十
三年生になって、坂下は相変わらず神童のように扱われていた。僕は相変わらずの周囲の態度に辟易した。
琥都くんとはクラスが離れてしまったが、昼休みには、坂下を連れて琥都くんのクラスに行きーー彼は三組だったーー二年の時のように一緒に昼食を食べた。琥都くんは江東と同じクラスで、自然と四人で集まった。
授業が終わると坂下と三組の教室に行ってーー大抵一組の方が終わるのが早かったからーー琥都くんを迎えに行った。が、その点以外では全く関わりがなくなった。体育は二組と合同だし、授業で彼を見る事はない。それが淋しかった。
一月ばかり経って、漸く新しいクラスにも慣れ始めた頃のことだった。一限が終わり、二限が始まるまでの十分間の暫しの休憩時間、突然、ちょん、と肩を叩かれた。振り返ると、伊勢野さんが人差し指で僕の肩に触れていた。
目が合うと、彼女は目を細めて微笑んだ。突然の事で驚いた僕は、間抜け面で彼女の顔を見つめる事しか出来ないでいた。
「ねえ、英語の宿題やった?」
「さ、最初のところは……」
「私も。今日絶対当てられるよね」
今日は五月一日で、出席番号一番の生徒、つまり僕から当てられる確率が高い。
「訳合ってるか、一緒に見ない?」
「う、うん……」
この顔面を前に、拒否する選択肢があるだろうか?彼女の訳は完璧に見えた。答え合わせなどする必要などないように思えた。僕はわからないところを曖昧にしていたので、助かったが。
このやり取りをした覚えがある。ああ、そうだーー坂下だ。まだ琥都くんとそれほど親しくなかった頃、英語の訳を合わせている二人のところにーー実際は坂下のを琥都くんが写しているだけだったがーー僕を誘ったのが坂下だった。
坂下の訳は完璧だった。助かったのは、僕ばかりだった。まるで遥か上から哀れみの手を差し伸べられているみたいだった。それは余裕から生まれる態度だった。僕はそれに屈辱を感じた。
「どうかした?」
伊勢野さんが首をちょっと傾げて僕の顔を覗き込んでいる。その仕草に、僕は心臓をぎゅっと鷲掴みにされた。可愛い子はこうちょっとした所作まで可愛いのだと感心した。
「いや、何でもないよ」
「氷見先生って怖いよね。ちょっと訳が違ってただけでも、溜め息つくじゃない?」
「ああ、あれだろ」
僕は氷見の真似をして鼻にかかったわざとらしい溜め息を着いてみせた。伊勢野さんはフフッと軽やかに笑った。
「似てる似てる」
「絶対こう言うよなーーわからない?そんなに難しかったかしらねえ」
伊勢野さんはまた笑った。鈴を転がすような声だった。僕の話をにこにこしながらきいている。合間に相槌を打つのも忘れない。
「足永くんって面白いね」
「そう?ありがと」
僕はこんなに可愛い子に面白いと言われ、気分が高揚としていた。それでいつも以上に口が動いた。
「足永くんは、坂下くんと仲が良いよね」
突然、伊勢野さんがこんな事を言い出した。その一言でさっきまで動き続けていた口がぴたりと止まった。
「坂下と?」
坂下なんかと仲が良いと思われているなんて、心外だった。
「うん。だって昼休みいっつも二人でどこか行くじゃない?」
「ああ、それは……三組に友達がいてさ。その友達の所に行ってるだけだよ」
何故急に坂下の名前が出たのか疑問だった。伊勢野さんは、まさかーー坂下の事が?そういう感じか?
