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かつて彼は天使だった  作者: 秋吉紫貴
第一章 回想録
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 それは、俺がまだ保育園に通っていた頃のことだった。


 俺はよく母方の祖母の家に預けられていた。忙しい母の代わりに、祖母は俺の面倒を見てくれていた。


 祖母の家は俺の住んでいるアパートから離れた所にあった。その当時、俺は三つか四つだったから、どこだか覚えていない。けれど、電車を二回乗り換えなければいけない事だけは覚えている。


 祖母の家も古いのには変わりなかった。けれど、一軒家であったし、隣の家の物音に煩わされることがなかった。そして、何より祖母のいる家だった。


 祖母の家は俺の家とは違っていつもお菓子があった。背の低い戸棚の中には、雪の宿、ミックスゼリー、一口大の最中や饅頭、羊羹の詰め合わせがいつでもあった。


 そういった常備されているお菓子も好きだったが、殊に俺が好きだったのは和菓子屋で買った人形焼きだった。それは狸や太鼓や紅葉の形をしたものだった。俺はよく祖母にねだってその人形焼きを買ってもらっていた。


「ねえ、ばあちゃん。たぬきが食べたい」


 祖母は俺がそう言うと眉を下げて笑った。そして決まって「またかい?本当にコトちゃんは人形焼きが好きだねえ」と言った。そうだ――祖母も俺のことを「コトちゃん」と呼んだ。その後も善次の家で祖母の事を思い出す事が度々あったが、それはこのせいかもしれない。


 俺がねだると祖母は嫌だとは言わなかった。机に手をついて、徐に立ち上がった。祖母は膝が悪かった。立ち上がりも容易ではなかった。歩いていると度々立ち止まって膝を擦っていた。


 祖母と手を繋いで人形焼きを買いに出かけた。道を歩いていると、狸の絵の横に「人形焼き」と彫られた看板が見えた。店のショーケースには箱に詰められた人形焼きが並んでいた。箱の隣に狸の置物があった。それで、この店の人は狸が好きなのだなと思った。祖母が買うのはその箱に詰められたものではなくて、棚の上にある籠に入った袋詰めのものだった。


 俺は袋を抱えて家へと帰った。袋をじっと見つめながら。


「オイテケ、オイテケ……」


 袋に書かれた文字を見て、そのまま口にした。おいてけ。何を置いてけと言っているのだろう?俺は袋を抱きかかえながら、置いて行かれるものを意識していた。


 祖母の家に帰ると、居間にある炬燵に入った。祖母の家の居間は畳で、八畳程の広さだったろうか。部屋の真中に炬燵があって――引き戸の側の壁際には石油ストーブがあった。反対側の壁には小型のブラウン管のテレビがあった。居間の炬燵で、おやつを食べることが当時一番好きな時間だった。


 俺は透明の袋から狸ばかり選んで口に入れていた。というのも、中に入っているあんこの量が狸が一番多いからだった。


 俺は食べることに夢中で、祖母はそんな俺を何も言わず笑って見ていた。食べることを喜んでくれているみたいだった。それが、俺は嬉しかった。


 おやつを食べて、晩飯を食べて、お腹が一杯になると眠くなる。肩まですっぽり炬燵に入って横になった。石油ストーブの燃焼筒が熱を放ち赤い色をしていた。俺はそれをじっと見つめていた。


「炬燵で寝たら風邪ひくよ」


 祖母は手で俺の髪を梳かすように撫でた。手で髪を梳かれるのが心地よかった。だから俺は髪を切らないでいた。母には短くしろと言われ続けていたが。


 祖母は優しい。甘えさせてくれる人。わがままを聞いてくれる人。食べ物をくれる人。そういう人は良い人だった。


 髪を梳かれながら、いつしか俺は眠っていた。ここは居心地が良い。ずっとこうやっていたい。誰かに甘えて生きていたい。


 祖母の家にいる時は貧困を意識しなかった。俺にとって貧困は空腹を意味していたからだった。祖母は満足に食べさせてくれていた。


 今思い返せば、祖母の家も裕福でないのには違いなかった。買い物に行くと値引き品をよく手にしていたし、着るものも粗末なものばかりだった。それでも、その後の生活に比べれば貧困とは程遠いものには違いなかった。


