九
琥都くんと坂下が親しいのには嫉妬した。けれど、坂下以外にも琥都くんに近づくのは嫌だった。以前琥都くんが江東を僕の家に誘ったのも、あまり嬉しい事ではなかった。勿論江東の事は嫌いではない。が、琥都くんに近づくという点において、僕には我慢ならない事だった。
僕はここのところ、琥都くんとの距離は近づいた。坂下の家より僕の家に来る方が多くなった。一日に一緒にいる時間も僕の方が長くなった。「琥都くん」と呼ぶようになったし、彼もそれを受け入れていた。(実際、何も言わないだけで、受け入れているのかは謎だったが)
それなのに、あの二人の親密さには及ばない気がするのだ。僕と琥都くんの関係は坂下のそれとは違う。
坂下の隣に立つ時は、頭を彼の肩によりかかっていた。坂下を呼ぶ時のあの声の調子。坂下が塾の日も、必ず別れ道までは一緒に帰っていた。
言うなれば、二人はパズルの隣同士のピースのように、ぴたりと合わさっている。その間に何も入る事が出来ない。たとえ、他の面のピースが現れても、彼らを離す事にはならない。そんな強い繋がりが見られた。
何が違う?僕と坂下との違いは一体何だと言うのだろう?琥都くんが坂下にするように、僕も琥都くんに振る舞えば良いのだろうか?
ーーいや、だめだ。そんな事をしたら、あの冷たい目で見られるだけだ。彼は人に触れられるのを良しとしなかった。以前弾みでぶつかられて、すごく嫌そうな顔をしていた。
彼を見つけた時、あんなに綺麗な子が同じ学校、同じ学年にいる事が信じられなかった。同じクラスになって、話が出来るだけで舞い上がっていた。僕の家に琥都くんが来た時には、神経が昂って、これ以上の事はないと思った。
けれど、今はそれでは足りない。もっと、もっとーー欲が深くなる一方だった。人見琥都はドラッグのようだ。保健の授業の時ビデオで見た。一度知ってしまえば、後戻り出来ない。出会った時の刺激は永久には続かない。もっともっとと更なる刺激を求めて、それ以外考えられなくなってしまう。彼はそんな危険な子だ。
十月になると暑さも落ち着いて、青々と空に伸びていた葉は赤や黄となって地面に落ちていく。景色は秋を表し始めた。
坂下は夏休みが明けた頃からより一層忙しくしていた。ここらで一番偏差値の高い進学校を受験するらしい。不意に視界に入る坂下はいつも勉強していた。
最後に坂下が僕の家に来たのは、いつだっただろう?夏休みに入る前ーー六月だったか、七月だったか……ただ、相変わらず遠慮がちに座っていたのは覚えている。出されたお菓子やお茶に手も付けないでいるのを見て、なんだこいつと思った。
坂下の家にはそんなに行かなかった。第一彼の家は遠かった。第二に坂下の家は電車で二駅のところにあったから。
この頃になると、昼休み以外は坂下と話す事がなくなっていった。坂下の影は薄れ始めた。僕はそれが喜ばしかった。このままいなくなってしまえばいいのに。そう切に願っていた。
恐らく高校では坂下に会う事はない。それでは、琥都くんは?琥都くんはどこの高校を受験するのだろう?坂下と同じではない事は確かだ。彼は成績が良くなかったし、勉強するのも面倒がっていたから、坂下と同じはまず無理だ。
高校では二人は別々になる。それでは、僕とは?もし琥都くんと同じ高校に行ければ、琥都くんの一番は坂下ではなく僕になる。坂下に勝つには、その時を待つより他はない。いつかの勝機を夢見て、二人の姿を見る度に苦虫を噛み潰したような顔になるのを抑えて抑えて日々を過ごしていた。
十二月になったある日の放課後、琥都くんは僕の家に来た。彼は相変わらずくつろいでいた。弟も相変わらず琥都くんに執拗に絡んでいた。
「なあ兄ちゃん、クリスマスのケーキ、チョコにしてよ」
「ケーキ作れるのか?」
弟が突然言い出した声に、琥都くんが反応した。
「作るって言っても市販のスポンジにデコレーションするくらいだよ」
「良かったらクリスマス家に来ない?ほら、こいつらも喜ぶし」
「そうだよ、来いよコト」
弟が後ろから抱き着いた。琥都くんはされるがままになっている。僕は弟を睨んだ。僕だって、まだ触れたこともないのに。小さい子にだけ許される特権を思う存分堪能していた。羨ましいなと思ったのは言うまでもない。
「だから呼び捨てにすんなって」
僕は首根っこを掴んで、引き剝がした。僕は弟のように振る舞う事は出来ない。琥都くんは僕たち二人を見ながら、「――俺も、ケーキはチョコがいいな」ぽつりとつぶやいた。
これは来るということだろうか?期待していいのだろうか?琥都くんとクリスマスを過ごせる。
おお、神よ。これほどの事があって良いのだろうか?