有り得ない話ではない。坂下はまあ人気がある。目立ちはしないが、密かに好意を寄せられるタイプだった。例えば体育の時間、坂下は運動が得意ではなく、ぼーっと突っ立っているだけにも関わらず、女子の視線の先には坂下がいた。「賢いよね」とか「この前のテストでまた一番だったんだって」とか、当たり障りのない会話の裏にはその言葉の意味通りの尊敬の念だけでなくて好意が隠れていた。
伊勢野さんまでーーどいつもこいつも坂下ばっかり。あんな菩薩みたいな男のどこがいい?ちょっと勉強が出来て、家が裕福でーーただそれだけじゃないか。
「あのね、クラス委員になったでしょ。でも私坂下くんと話した事なくって。それで、どんな子なのかなって……」
僕の疑いの目に、伊勢野さんは否定するかのように慌てて付け足した。
「坂下は……」
何も言葉が出てこない。彼女の手前、何とか絞り出した。
「ずっと勉強してるな」
「ずっと?」
「ああ、ずっとだね。あと、真面目だな。規則は守るし。それからーー良い奴だ」
「確かに、優しそうだよね」
「優しいよ、坂下は。頼まれ事をして断った事がないね。まさに、イエスマンさながらだね」
調子が乗り出した所で、チャイムが鳴った。そこで僕と伊勢野さんとのおしゃべりは終わった。
昼休みになって、琥都くんの元へ行った。弁当を食べながら、僕は伊勢野さんの事を考えていた。伊勢野さんがしている事は坂下としている事と変わらない。それなのに、伊勢野さんには全く嫌な感情が湧いてこない。坂下の話題を出された時はちょっと苛々したが、それは坂下にであって伊勢野さんにではない。
もし、坂下が女の子だったらこんなに腹が立たないのだろうか?僕はちょっと想像してみた。
坂下の肩に頭を凭れかける琥都くんの姿を、琥都くんの肩越しに殆ど触れそうな距離で一つの漫画を読む二人の姿を、想像した。
いや、だめだ。全然だめだ。それはもう友達の一線を超えている。余計に腹が立つ。
それにしても、かわいかったなあ、伊勢野さん。僕の頭は再び伊勢野さんの事に切り替わった。朝、話した事を思い出して、あの幸福さが蘇る。
琥都くんの顔を見て、僕は我に返った。いけない、琥都くんがいるのに、他の女の子に惚けているなんて!
僕の一番は琥都くんの顔面だ。僕は心の中で謝罪した。やっぱりかわいい。自ずと顔の筋肉が弛む。
「何にやにやしてんの?」
江東が怪訝な顔で僕を覗き込んだ。
「別に、にやにやしてないさ」
「いや、してた」
「してないよ」
「前から思ってたけどさ、お前ちょっと変わってるよな」
「僕が?」
江東と言い合いをしていると、坂下が笑った。微かな声だったが、坂下が声を出して笑うのを聞くのは久しぶりだった。
「何笑ってんだよ」
「ごめん、可笑しくて、つい……」
その顔が、哀れっぽい顔をしていたから、尚更腹が立った。琥都くんは僕らを見ながら、パンを食べる口は止めなかった。
「坂下にまで笑われちゃってるねえ」江東はにやりと笑った。
「ったく、もういい。お前とはもう口聞かない。今日限りで絶交だ」
僕は江東の顔の前に人差し指を立てて言い切った。
「そんなに怒るなよ。一年からの付き合いじゃないか」そう言って肩を組んできた。江東は日が経つにつれ、だんだん遠慮がなくなってきた。それに腹が立たない事もない。が、僕の顔面至上主義は、彼の顔面を前に敗北した。僕は心の中で「顔が良くなかったら許してないからな」と独り言ちた。
僕らはこういう他愛もない日々を過ごした。その日々に変化を見せ始めたのは坂下だった。
「おい、行こうぜ」
放課後なって、いつものように坂下を誘いに行った。ちょっと間があって、「いや」と言った。
「は?」
「あ、あの、今日は塾があってーーだから、今日は先に帰るね」
「そ」
あれから、坂下は時折ふらっと姿を消すようになった。休み時間、放課後、気づくと坂下の姿がない。琥都くんのクラスへ行って、彼に会うと「善次は?」と尋ねられる。きまりが悪いから、僕は休み時間になるやいなや教室を出ていこうとする坂下を捕まえた。
「どこ行くんだ?」
坂下は固まって、何も言わない。暫くして漸く口を開いた。
「自習室に……」
「自習室?」
「そ、そう。受験が近いから、勉強しないといけないんだ」
それ以上言及しなかった。坂下の事などどうでも良かった。何ならいない方が都合が良かった。僕にとって彼は邪魔な存在だったから。




