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かつて彼は天使だった  作者: 秋吉紫貴
第一章 回想録
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 あれから、俺は度々善次の家を訪れた。そして、その度に手厚い歓迎を受けた。善次の家に行けばお菓子が食べられる。それだけが目当てだった。

 

 善次の母親は料理が好きらしく、よく手作りのお菓子が出されたものだ。特にオーブンを使う料理が好きらしく、アップルパイやチェリーパイ、チョコチップクッキー、他にも色々。


 ある日はガラスの皿に載ったプリンが出された。その上にはホイップクリーム、さらにサクランボで彩られていた。見た目はレストランのショーケースで見かけるそれと殆ど変わらない。


 お菓子を食べて、アニメを観る。アニメは外国のものばかりだった。今ではよく覚えていないが、兎と鴨が出てくるアニメは面白かったので何となく覚えている。


 兎と鴨が猟師に「兎狩りだ」「鴨狩りだ」と言い合って、相手を撃つように仕向けていた。が、兎の方が一枚上手で、結局いつも鴨が猟師に撃たれていた。撃たれても、嘴だけは綺麗に残っているのは面白かった。


 ある雪の降る日のことだった。善次の母親は「今日はね、とっておきよ」とやけに張り切っていた。その手には林檎が握られていた。


 その日のおやつは焼き林檎だった。黒の楕円の浅い鍋には林檎が丸々一個載せられてある。最後の仕上げにと善次の母親はアイスクリームディッシャーで大きな箱からバニラアイスをくりぬき、湯気の出ている熱々の林檎の上に載せた。アイスクリームが溶けて林檎を滑って鍋に落ちる。


 横の善次の見よう見まねでナイフとフォークを使って林檎を頬張る。あったかくて、甘くて、酸っぱくて、幸せな味がした。鍋の熱で熱されたバニラアイスはカスタードのようになった。


 善次の家では、冬には林檎のお菓子がよく出された。それで、祖母の家では冬の定番は蜜柑だったなと思い出した。祖母は冬になると蜜柑を段ボール一箱買っていた。段ボール一杯に詰められた蜜柑。炬燵に入って無心で食べた。指からは蜜柑の匂いがした。


 善次の家のリビングは、いつでもバターと小麦粉の焼けた独特なむわっとした甘い匂いを纏っていた。

善次の母親は俺が来る事を本当に快く思ってくれていたみたいだった。手土産の一つも持たない、礼儀のなっていない子どもを何故こうも親切にしてくれるのか今では不思議でならない。が、当時の俺はそんな事など気にかけられない程、自己の欲求の事ばかり――自分の空腹の事ばかり考えていた。


 善次の母親は俺のことをよくわかっていて、おやつは俺の好きな甘いものばかり出された。「沢山食べてね。まだまだあるから」と微笑んでいた。


 隣の善次を見ると、母親と全く同じ顔をしていた。二人とも、とても幸福そうだった。二人の顔を見ながら、この家で育つとこういう顔になるのだろうかと考えていた。この家は幸福の象徴だった。


 美味しい食べ物があって、それをお腹いっぱいになるまで食べられて、誰にも咎められない。俺の家とは大違いだった。俺の母親はよく食べ過ぎだと俺を咎めた。


 善次と席が隣になる前のことだった。母親が帰って来るのは七時で、それまで夕飯は食べられない。それで空腹に堪えかねた俺は台所を物色した。


 すぐに食べられそうなもの――と、そこで電子レンジの上にスティックパンがあるのを見つけた。七本入りで、袋はまだ開けられていなかった。食べ物を目の前にして、我慢する事の出来なかった俺は、乱暴に袋を破り、一本、また一本と口に詰め込んだ。気づけば袋の中には一本のパンも残っていない。


 腹が満たされると今度は眠くなって、俺は袋をその辺に放り投げて、居間でごろりと横になった。床に転がっていた虎のぬいぐるみに手に取ると、それを枕にした。目を閉じる。いつしか意識はなくなっていた。


