六
善次に関心を向けると、善次の周りにいる人間も俺の世界に入り込んできた。といっても、一人一人をはっきり認識していたわけではない。この頃は人間に対して無関心を貫いていたから、善次以外に顔や名前を覚えている者は一人もいない。ただ、周りが何をしているか――善次が何をされているかを捉えるようになっただけだ。
善次は善良な人間だった。怒りや嫌悪といった感情が欠落しているみたいだった。嫌なことをされても、彼は笑って許した。善次がそういう性質だったから、俺も彼に対しておよそ他の人間に取るような態度をせず、近づいていけたのだと思う。
彼は善良な人間だった。周りの人間も彼をそう認識していた。が、中にはそれを良く思わない人間もいた。自分よりも秀でている者を嫌悪し、攻撃せずにはいられない――そういう連中は善次に対して「良い子ぶって」と非難した。それも善次の近くで、善次にぎりぎり届く声で。
良い子ぶってという言葉はある意味では正しかった。善次は「良い子」であろうとしていたから。それでも、そういう言葉は聞く者に不快な印象を与える。彼らはそれをちゃんとわかっていた。
が、善次はそういう言葉を聞いても特別機嫌を悪くしたりはしなかった。聞こえているはずだったのに、まるで聞こえていないかのようだった。
その目は何も語りかけてこない。口元には笑みさえ浮かべている。善次は口を開かなかった。善次は何も言わない。何も言わなかった。
何か言いがかりをつけられても、何も言い返さなかった。随分長い時間を共にしたが、彼が人の悪口を言ったのを聞いたことがなかった。
彼らは気味悪そうに善次を見た。明らかな敵意や嫌悪、そして嫉妬の感情があった。そういう感情を自己に対して持つ者に対しても、善次は親切だった。彼らが風邪で休んだ日、後日、その分の授業のノートを進んで見せてあげていた。
善次の人の良さは俺にも理解できないものがあった。無差別な慈善――それ故に、彼の善良な性質は、利用されることもしばしばあった。
幼い人間は純粋である。いや、純粋と言うより、余計なことを考えない。喜びも、怒りも、嫌悪も、それらに伴う行動全てに単純な動機がある。
年齢を重ねるにつれて、知性を得る。その知性は本来の欲のままに使われれば、それは自分の利益のために、他人を利用するために使われる。
そして、善次は利用される側の人間だった。
二人で並んで立っている男子生徒がいた。一人が善次をちらりと見た。そしてもう一方の生徒の耳元で何か囁いている。
「坂下にやらせればいいよ。どうせ、断らないから」
にやりと意地の悪い笑みを浮かべたのを俺は見逃さなかった。そして笑顔を作り直して、後ろから善次に近づいた。
「坂下」
善次は振り返った。「どうかした?」と呑気に答えている。
「あのさ、坂下。これ今日中に提出しなきゃいけないんだけどさ。俺今日用事あってさ、代わりにやってくれない?」
「――うん、いいよ」
「本当か?ありがとう。助かるよ」
大して感謝の念が伺えない言葉を言って彼らはさっさと教室を後にした。善次はその後ろ姿をじっと見ていた。彼らの姿が見えなくなった後も。
「なあ、お前今日塾の日じゃなかったか?」
俺は善次の側に行ってこう尋ねた。水曜日は塾の日だった。それで、俺は善次の家には行けない日だった。
善次はちょっと口ごもった。「そう、だけど……でも、塾まで少し時間があるから、平気だよ」半ば自分に言い聞かせるような言葉を口にした。
この時以外にも「坂下にやらせばいいよ。どうせ、嫌って言わないよ」という言葉をよく聞いた。彼が押し付けられやすいのには訳がある。
第一に彼は頼まれれば断る事がなかったから。第二に嫌な顔をしなかったから。第三に、不利益を訴える事がなかったから。押し付けるには適当な人間だった。
その言葉の通り、善次は嫌とは言わなかった。何でも「いいよ」と受け入れていた。たとえ、自分が損する事になったとしても。誰かが助かるのならば良いと言わんばかりに進んで引き受けていた。
それは善次の良い部分でもあった。一方で善次ばかりが損をしているように見えない事もなかった。
彼は損をしている事に気づいていないようにいつものあの笑みを浮かべている。俺は損をする事が嫌いだったから、善次の事は好きだったが、その面は受け入れられなかった。
それで、俺は度々不満を表した。善次は何故俺が不満なのかわからないと困ったように笑うだけだった。




