを見つけるあたり、本当に内容を覚えているのだろう。
俺は善次の肩に顎を載せて、その本を――というより彼の視線の先を追った。
善次はゆっくり読み上げる。イエスが悪魔を退けた件だ。確かルカによる福音書だった。
荒野で四十日四十夜断食をした後で、空腹を感じたイエスの前に悪魔が現れる。
「あなたが神の子ならば、この石をパンに変えてみろ」と悪魔が囁く。
「人はパンだけで生きるのではない」とイエスは悪魔を退けた。
子どもだった俺はこれを見て、そうだとしても俺はパンが欲しいなと考えていた。
また悪魔はこう言ってイエスを誘惑した。
「お前が神の子なら、ここから飛び降りてみろ。きっと死なないから」
イエス言った。「神である主を試みてはならない」
悪魔は再度、「お前が俺にひれ伏すならば、この国の権力と栄光を全てお前にやろう」
イエスは言った。「引き下がれ、サタン。あなたの神である主を拝み、主だけに仕えよと書いてある」
こうしてイエスは三度悪魔の誘惑を退け、悪魔はしばらくイエスから離れた。
俺も今ではその箇所を諳んじる事が出来るようになった。が、何故善次がこの箇所を好きだと言ったのか、そちらの方が気になっていた。
誘惑を退けたところに感銘を受けたのか。善次自身誘惑に駆られやすいと感じていて、それでこのイエスの行いを教訓にしようとしたのか。
善次は夜、眠る前にこの聖書を読んでいると言った。善次はこの本に書かれてある事を良いことだと認識していた。この本が彼に善悪を教え、幼い善次の人格を形成するにあたり影響を与えていた。
その善次と共に過ごしたのだから、俺も聖書から影響を受けざるを得ないと思うだろう。
が、俺と善次は同じにはならなかった。一緒にいても性質は異なっていた。まるで、対局にいるかのように。
俺は途中で飽きて、善次の肩にもたれて眠っていた。
「コトちゃん」
肩を揺すられて目を覚ました。
「ご飯できたって」
ごはんという言葉に俺の頭は覚醒した。階段を下りてキッチンの扉を開いた。目の前の光景に俺は呆然とした。
まず目についたのはキッチンの壁際には背丈よりも高いクリスマスツリー。天井近くの壁に沿って銀色のメッキモールのガーランドと赤いリボンが等間隔に飾られてある。(ツリーにも同じものが飾られてあった)それから、壁の低いところには、杖の形をした赤と白のキャンディーがいくつも飾ってあった。
一枚板のテーブルには見たこともない豪華な料理が机を埋め尽くさんばかりに並べられてあった。
何があったか今でもはっきり覚えている。食べた時は何という名前か知らなかったが、調べたから今はわかる。
ローストチキンにコーンクリームキャセロール、ポットロースト、それから星や人型をしたジンジャーブレッドが透明の袋に入っていて、袋の口を赤と緑のリボンで結んであった。
それらはきらきらして眩しかった。
俺と善次は並んで座り、(座る時、善次は椅子を引いてくれた)善次の母親はその向いに座った。座ると、彼ら母子は口元で両手を組んだ。何が始まるのかと俺は二人を代わる代わる見た。やがて善次の母親が口を開いた。確かこういう文句を口にした――
「主よ、無事にこの日を迎えられたことを感謝します。皆と過ごせることを感謝します」
そこで、善次の母親は俺を見て微笑んだ。その時の笑みが――微笑んでいるのに、どうしてかちょっと無気味に感じられた。
何と表現すれば良いのだろう?作り物みたいだった。如何なるものの影響を受けない笑み――こちらがどんな感情を投げつけたとしても、二人の間に壁があるかのように彼女には届かない。干渉することの出来ない笑み――今、当時を思い出して、そう表現出来る微笑みだった。それで俺は無気味だと感じたのだ。
「主の祝福をコトちゃんに――あなたの慈しみに感謝して、この食事を頂きます。ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と身体を支える糧としてください。私たちの主、イエス・キリストによって」
『アーメン』善次と彼の母親は合わせて言った。
「さあ、頂きましょう」
善次の母親はローストチキンを切り分けて、皿に取り分けた。一番に俺に渡してくれた。
俺はこの先、こういう料理を口にしたことがない。善次の家は普通の家とは違っていた。外国の料理、外国の子どもが観るようなアニメ、それから善次の部屋にあった聖書や食事の前の祈りの言葉――善次の家からは宗教と、それから外国の匂いがした。(後で知った事だが、DVDはアメリカのものらしい。だから正しくはアメリカの匂いだ)
テーブルの上の料理を食べ終えると、善次の母親は冷蔵庫からケーキを取り出した。
最後に出されたケーキ――苺のホールケーキに、サンタクロースとトナカイの砂糖菓子とMerryChristmasと書かれたチョコレートのプレートが上に載せてあった。
サンタクロースの砂糖菓子とチョコレートのプレートは何も言わずとも俺にくれた。
クリスマスケーキも砂糖菓子も、チョコレートのプレートも全部初めて食べた。それが美味しかったのを今でもよく覚えている。