 物音で目が覚めた。俺は目を擦りながら、身体を起こした。母親が空になったパンの袋を手にしていた。


「あんたこれ全部食べたの?」


 母親は信じられないものを見る目で俺を見た。


「だって、腹減ってたんだもん」

「だからって全部食べるなんて……明日の朝の分だったのよ!」

「知らないよ、そんなの」

「前も、買い置きしていたお菓子全部食べた尽くしてたじゃない。あんなに叱ったのに……あんたって子は」


 母はぎろりと俺を睨んだ。俺は何故母が俺を睨むのかわからなかった。だって仕方のないことだった。食べても食べても空腹は満たされることはなかった。


 母親に怒られたことなどどうでも良くて、それよりも、その一件があってから母がパンやお菓子の買い置きをしなくなったことの方が問題だった。それからというもの、俺は空腹を堪え忍ばねばならず、それにはかなり苦労したものだった。


 それだから、善次は俺の救世主だった。俺と善次は好みが良く似ていた。同じものを食べて美味しいと感じたし、二つのものを半分こして分け合った。大抵は俺の方が多く食べていたが。


 同時に食べ始めても、俺は食べるのが早いからすぐに皿は空になった。すると、善次が「僕の分も食べる?」と言うのが常だった。そして俺は遠慮なくそれを食べた。


 善次の家を訪れるようになってから、必然的に学校でも彼の側にいるようになった。善次の家に行かない日も、一緒に教室を出て校門まで歩いた。周囲からは奇妙な目を向けられていた。その目は「どうして坂下は人見なんかと一緒にいるんだ?」と言っていた。


 善次と一緒にいる時間が増えるにつれて、俺の目や耳は自分以外のことにも関心を向けるようになった。俺の目は善次を追いかけた。耳は、善次の名前に反応するようになった。


 授業である生徒が当てられた。その子は答えがわからない。教師は簡単に助け舟を出さなかった。それでその子はおろおろと困り果てていた。善次が振り返ってその子を見て口をパクパクさせている。どうやら、答えを教えようとしているらしい。助けようとしているところ残念だが、何と言っているか、全然わからない。


 他人の事など放っておけばいいのに、善次はそうしない。困っていたり、狼狽えていたりすると、何とかしようとした。


 うまく出来なかったり、他の子よりも遅れていたりすると、甲斐甲斐しく世話した。いや、そうせずにはいられなかった。それが、彼を表す顕著な性質でもあった。


 甲斐甲斐しく周りの世話をするのが、彼の癖だった。いや、癖と言うよりも、彼の神経が彼をそうさせずには落ち着かなかったのだろうと思う。


 それから、あれは社会の授業のことだった。班ごとに調べたことを模造紙にまとめて発表するというものがあった。


 授業中に終わらせることが出来ず、放課後残って作成している班もあった。善次の班もそのうちの一つだった。(授業中、彼の班はろくに作業をせず、おしゃべりばかりしていた)が、善次以外の人間はいなかった。善次一人が残っていそいそと作業していた。


「まだやるのか?」

「うん、あと少し。コトちゃんは先に帰っていて」

「じゃあな」

「うん、また明日ね」


 こういうやり取りをしたのを覚えている。


 そして発表当日、善次のいる班は大いに褒められていた。特にリーダーである生徒は構成や事細かに調べられていると褒められていた。模造紙を見ると、善次の名前が一番下に書かれてあった。取り組んだ時間が一番長かったのは善次なのに違いなかった。それを誰も評価しなかった。その顔に不満を表すことはなかった。


 俺の目が映し出す善次は相変わらず天使のような良い子だった。乱暴な言葉を使ったことがなかった。声を荒げることもなかった。誰かを悪く言ったり、咎めたりすることもない。


 善次は誰が見ても良い子だった。大人からは俺のように怒られる事はなく、褒められている事が多かった。「かしこいね」「えらいね」「良い子だね」これらの言葉をよく聞いた。それらの言葉に対して善次は何とも答えずに微笑んだ。その微笑みは得意げでもなく、彼にとってはただの返事の代わりだった。


 当時の俺を表現する言葉とは大違いだった。(当時の俺を表現する言葉と言えば「汚い」「貧乏」「嫌な子」だった)


