七
僕と坂下との攻防戦は――それは僕の一方的なものだったが――どっちつかずのままで、一学期の最終日を迎えた。この日は四限で授業が終わった。江東は部活で他のクラスの卓球部の子たちと昼食を食べに教室を出て行った。部活のない僕らは家へ帰る。
僕が彼らと一緒にいられるのは、門を出て、大通りに出るまでだ。彼らはそこから駅の方へ――僕はある事を思いついた。
「ファミレス行かない?」
「ファミレス?」
「腹減ってるでしょ。食べて帰ろうよ」
「俺、そんな金持ってねえよ」
「いくらある?」
「八百……」
彼が小銭を数えようとするのを「大丈夫、それだけあれば足りるから」と遮った。
人見くんは坂下の顔を見た。本当かどうか確認しているようだった。坂下は何とも言えない微妙な顔をしていた。
僕は半ば強引に二人を誘った。駅前のファミレスに着いて、ガラス戸を押して中に入った。人見くんは僕の後ろに、そして坂下はその人見くんの後ろにぴたりとくっついている。
昼間だったが、平日なのもあって中は然程混んではいなかった。案内されたテーブルに着いて、タブレットでメニューを開いた。
初めて来たという割に、人見くんはパッとページを捲って行き、一番最後のデザートのページを見入っている。彼はどうしようもない甘党だったと思い出した。あれこれ悩んだ末、プリンとチョコレートケーキをカートに入れた。人見くんがそんな調子だから、僕は坂下に「坂下くんはどうする?」と尋ねた。
坂下はかなり迷っているようだった。迷っているというより、どれにすればいいかわからないといった感じだった。
「人見くんは他に食べたいものはある?」
こいつ、自分の意志というものがないのか?僕は坂下にも呆れていた。メニューを開いて「嫌いなものないの?」と坂下に聞く。
「特には……」
「じゃあ、ピザは食える?」
「う、うん……」
いくつか分け合えそうなものを注文した。慣れていない感じ。料理が来るのを待つ間、ドリンクバーで飲み物を取りに行った。二人とも仕組みをわかっておらず、一から説明しなければならなかった。
人見くんはメロンソーダを入れていた。その隣で僕はグラスに氷を一杯入れ、コーヒーマシーンでアイスコーヒーを入れた。坂下がグラスを両手に持って僕をじっと見ている。
「どうかした?」
「ううん、何でもない」
人見くんが入れ終わると、空のグラスに烏龍茶を入れていた。
先にテーブルに戻っていた人見くんは半分ほど一気に飲んでいた。坂下は一口飲むと、グラスをテーブルに置いた。目を伏せて、静かに座っている。その姿は絵になる。女子が「王子様みたい」と影ではしゃぐのも頷ける。頷けるが、気に入らない。
「これって何杯飲んでもタダなのか?」
「好きなだけ飲んでいいけど、タダではないからね。二百円だから」
人見くんは呑気に「ああ、そっか」と呟いて、二杯目のジュースを汲みに行った。坂下と二人きりになる。沈黙――気まずい。非常に気まずい……
「坂下もここに来るのは初めて?」
坂下と話す事よりも沈黙に堪えかねて僕は口を開いた。坂下は顔を上げて僕を見た。自分に話しかけているなんて、信じられないといった顔だった。
「金持ちはファミレスには来ないか」
「そんな――家はあんまり外食はしないんだ。母さんが作るのが好きだから」
何だか納得がいった。坂下の母親は如何にも家庭的な見た目をしていた。人見くんは今度はココアを入れて戻って来た。それと殆ど同時に人見くんの頼んだプリンとチョコレートケーキが届いた。届くや否やすぐにスプーンを握って頬張り出した。本能のままに。如何にも人見くんらしかった。
少しするとピザやらチキンやらが運ばれてきた。僕はピザを一切れ取ってかじりついた。坂下は躊躇いがちに一切れ取って、ちまちまと女みたいに食べている。
「坂下は、あれだな。まるで育ちが違うな」
坂下は苦笑しただけで、否定はしなかった。坂下が同級生の他の子みたいに騒いだりしないのは、圧倒的な育ちの差だった。富裕層特有の落ち着きが彼にはあった。
それでは、人見くんは?彼もあまりバカ騒ぎをしない。坂下の影響を受けているせいだろうか?
