十一
坂下が僕らから距離を取っているのは明らかだった。僕にとっては都合が良かった。ただ、琥都くんからも遠ざかっているのが意外だった。
そして、もう一つ意外だったのは、琥都くんが何も言わないことだった。僕はそれが嬉しくもあり、不自然にも思えた。彼らは二人で一つのようだったから。何者にも二人を別つ事など不可能に見えたから。
違和感はあったが、僕はそれには気づいていないふりをして、平然と学校生活を送っていた。
坂下は僕らから離れていく一方で、伊勢野さんと一緒にいるところをよく見かけた。最初は同じクラス委員だからだと思った。
坂下はあの伊勢野さんを前にしても特別張り切らず、いつもと変わらない人の良い笑顔を浮かべていた。坂下は誰に対しても態度を変えない。たとえ近づく者が悪人だとしても、まるで善人の前にいるかのように振る舞った。僕は坂下を阿呆だと思った。
坂下の態度にーーというより、坂下と伊勢野さんの間に何かこれまでにないものを感じ取ったのは、ある日の学年集会でのことだった。体育館で、各クラスの委員長が先頭に立って、後の者は名簿の順に二列に並んであった。
坂下と伊勢野さんも並んで僕らの前に立っていた。その間は僅か五十センチ程度だった。伊勢野さんが坂下の耳元で何か囁いた。それに対して坂下も一言、二言何か言った。伊勢野さんが坂下の方に顔を向けて微笑んだ。坂下も伊勢野さんに視線を向けた。微笑む伊勢野さんの顔が坂下の視界に入るーーすると、坂下は慌てて顔を背けた。
それを目の当たりにして、僕は眉をひそめた。不愉快だった。以前にもこの感覚になったことがある。坂下が琥都くんに話しかけて、それで琥都くんが笑うのを見た時だ。琥都くんにしても伊勢野さんにしても、僕が近づきたいと願う人に限って、彼らは坂下に近づいた。坂下ばかりが欲しいものを手にしていた。それが悔しかった。
放課後、坂下は担任に頼まれて、教室内の掲示物を貼り替えていた。伊勢野さんが駆け寄って、「坂下くん、私も手伝うよ」と声をかけていた。
「大丈夫。伊勢野さん今日習い事あるんでしょう?」
「坂下くんいつもそう言って全部一人でやっちゃうじゃない」
「僕は別に、かまわないよ」
「だめだよ。ねえ、足永くん!」
ぼんやり二人を見ていたら、突然名前を呼ばれて、拍子抜けした。
「え?僕?」
「手空いてる?これ貼り替えるの手伝って欲しいな」
僕は渋々立ち上がって、二人の元に行った。僕が来ると坂下は「ごめんね」と申し訳なさそうな顔をした。伊勢野さんの手前邪険に扱うことも出来ず、僕は「まあ、いいよ」と言う事しか出来なかった。
それから、幾日か経ったある日の放課後のことだった。琥都くんが唐突に「善次は、休みか?」と聞いた。周りが騒がしいせいもあって、何を言っているのか聞こえない。
「来てるよ。どうして?」
「いや、最近見かけないから」
僕は疑問に思った。二人は一緒に学校に来ているようだった。待ち合わせしているのか、詳しいことはわからないが、琥都くんに何も言わずにいるのが坂下らしくないと思った。
校門まで出て来たところで、英語の教科書を机の中に入れっ放しなのを思い出した。(僕は大抵の教科書を学校に置いていた)
明日は英語の授業がある。家で訳しておかないといけない。僕には琥都くんのように「わかりません」と押し通す勇気は持ち合わせていない。
僕は忘れ物をしたと琥都くんに告げて、教室まで取りに帰った。教室の前に着いて、扉に手をかけた時、その扉の窓から坂下の姿が見えた。坂下は彼の席に座っていた。その前に、伊勢野さんが坂下と向かい合って座っている。
委員会かと思ったが、何か異様な感じがした。僕は扉の外からまじまじと二人を観察した。
机の上に置かれた二人の手が触れ合っているように見える。伊勢野さんが身を乗り出した。二人の距離はほんの僅かーー互いの鼻先が触れている……
僕は殆ど反射的に隠れてしまった。見てはいけないものを見た気がした。委員会ではないのは間違いない。二人は何をしているんだ?