 この時が永遠に続くものだと信じて疑うこともしなかった。祖母は俺を置いて行かない。理由はないけれど、そう安心しきっていた。


 それが、ある日の事だった。確か、小学校にはまだ通っていなかったから、四つか五つくらいの時だったと思う。母親に連れられて祖母の家に行った。母はチャイムを鳴らさずに、鍵で玄関の扉を開けて、家の中へと入った。その光景を見て、何だか様子が違うぞと思った。訝りながら母親の後を追った。


 いつも祖母が寝ている部屋に布団が敷かれてあった。そこに祖母が眠っているようだった。ただ、顔に白い布が掛けられていた。


 俺はどうしたのだろうと不思議に思って近づいた。あの時の俺はまだ死というものを理解できないでいた。眠りと死の区別がつかない。だから、寝ているのかと思って、何も考えずに布団の隅に座った。


 ばあちゃん、寝てるのか?ばあちゃん。俺、狸が食べたいよ――そう思いながら、そっと、顔を覆っている白い布に手を伸ばした。


「琥都、だめよ」


 母の声に俺は伸ばした手を引っ込めた。そして母の顔を見た。母は何とも言えない顔をして、後ろに立っていた。怒っているわけではないようだった。その顔が何だか無気味で、俺はパッと立ち上がって、その場から逃げた。


 それからのことはよく覚えていない。ただ火葬場に行って、骨になった祖母を見たのは覚えている。灰にまみれた骨は、かつて祖母だった面影はない。一人の人間だった骨は脆く所々砕けていた。


 そこで漸く祖母はもう存在しないのだと理解した。祖母は死んだ。死というものを見たのはこの時が初めてだった。


 人間の行く末を見た。いずれこうなるのだ。その骨に何の感情も湧いてこなかった。ただ骨だなという感じしかしなかった。


 死とは呆気ない。死んだら何もなくなるのだと思った。隣の母を見れば、いつもの疲れた顔をしていた。その目には光がなく、暗い色をしていた。目の下の隈の色を一層濃く映って見えた。


 また俺は置いて行かれた。祖母が死んでから、俺は一人でいる時間が長くなった。狸の人形焼きが恋しくなった。一緒に買いに行ったのに、店の場所はおろか名前すら憶えていな髪を撫でて欲しくなった。祖母の皺だらけの手が懐かしい。あの手はもうこの世にはない。赤みのある皮膚は燃えて灰になった。残ったのは骨だけだった。この目で見た。


 父親が出て行って、祖母が死んで、また俺と母親の二人きりになった。母は俺を見捨てなかった。相変わらず働き続けている。自分と俺を養うために、忙しくしていた。


 幼い頃、母親には怒られてばかりだった。食べる事に執着していた俺は、家にあるものを食べ尽くしていた。それでよく母には叱られた。


 空腹なのも、貧乏なのも、祖母が死んだのも、全て母親のせいだと思い込んでいた。自分ではどうすることも出来ない理不尽な境遇に対する怒りをどこかに向けなければ気が済まなかった。


