八
夏休みが明けて、人見くんに再会した。もう坂下がいなくとも彼は当たり前のように僕の家に来た。
僕の家に来る前にスーパーに寄って夕飯の買い物をした。人参、ジャガイモ、玉ねぎ……それらをかごに入れていると、人見くんはプリンを持ってきて僕の目の前にかざした。プリンの蓋には値引きのシールが貼ってあった。
「見ろよ、これ。百円しないぜ」
彼は得意げにそのプリンを僕に見せびらかしていた。その姿が末の弟と重なった。僕は羨ましくも何ともなかったが、彼が得意げなのが可愛かった。
家に帰って僕の部屋で過ごしていた。人見くんはさっき買ったプリンを食べている。途中、じっとカップを見つめていた。そして、突然こんな事を言い出したのだ。
「このカラメルって邪魔じゃないか?」
僕らの間に沈黙が訪れた。人見くんの唐突な発言を理解できないでいた。この沈黙の収集をつけるべく、僕は彼に尋ねた。
「どういうこと?」
「いや、これ苦いだろ。俺、苦いの嫌いなんだよ」
彼はそう不満を漏らしていた。
「でも、大抵のプリンはカラメル入っているんじゃないの?」
「まあ、そうだな」
彼はスプーンを指揮棒のように振って、僕を指した。
「でも、例外がある。プッチンプリンのカラメルは可。あれは苦くないから」
「へえ……」
「一番いいのはな、なめらかプリンだ。あれはカラメルが入ってない」
琥都くんは大真面目な顔でプリンについて語っている。ちょっと面白くて笑いそうになるのを必死に堪えた。
プリン談義をしていると突然ドアが開かれた。
「なー兄ちゃんこれ出来ない」
ドアを開けたのは末の弟だった。縫いかけのエプロンを片手に持っている。家庭科の授業でエプロンを縫うのに、授業だけでは終わらず家に持ち帰って来たのだ。人見くんがいるのに気づくと「あ、コト来てたのか」とサラッと言った。
「こら、呼び捨てにすんな。琥都くんだろ?」相変わらずの態度の弟を叱り、彼に謝った。
「ごめんね琥都くん。こいつ生意気でさ」
弟につられて「琥都くん」と口にしてしまった。が、彼は気づいていないのか、特に気に留めず「別にいいよ」と平然としている。
僕はこの時、俄かに彼と距離が近づいたのを感じた。坂下は「人見くん」と呼んでいる。名前で呼ぶ方がそれより親しい気がする。僕の方が人見くんに近い。その優越感が僕を満たして高揚とさせた。
「プリン食べてる!いいなぁ、一口ちょーだい」
弟はエプロンを放り出して、琥都くんの前に座った。彼の食べているプリンを羨ましそうに見つめている。
彼は弟を見て、次にプリンを見た。そして再び弟を見た。ちょっとした間があった。すると、彼はプリンを掬って、それを弟の口に入れた。
食い意地の張った彼にしては意外な行動だった。普段は他人のものをもらってばかりで、与えるところを見た事がなかった。その琥都くんが、弟に自分のプリンをあげていた!
「自分でやれよ。教えてやるから」
「いーじゃん。やってよ。兄ちゃんがやった方が早いよ」
「お前なあ……」
僕は半ば呆れていた。呆れながらも、やりかけのエプロンを手に取って、続きを縫い始めた。五つ歳が離れているせいか、末の弟には甘くなってしまう。
縫い終わって顔を上げると、琥都くんが僕の手元をまじまじと見つめていた。彼の顔がこんなに近くにあったことに驚いた。そして、それに気づかなかったことに勿体無い事をしたと残念に思った。
「できた?」
弟は媚びるような目で僕の顔を覗き込んだ。僕は「ほら」と出来上がったエプロンを渡した。
「やった!ありがと、兄ちゃん」
無邪気に笑う顔を見ると悪い気がしない。だから手伝ってしまう。幼さというものは得なものだ。
「なあ、兄ちゃん。お腹空いた」
今度は二番目の弟が入って来た。時計を見ると六の数字を示していた。
「もうそんな時間か」
琥都くんは立ち上がって帰る支度を始めた。帰って欲しくないと思った。まだ一緒にいたい。
「ーー夕飯、食べていかない?」
「え?」
「今日さ、父さんも母さんも帰るの遅くてさ、作るの僕達の分だけでいいんだ。だから、一人分増えたところで手間は変わらないし……」
「いいのか?」
「もちろん!あ、家に電話する?遅くなったら心配するよね」
「いーよ、どうせまだ帰ってないから」
僕は何と言っていいかわからなかった。彼は家の事をあまり話さない。知っているのは父親がいないってことぐらいだ。母親の事を彼の口から聞いた事が一度もない。聞いていいのか、悪いのか判断がつかなかった。何となく、触れてはいけない気がして、僕は何も言えなかった。
「コト、ゲームしようぜ。」
その沈黙を破るように弟達が彼に構い出した。
「ばか、お前も手伝うんだよ」
調子づいている弟の耳を引っ張って、台所まで連行した。
「今日はカレーか?」
琥都くんはいつの間にか、流しの前に立つ僕の隣に来ていた。僕は琥都くんの横顔を見た。鼻から顎にかけてのラインが恐ろしく綺麗だった。思わず見惚れてしまう。
「カレー……」