翌日の昼休み、琥都くんは突然坂下にクリスマスの話をした。
「善次も来るだろ?」
前にもあったやり取りだった。ここの繋がりには辟易する。心の中で、来るなと思った。お前はいらない。
坂下は何とも言えない顔をして僕を見た。前のような媚びるような顔ではなくて、呆気にとられた顔をして固まっていた。やがて、坂下の口が氷の溶けるようにゆっくり開いた。
「その日は――塾なんだ。だから行けないや」
琥都くんと二人きり――ではない。弟達がいるから。でも、坂下がいない。邪魔者がいない。僕は顔がにやけるのを必死に堪えていた。勝った……僕の勝ちだ。
クリスマスまであと一週間といった頃、琥都くんは僕の家に来て、数年前に百均で買った飾りを弟と一緒に飾り付けていた。弟を抱き上げて、クリスマスツリーのてっぺんに星の飾りを載せるのを手伝っていた。
「サンタさんに何お願いした?」
ツリーの飾り付けを終えると、弟が突然こんな事を言い出した。
「サンタ?」
「クリスマスにプレゼントくれるんだ!ソリに乗って、夜の間プレゼントを配るんだよ。知らないの?」
「知ってるけど……俺の家には来たことない」
「なんで?」
「何でってーー」
「コト、いい子にしてなかったのか?」
「いい子……」
「いい子にしてないとサンタ来ないんだって。兄ちゃんが言ってた」
琥都くんは黙ってしまった。僕が何と言おうか迷っていると、「大丈夫だよ、今年は来るよ。手紙に書いてあげるよ。コトはいい子だって……」と言って、弟が琥都くんの頭を小さな手で撫でた。末の弟に励まさる彼は頼りなく、悲しそうに見えた。
「コトは何が欲しい?」
弟に聞かれて、琥都くんはちょっと考えた。考えた末に「お菓子、かな」と呟いた。
欲がないのか、食い意地がはっているだけなのか、どちらとも言えない答えだった。
「サンタがプレゼントくれるのは小学生までなんだぜ」
上の弟が言うと、琥都くんは目に見えてしょんぼりとした。その姿は如何にも子どもらしかった。
そして、十二月二十四日、授業が終わって、そのまま僕の家に向かった。ピザを食べて、ケーキを食べた。そして四人でゲームをした。
これで十分だった。坂下がいなくとも、琥都くんは全然平気だった。僕は坂下の影がちらつかないから、苛々する事もない。
帰り際、玄関で靴を履いている琥都くんに僕が駅まで送って行くと言うと、彼はここでいいと遠慮した。坂下には送らせるのに……不意に現れた坂下の影は僕の視界を曇らせた。
「あ、そうだ。これ、琥都くんに」
僕はリボンでラッピングした袋を彼に手渡した。彼は不思議そうにその袋を手にして眺めている。
「これは?」
「クリスマスプレゼント。大したものじゃないけど……」
琥都くんは中を見て笑った。その顔は天使のような、純粋な笑顔だった。袋の中身は彼が欲しいと言ったお菓子の詰め合わせだ。
「サンタ、だ……」
「え?」
「いや、何でもない。……ありがとな」
「うん」
「じゃあ、また明日」
「メ、メリークリスマス」
琥都くんはこちらを振り返らずに、そのまま扉の外に消えて行った。
二年生になって一年間、僕は琥都くんと距離を縮める事に成功した。二年は何も問題なく、順調に終わった。問題は三年になってからだ。
中学三年生になった最初の日、体育館に張り出されたクラス表を見て僕は唖然とした。
僕は一組ですぐに僕の名前を見つけた。が、そのクラスに琥都くんの名前はなかった。代わりに、坂下の名前を見つけた。絶望的な気分だった。神は僕を見放した。
僕は「どうして?」と呟いた。どうして、琥都くんじゃないのだろう?