 母親と二人でいるのは落ち着かない。それで、俺はよく虎のぬいぐるみを連れてアパートの近くにある公園に行った。


 それは、公園と呼べるのか怪しいものだった。ブランコと砂場があるだけで、地面には雑草が生い茂っていた。手入れのされていないのは一目瞭然だった。


 周りから避けられている俺にとって、唯一の友達である虎のぬいぐるみを抱いて、何をするでもなくしゃがみ込んでいた。


 地面をじっと見ていると、蟻が列を成して行進しているのを見つけた。その列の先を辿って行くと、そこには蝶の姿があった。


 羽の一部が欠けている。それは蝶の形をしているが、群がって来る蟻によって元の形が崩されつつあった。蝶は死んでいた。俺はその蝶に祖母の姿を重ねていた。


 蟻は列を乱さずに、蝶の欠片を運んでいる。何故だか、その情景が強く脳裏に刻まれて、今でも不意に思い出すことがある。


善次の家でケーキを食べ、ココアを飲んでいるこの瞬間は間違いなく幸福だった。が、幸福であると、同時にそれを失うのではないかと不安になる。


まだ親しくもないのに、善次も俺の事を置いて行くのではないか。そういう不吉な予感が俄かに脳裏を掠めて不安になった。


「どうかした?」


善次が両手でマグカップを持ったまま黙りこくっている俺の顔を隣から覗き込んでいた。俺は首を振って、残ったココアを一気に飲み干した。


「もう一杯いかが?」善次の母親はすかさず、俺にココアを勧めた。そして俺の返答を聞く前に空のマグカップを持ってキッチンへと歩いて行った。その足音は静かだった。


「そうだ、テレビでも観る?見たいものあるかな?」

「わかんない。俺の家、テレビないから……」

「そうなんだ……DVDもあるんだよ」と言ってテレビの下の戸棚を開いた。俺が何言わずにいると、「何が良いかな、家にあるのは外国のばかりなんだ――」と言いながら、一枚選んでプレーヤーに入れた。リモコンの再生ボタンを押す。大きな画面が鮮やかな色を映し出した。


 随分昔の事だから、そのアニメの名前を忘れた。が、針金みたいな女と水兵服を着た男(その男はほうれん草を食べると不思議と筋骨隆々となった)が出ていたのを覚えている。


 二杯目のココアを飲み干した頃にはもう五時前だった。それで、俺は善次の家を後にした。善次の母親は帰る時、着た時に焼きあがったと言っていたブラウニーを持たせてくれた。「また来てちょうだいね」と微笑みながら玄関で俺を見送った。優しい母親だと思った。優しい聖母のような母親と天使のように善良な子ども――二人の姿は、理想の家族像であった。


 善次は学校まで俺を送ると言った。俺達は二人並んで話しながら歩いた。道の両側には木が整然と並んであった。葉はその木から落ちつつあった。色を落とした黄色の葉が、道を隠している。


「琥都ちゃんの家はどの辺りにあるの?」

「学校の向こう側。墓地の近く」

「そうなんだ。ずっとそこに住んでいるの?」

「そうだよ。お前は違うのか?」

「僕はね、去年まで神奈川に住んでいたんだ」

「神奈川に?」

「うん。近くに海があってね、二階の僕の部屋から海が見えるんだ。それがすごく綺麗でね……」


 善次は滔々と話し出した。いつもより話す速度が速い。彼は興奮していた。話したくて堪らないといった感じだった。


「いいとこなんだな」


 俺がそう言うと、善次の顔がパッと明るくなった。


「そうなんだ!本当にいいところだよ。いつか一緒に行けたらいいな」


 今の家だって十分立派なのに、それよりも良いところがあるのだろうかと思った。


 学校について、俺は善次と別れた。俺は一人歩きながら俺の住む町を見ていた。大抵古い家ばかり並んでいた。壁の塗装が剥げていたり、黒く汚れていたり、またその壁に蔓が這うように伸びて、家を食っているように見えた。それらからは、古臭い惨めな感じがした。


 アパートに付いた時にはもう日は暮れていた。パートの錆びた階段や黒く汚れた壁を見て、自分の家の貧乏であることを再認識した。

 

 善次の家を思い出した。善次の家は綺麗だった。が、落ち着かない。見慣れぬ綺麗な家よりも古い家に親しみ――というより相応しいという感じを持った。


 今思えば、見慣れぬ綺麗な新しいものよりも崩れかかった古いものの方に安心や親しみを感じるのは、変化を恐れる人間には至極当然のことだろう。何もおかしな事ではない。


 俺は、ランドセルから鍵を取り出して、部屋の中へと入った。電気のスイッチを入れる。真っ暗な部屋に明かりが灯った。見慣れた背の低い丸テーブルを映し出した。



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