 同級生も、多くは彼を一歩引いて、尊敬の眼差しで見ていた。


 俺は殆どの時間を善次と共に行動するようになって、彼の性質を――他者が善次をどう見ているか知るようになった。


 俺にとって善次は、学校で最も親しい――いや、唯一の友人だった。善次が何故俺と一緒にいてくれるのかはわからなかった。俺には善次しかいないが、善次はそうではない。前に言ったように、彼の周りにはいつでも人がいた。そこに俺が割り込んだだけだった。


 俺は善次以外に親しくしてくれる人間がいなかったから、彼に執着していた。彼を他の誰にも取られたくない。独占欲――俺は更なる欲を求めるようになった。


 ある日のことだった。教室の隅で壁に凭れながら(壁に凭れていたのは俺だけで、善次は真っ直ぐ立っていた)善次と話していると、ある女が割り込んできて、善次に話しかけた。


 善次は良い子だから邪険にすることはない。二人で楽しげに話しているのを見ると、苛々してきた。


 後になって思い起こしてみると、あの女生徒は俺と善次の話しているのを邪魔しようとしたわけではなく、授業か係のことで用があって善次に話していただけのような気がしてきた。


 けれど、あの時俺は取られると思った。善次を取られる。善次が取られれば、あのお菓子の家も失われてしまう。俺は一人になって、また空腹を、激しい飢餓を味合わなければならない――嫌だ。俺の中に沸き上がったのは、激しい怒りの感情だった。


 善次は俺のものだと思い込んでいた。自分の所有物を他人に取られた憤り――あの時の感情は、言い表すならば、おもちゃを取り上げられた子どもと同じだった。


 俺はその女の髪を力任せに引っ張って、善次から引き離した。女は当然泣き出した。


 善次は驚いていたに違いなかった。それは表情から見て取れた。が、すぐにいつもの平静さを取り戻した。口元にはあの穏やかな微笑みさえ浮かべていた。が、ただ目だけは妙に真剣に真っ直ぐに俺を見ていた。


「コトちゃん、どうしたの?どうして、そんなことをするの?」


 静謐な声だった。どうして――それは、善次が取られそうで嫌だったから。俺の方がずっと善次と一緒にいるのに、横取りされた気がしてむかついたから。色々の感情があった。が、そのどれも満足に言語化する事が出来なかった。


 いや、違うな。もっともらしい理由をつけているだけで、結局のところ、いつか彼が言った通り、彼といる事によって得られるお菓子が奪われることを恐れているだけだった。


「……あいつがいけないんだ」


 やっと出て来たのは、そういう虚しい言葉だった。

 

 善次は俺の目を見続けている。善次はいつから俺の事を見透いていたのだろうか。俺は俯いて、その視線から逃げた。


 善次は少し屈んだ。俺よりも少し背の高い彼と背丈が同じになった。


「僕と話しがしたかったの?」


 俺は気づまりで、答える事が出来なかった。善次は俺の態度や拙い言葉から、俺の思いを理解しようと努めた。


「――何か、気に入らない事があったとしても、手は出しちゃいけないよ。絶対に」


 俺は顔を上げた。真剣な目――この目からは逃れられないと思った。俺はやむを得ず、頷いた。


 俺が善次の言う事を聞くのは、善次が一方的に決めつけるのではなく、俺の話を――というより、俺の感情を理解しようと努める態度を示したからだった。


 当時の俺を理解しようという者はいなかった。素行の悪く、協調性のない、いきり立ったら歯止めの利かない、そういう人間は恐ろしい。


 理解できないものは悪と決めつけて、社会の外に追い出した方が心身共に楽だ。そういう社会の中で、理解しようという態度を示したのは善次だけだった。


 本来なら交わることのない二人だった。富裕層と貧困層、優等生と劣等生、善人と悪人――それらのどれをとっても、俺と善次は交わるはずがなかった。


 それを結び付けたのは、たった一個のプリンだった。きっかけとは些細なもので、日常のあらゆるところに潜んでいる。


 そう、始まりは些細なことだった。本当に、些細な善意からだった。


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