扉の後ろでしゃがみ込んで、さて、どうしたものかと考えた。今、ずけずけと教室内に入れる空気ではなかった。けれど、明日は十一日で、当てられる可能性がある。氷見の嫌味ったらしい溜息を聞くはめになる。どうしたものか……
まあいい、明日の英語は五限だ。朝学校に来てやればいい。最悪、誰かに写させてもらえばいいさ。僕はそう思って、どうしようか散々迷った挙句、徐に立ち上がって元来た道を帰って行った。
次の日になって、僕は早めに登校して昨日出来なかった英文を訳していた。時折、前の席の油谷の背中をつついて、どう訳したか尋ねた。
「おはよう、足永くん」
天使の声が聞こえた。席替えをして僕は廊下側の最後列、つまりドアのすぐ側の席になった。伊勢野さんは席が離れてからも朝教室に入って側を通る時、声をかけてくれた。
坂下との距離が近づいたのも確かだが、僕もそれなりに彼女とは話すようになった。
「お、おはよう」
「寝癖、ついてるよ」
頭を人差し指で指して微笑んだ。彼女は話す時に語尾を伸ばす癖があった。
僕は反射的に髪を押さえた。一瞬の緊張、それから顔の筋肉が緩むのを感じた。
油谷が振り返って「最近仲良いよなと」揶揄った。僕は「別に」と素っ気なく言って、英文の訳に戻った。
「ふうん」
まだ、にやにや笑ってこちらを見ているから「そんなんじゃないからな」と念を押した。伊勢野さんの興味のあるのは僕じゃなくて坂下なのは明らかだった。
「まあ、でも伊勢野さんって彼氏いるもんな」
その一言に僕は驚きを隠さなかった。本当に坂下に気があるものだとばかり思っていたから。
「そうなの?」
「矢部だよ。バスケ部の部長の」
「いつから付き合ってるんだ?」
「一年の時だよ。知らなかったのか?結構有名だと思うけど」
「でも、クラスが別じゃないか」
「友だちの友だちとか、そんな感じじゃない?」
油谷は笑って「てっきり乗り換えたのかと思ったよ」と言った。そして、すぐに「まあ、そんなわけないか」とあっけらかんとしていた。僕は昨日の事もあら、伊勢野さんはてっきり坂下に好意があるのだとばかり思っていたから、困惑せずにはいられなかった。
「でも、彼氏がいるにしては……」
「まあ、確かにな」
油谷は僕の耳元に顔を寄せて声を潜めた。
「伊勢野さんって、誰にでも良い顔するじゃん。思わせぶりっていうかさ……」
僕はその日の間中、この言葉が頭の中で繰り返し響いていた。
五限の英語の時間になった。この日は曖昧な訳やわからないと答える生徒が立て続いていた。五人当てられてまともな事を言うのは一人、二人程度だった。
受験勉強に身を入れており、学校の授業には無関心な生徒が少なくなかった。教師も授業中に別の教科の参考書を開いていても黙認していた。
坂下が当てられた。完全な訳を滔々と口にするだろうと思った。が、この日は違った。坂下は当てられても黙っていた。心ここに在らずといった風だった。
「坂下くん!」
氷見の怒鳴り声で坂下はピクリと肩を振るわせた。
「わからない?」
坂下は口を僅かに開けて、けれど何も言うわけでもなく、石のように固まっていた。氷見はあの溜め息をついた。本日何度目だろう?こちらも聞くに堪えない。
教科書を硬く握り、殆ど叩くようにそれを教壇に押し付けた。激しい音が教室に響いた。元より静かだった教室に、稲妻でも落ちたかのように空気が一層張り詰めた。
「そりゃ、英語の時間に全然別の事をしていたらわからないでしょうね!」
勿論坂下以外にも、別の教科の問題集なり参考書を出している生徒はいた。が、怒りを向けられたのは坂下のみだった。
きっと、わからないという生徒が立て続いて、苛々が募っていたのだろう。坂下は怒りをぶつけるのに丁度良い的だった。