「残念、今日はシチューだよ」
買い物していた時の材料を見てそう思ったのだろう。僕が何をかごに入れていたか、ちゃんと見てたんだ。僕はそれを意外に思った。だって彼はプリンに夢中になっていたから。
「そうか、シチューか」
彼は手伝う事はなく、ただ作っているのを見ているだけだった。
ジャガイモの皮剥きを弟に任せて、人参をみじん切りにする。それを見て、琥都くんは「お前、やっぱりばあちゃんみたい」と言った。
「母さんみたい」じゃないのが引っかかった。それでも、彼の顔があまりに幸福そうだったから、聞くのは止した。
四人でシチューを食べた。末の弟は食べながら、スプーンで人参を端に寄せていた。
「こら、人参だけ避けるんじゃない」
「だってまずいんだもん。こんなに細かく切るなよ、避けにくいじゃん」
「わざとやってんだよ。食った方が早いんだから」
ふと隣の琥都くんを見ると、弟と全く同じ事をしていた。琥都くんといると、まるで弟がもう一人出来たみたいだった。
かつて、僕にとって人見琥都は神のような存在だった。それが今、こうして食卓を共にしていると、彼が自分達とはそう離れていない、同じ人間なんだという当たり前の事を実感した。
人見琥都の魅力は僕だけが知っている秘密だと思っていた。が、それはだんだん公になっていった。
それは、ある日の調理実習の時間の事だった。その日はカレーを作る事になっていた。僕は琥都くんとは違う班で、琥都くんは坂下と同じだった。僕は恨めしげに隣のテーブルで琥都くんと同じ班の者を見た。
優等生の坂下は、意外にも料理は得意ではないのか、使った食器を洗うのに徹していた。
琥都くんはというと、相変わらず何もせず、野菜を切る女生徒の手つきをじっと眺めていた。彼は珍しく興味を示していた。彼女は居心地が悪そうにチラチラと琥都くんを見ていた。
「お前、器用だな」
普段は話さないのに、突然琥都くんがそんな事を言い出すものだから、彼女は何も言えずに呆然としていた。少しして、我を取り戻した彼女は「そんな事ないよ。誰でも出来るよ」と取り繕った。
「俺は出来ない」
「それはーー男の子だから」
「海人は出来るぞ」
ここで僕の名前が出されたのを聞き逃さなかった。琥都くんが僕の事を話している。ちょっとにやけたのは言うまでもない。
「へえ、そうなの?意外」
「裁縫も出来る」
「足永くんって家庭的なんだね。全然想像つかないや」
「あいつは家ではばあちゃんみたいだぞ」
彼女はフッと吹き出した。僕は気が気ではなかった。女子と親しげに話している。やめろ、僕以外と楽しそうに話すな。坂下だけでも厄介なのに、これ以上敵を増やしたくない。
琥都くんは人参の皮を剥く女子の手先をずっと見ている。あの目を、女子の手が独占している。
「人参いれるなよ」
人参の皮を剥く彼女の手が止まった。
「嫌いなの?」
彼はこくんと頷いた。余りに可愛い。そんな顔をしてはいけない。そんな顔をしたら、好きになってしまう。
「だめだよ、好き嫌いしちゃ」
彼女の声は何だか嬉しそうだった。
「ならすってくれよ」
「するの?」
「ばあちゃんはいつもそうしてた」
「いいけど……」
彼の班は何だか微妙な空気をまとっていた。琥都くんと同じ班の女子の彼を見る目つきが変わっていた。これは琥都くんがいけない。あの態度は母性を刺激する。
そんな中、カレーが出来上がった。食べながら、向かいに座る女子が顔を見合わせていた。互いに目配せして、何かしようとしているが、行動に移せず、うじうじしている。
意を決して口を開いたのは、琥都くんのために人参をすっていた子だった。眼鏡をかけた、おさげの大人しそうな子。彼女は躊躇いがちに、琥都くんに話しかけた。
「人見くんよく食べるね。カレー好きなの?」
「うん」
琥都くんは顔を上げずに返事をした。彼は黙々と食べ続けていた。口いっぱいに頬ばる姿は小動物を髣髴させた。
「いつもさ、甘いパンばっかり食べてるよね。だから辛いの苦手なのかと思ってた」
「別に、嫌いなのはない。食べられれば何でもいい」
「でも、人参は嫌いなんだ」
琥都くんは黙った。そして小声で「これ、ちゃっと辛いな」と呟いた。
女の子二人は顔を見合わせて笑った。そのカレーは中辛だった。
調理実習が終わった後、さっきの女子達がこんな会話をしていた。
「人見くんってさ、子どもみたいだよね」
「ね、よく見るとさ、ちょっとかわいいよね」
僕はその会話を盗み聞きながら、よく見なくとも可愛いだろと心の内で突っ込んだ。人見くんは可愛い。今更何を言っているんだ。彼を見ていると何でもしてあげたくなる。そういう魅力が人見琥都にはある。
それに、「子どもみたい」と表現したのは、あながち間違っていない。琥都くんは実年齢よりも大分幼く見える。体格とかそれだけじゃない。言動とか行動が幼いのだ。僕の弟と変わらない。
ただ、ここで問題なのは、彼の可愛さが世間に認知し始めたという事だ。




