二
善次が死んだと聞いても何も感じなかった。彼の死を聞いてから暫くの間、ただぼんやりと過ごしていた。
授業が終わって帰る支度をしていると名前を呼ばれた。振り返ると教室の扉の側に海人が立っていた。目が合うと、彼は軽く手を振った。善次が死んでからも、変わらずこうして迎えに来ていた。
並んで階段を下りていると、海人は唐突に「サイゼ行かない?」と口にした。それを耳にした瞬間、俺の頭には善次の姿が浮かんでいた。それは善次とも来たファミレスだった。俺は反射的に「行く」と答えていた。
今日までの間、海人は俺を誘わなかった。多分、そういう気分じゃなかったからだろうと思う。映画やドラマで人が死ぬシーンがあると、周りの人間は決まって泣いていた。だから、海人も善次が死んで悲しいのだと思った。それに比べて俺はどうだったろう?俺は、今どういう感情なのだろう?考えてみた。けれど、よくわからなかった。
駅前のサイゼに着いて、俺達は空いているテーブルに座った。受験前なこともあって一応過去問を開いてはみたが、紙の上にある問題に向き合う気は起こらなかった。
「そういえばここさ、坂下とも来たよね」
その言葉を聞いた瞬間、電気が流れたような鋭い刺激を感じた。
「……ああ、ゼンジと……」
頭や身体が痺れて、うまく機能していない。俺の口は錆びた鉄のように鈍く動いた。
海人の言葉の通りここは以前善次と来た場所だ。今は、善次はいない。今はーー?この瞬間、現実が目の前に現れた。
暫くの間、善次は俺の前に姿を現さなかった。けれど、またいつか元に戻ると思っていた。だって、離れると思っていた中学だって結局は同じだった。
高校では、今度こそは別になるに違いなかった。けれど、どこかで、高校でも善次がいると信じていた。
また、会える。今は会えないだけで、またいつか、いつものように、微笑んだ善次が僕を待っているーーそんなところを想像していた。
俺は何か大きな思い違いをしていた。善次は死んだ。もう善次は二度と俺の前に現れない。善次の顔を見ることも、話すことも、こうしてファミレスに来ることもない。彼について新たに何かを知ることはない。彼の時間は永久に止まったままだ。死とはそういうものだった。
俺は亡くなった祖母を思い出した。祖母の顔にかけられた白い布。焼かれて骨になったこと。もう、こちら側に干渉することは決してないことを。
「どうしてーー?」
善次の声が聞こえた。そんなはずはなかった。けれど、俺の耳は善次の声を捉えていた。彼は俺に問いかけている。俺はいつもこの「どうして?」に困らされた。
善次の「どうして?」に答えることが出来なかった。だからいつも逃げていた。
今、もうその必要はない。善次はもういない。もう、考えなくてもいい。それなのに、どうして頭の中で善次の声がするのだろう?
俺はかつて、善次がいなくなることを、想像したことがあったろうか?
善次は死んだ。善次は死んだのだーーどうして、一体どうして善次は死んでしまったのだろう?何故彼のような善人が死ななければならないのだろう?
視界がぼやける。頬に何かが伝った。テーブルの上に水滴が落ちた。
俺は自分が泣いている事に気づいた。どうして、俺は泣いているのだろう?映画やドラマの中の彼らと同様に俺は悲しんでいるのだろうか?
善次とは暫く会わなくても平気だった。淋しいと思わなかった。会いたいとも思わなかった。だから、死んだと聞いても何も感じないと思っていた。けれど、実際はそうではなくてーーゼンジの死は思っていた以上に衝撃が大きくて、暫くの間反応出来ずにいた。脳の全ての機能が停止してしまったかのようだった。それが今頃になって動き出した。
けれど、それはおかしな話だった。それまでは、何も気にかけなかったのに、彼が死んで漸く悲しいと感じたのだから。
俺は涙を拭った。何も気にかけなかった薄情な人間に泣く権利などない。悲しみを吐き出すような息を吐いた。
「ゼンジは何で死んだんだ?」
今も「どうして?」に答えられない俺は、その問いを海人に委ねた。
「先生はーー突然だったって言ってた。眠ってーー朝になったら死んでたって。それを坂下の親が見つたって言ってたけど……」
突然、何の前触れもない、予期せぬこと……
反対に、海人から善次が死を予期する病気にかかっていたか尋ねられた。俺は首を振った。そんなの、善二の口から聞いたこともなかった。体育の授業だって皆と同じようにしていたし、倒れたことなど一度もない。
けれど、そう問われると、顔色が悪いことがあったのを思い出した。活気がないというか、覇気がないというか、とにかく、そういう日があった。でも、あれは寝不足とかそういうもので、病気のせいではないはずだ。
海人は善次と同じクラスだったから、俺よりも一緒にいる時間が長かった。新たな何かを得たいがために、海人に善次が死ぬ前に何か話していないか尋ねた。けれど、何も得られなかった。善次は俺だけでなくて、海人とも話さなかったらしい。
俺は海人と別れて、家に帰ることにした。学校から最寄りの駅のホームで電車を待った。待っていると、ある光景が浮かんだ。雨が降っている。隣に立つ善次。そしてこう言ったーー
「雪になりそう」
そうだーー冬休みに入る最後の日、善次は俺に会いに来た。それで、一緒に帰った。
何故、善次はあの日俺に会いに来たのだろう?それも、死ぬ前に。あれは偶然だったのだろうか?
あの日は特別な事は何も話さなかった。ありふれた、世間話しかしなかった。
思えば、彼は肝心な事は何も言わなかった。私立の中学には行かずに、俺と同じ公立の中学に通うことになったのも、善次の口からは何も語られなかった。
もし、同じクラスにならなければ、あの日俺が話しかけなければ、あのまま何も言わないつもりだったろうか?
善次の考えている事がわからない。前はーー小学生の頃はお互いのことがよくわかっていた。甘いものが好きで、人参が嫌いで、引っ越す前は鎌倉に住んでいて、毎日寝る前に聖書を読んでいて、外国のアニメや本が好きなことーーそれが今は彼が何を考えているのかわからない。いつからこうなったのだろう?
やって来た電車に乗った。乗っている間、ずっと善次の事を考えていた。
家からの最寄り駅に着いて、俺は一人で家に帰った。電気をつけると祖母の仏壇が目に入った。
善次も祖母のように骨になって、仏壇を置かれているのだろうか?そんな事を考えながら俺は仏壇の前に座った。
「ばあちゃん」
俺は祖母を呼んだ。何故かは自分でもわからなかった。
「ばあちゃん……」
祖母の仏壇の前で俺は動けずにいた。何か答えをくれるのを待っているかのように居座り続けた。返事はない。骨は語らない。
俺は祖母を思い出しそうと努めた。けれも、祖母の顔は靄がかかったようにぼやけて、はっきりとしなかった。鮮明に浮かんでいるのは、最後に見た祖母の姿ーー祖母の姿だったあの骨だった。あの骨を見て俺は死という概念を理解した。
俺は善次の骨を想像してみた。けれど頭に浮かぶのは小学生の時の、あの天使のような微笑みを浮かべた善次の顔ばかりだった。