氷見はくどくどと嫌味を言い放ち続けた。坂下は黙っていた。黙るより他はなかった。何故怒られているのかわからない子どものような純粋な顔をしていた。
氷見の声をぼんやり聞きながら、怠いなと思った。ちらりと時計を見た。それと同時に、この調子だと今日は当てられないだろうと安堵した。
「あんなに怒ることないのにね」
「ほんとだよ!坂下くん一年の時からずっと頑張ってるのに」
「ひどいよね」
英語の授業が終わって氷見が姿を消すと、周りは坂下を庇う言葉ばかり口にしていた。僕はケッと胸の内で毒づいた。
それにしても、ここ最近の坂下はちょっと妙だった。普段はシャツの第一ボタンまできっちり締めていたのに、今では外れている。
英語の授業でもそうだったが、始終ぼんやりとしていた。それに加えて、あのいつもの愛想笑いをしなくなった。
英語の訳を進んで見せようともせず、先生の「誰か手伝ってくれないか」という声にも反応しなくなった。
以前のような善人ぶりを発揮せず、誰とも関わろうとしない。坂下は自分から一人きりになろうとした。それだから、冬休みまであと数日に迫った頃、坂下に声をかけられた時には、僕はひどく驚いた。
「足永くん」
振り返ると後ろに坂下が立っていた。坂下から話しかけられるのは、二年の夏休みに偶然会ったあの日以来だった。坂下は小さな袋を手にしていた。徐に中身を取り出した。それを見て、僕は目を見開いた。
「これって――」
坂下が手にしていたのは、ターミネーター2のジョンコナーのサイン入りのブロマイドだった。
「前にいいなって言ってたでしょう?良かったらあげる」
「いいのか?」
「僕には、必要ないから」
坂下は力無く笑った。何故急にくれたのかわからなかった。ただ、貰ってじゃあそれでというのも何だか無骨な感じがしたので、何か話さなければと思った。
「最近さ、伊勢野さんと仲良いよな」
「仲が良いってーー委員会が同じなだけだよ」
「でも親しそうに話してたじゃないか」
「受験のこととか、そういうことだけ。もう、関係ないんだ」
「……まさか、付き合ったりしてないよな」
坂下は首を振った。「そんなんじゃないよ」
「本当に?」
「本当だよ」
「まあ、そうだよな。伊勢野さん彼氏いるもんな」
「え?」
「バスケ部の矢部だって。お似合いだよな」
坂下は何とも言えない顔をしていた。
「どうかしたか?」
「ーーいや、何でもない」
まもなく冬休みに入って、僕は呑気に過ごしていた。退屈でないこともなかった。また、琥都くんに会いたかった。
冬休みの明けた最初の登校日の事だった。坂下の席は空白だった。僕は風邪で休んでいるのだろうと思った。
朝のホームルームで担任が言った。坂下が死んだ、と。驚きはした。それは知っている人間が死んだという驚きの範疇は越えず、その他には何の感情も湧いてこなかった。
悲しみを示している生徒もいた。伊勢野さんは泣いていた。でも、と思った。泣くほどのことか?それほど、坂下と親しい奴がいただろうか?
悲しみを表す権利を有しているのは、ただ琥都くん一人だけのような気がした。休み時間になって、僕は教室を出て、琥都くんのクラスに向かった。
「坂下が死んだってーー」
「は?」
琥都くんは訝るような視線を僕に向けた。もしかして彼も知らないのではないか?
「琥都くん、知っていた?」
琥都くんは僕の目をじっと見続けていた。あの、いつか氷見に向けた、見透かすようなあの目だった。
「本当なのか?」
僕は頷いた。彼はちょっと黙った。やがて口を開いた。
「そう、なのか」
彼が発した言葉はそれだけだった。悲しむ権利を持つ人間は、悲しみらしい悲しみを示さなかった。
坂下は冬休みに入ってすぐ亡くなったと聞いた。それだから、葬儀は、誰も招かれる事はなく、身内だけでひっそりと行われたらしい。