僕の不機嫌は最高潮だった。相変わらず、名簿一番の窓側の最前列。不愉快だ、非常に不愉快だった。
皆、自分の名前を見つけると各々新しいクラスの教室に入って行った。僕は名簿の順の先に座って、黒板を睨め付けていた。どうして僕が坂下なんかと同じクラスに?どうして琥都くんじゃない?
暫くして担任が入って来て、軽く自己紹介をして、学級通信やら新学期の時間割やらが配られ始めた。プリントを後ろに回すために振り返った。そこで初めて後ろの席の子を見た。
ぱちりと目が合った。ややつり目がちの目がちょっと見開かれる。それもほんの一瞬の事で、すぐに緩んでにこりと微笑んだ。
「ありがと」
神はまだ僕を見捨ててはいなかったようだ。この時の衝撃をどう言葉で表せばいい?
人見琥都を初めて見た時と殆ど同じ感覚だった。かわいい。とてつもなく、かわいい子が僕の後ろに座っていた。
その後の自己紹介で僕は彼女の名前を知った。出席番号二番、伊勢野美来ちゃん。彼女は左目の下の泣き黒子がある。くっきりとした涙袋に、密度の高い睫毛、彼女は目が印象的だった。
一見きつそうな感じがするのに、笑うと目が細くなり、愛らしい印象になる。色の白い肌に、あの透明感……他にはない。
サラサラの黒髪は腰にまで届いていた。前髪は目の上で真っ直ぐに切り揃えてある。まるでアイドルグループにいそうなくらい顔が良い。
そして何よりあの声だ。頭に直接響く甘い声ーー何とまあ、こんな子が同じ学校にいたのだろうか?
新学期初日の最後に委員会を決める事になった。委員会決めは中々進まなかった。
痺れを切らした担任が、推薦制という制度をとり、紙切れを配って名前を書くように言った。
最初に決め始めたのは委員長で、それは男女一人ずつだった。それで名前が上がったのは坂下と、伊勢野さんだった。
「二人とも頼んでいいか?」
担任は聞きつつも、それは殆ど強制的なものだった。僕は振り返って坂下を見た。あのいつもの愛想笑いをしているに違いないと思ったのだ。が、坂下はぼんやりしていてどこを見ているかわからない。
「はい」
先に返事をしたのは伊勢野さんの方だった。「坂下もいいか?」と名指しで呼ばれて、漸く自分に聞かれていると気づいた様子だった。
「は、はい。大丈夫です」
坂下は何だかぼんやりしているようだった。きっと遅くまで勉強して寝不足なのだろうと思った。が、一方で坂下らしくない気もした。いつでも悠々と澄ましているイメージがあったから。
坂下がこちらを見た。僕はぎょっとした。後ろで小さな可愛い声で「よろしくね」という声が聞こえた。坂下が見ているのは僕ではなくて伊勢野さんだった。