「坂下もそうだけど……人見くんもあんまり怒ったりしないよね。むかつく事とかないの?」
彼はあっという間にプリンとチョコレートケーキを食べ終えていた。それで、次はピザを取って、二口で口に入れ、ハムスターのようにもぐもぐと咀嚼していた。それをごくんと呑み込んでから「疲れるから」と口にした。
「疲れるって?」
「ほら、怒るのも体力を使うだろう?俺は疲れる事はしたくないんだ」
「なるほど……」
納得がいくような、いかないような、曖昧な理論だった。けれど、まあ一理ある。他人の話題に対して無関心に徹しているのも、目や耳に入ってしまえば、気になって手に入れたくなってしまうからだ。手に入らないと苛々する。そういった感情を鼻から起こらないようにしている。つまり、それは彼が生活するための術だった。
人見くんと話してみると、意外にも人間味がある事に気づく。甘い物に目がないところ。周りの話している事に興味のないふりをして本当は気になっているところ。気に食わないが――坂下を頼りにして、彼の優しさに甘えているところ。
知れば知るほど、人見琥都は魅力的な人間だった。我儘で、子どもっぽくて、何より美しい。それは僕だけが知っていること。
その日を最後に夏休みに入って暫くの間、人見くんには会えなかった。人見くんはスマホ持っていないから彼と連絡することが出来ない。
夏休みの間中、弟の相手をするのにも嫌気がさして僕は特に目的もないが電車に乗ってモールへ行く事にした。
家を出てすぐに後悔した。暑い……暑すぎる。たらたらと汗が、頭皮から背中から湧き出て、ベタベタとして気持ち悪い。
ここまで出てきたのだから後戻りする気にもなれず、駅へ向かって歩いているとあの見慣れたセイレーンのロゴが見えた。
「桃源郷だ……」
カフェの看板を見つめていると名前を呼ばれた。声のする方に顔を向けると、そこには坂下がいた。僕が気づくと「やあ」と手を上げた。そしてこちらに駆け寄って来た。僕はぎょっとした。
「暑いね」
「……そうだな」
俺は適当に返事をした。確かに暑い。八月の半ばといえども、真夏のような暑さだった。坂下はいつものようにへらへらした顔をしていた。暑さで苛々していたのが、より一層増した。「じゃあ」と立ち去ろうとしたその時、坂下の言葉で制せられた。
「何か飲んで行かない?」
「いや――」
やめとく、と言おうとして次の坂下の言葉に制せられた。
「奢るよ」
そこまで言われると断り辛くなって、坂下に促されるままカフェの中に入った。一体どうして坂下と二人きりでカフェでお茶などせねばならない。時間が経つ毎に苛々してきた。それもこれも、この暑さで意識が朦朧としていたせいだ。
「足永くんはアイスコーヒー?」
何が好きで、何が嫌いで、前に何を頼んでいたか――坂下はそういうことをよく見ているし覚えている。
「アイスコーヒー二つ、お願いします」
「いいよ、自分で払うよ」
坂下が二人分を注文し、支払おうとするから僕は慌てて鞄から財布を取り出した。奢ると言われても同い年に奢らせるのは気が引ける。
「ううん、奢らせて。今日、誕生日でしょう?」
坂下は僕の誕生日を覚えていた。人見くんは覚えていないに違いない。こいつが覚えているのが、腹立たしかった。徐に財布を鞄にしまった。
平生、人見くんと二人で下呂が出そうな程甘いものばかり食べているから、ここでもフラペチーノだの甘ったるいラテだのを頼むのだとばかり思っていた。だからブラックコーヒーを飲む彼が意外だった。
それにしても、人見くんを抜きにして面と向かって話すのは殆ど初めての事だった。それで、何となく気まずい。坂下はいつものあの笑みを浮かべたまま一人で滔々と話している。いつもより調子が高い気もする。そういえば、人見君といる時は坂下はあまり話さない。だから調子づいて話す坂下はちょっと意外というか気味が悪い。
コーヒーを飲み終えると、僕達はカフェを出て別れた。一体何の時間だったのだろう?それにしても、坂下は何故僕を誘ったのだろう?特に話したい事があるようには見えなかった。
坂下という人間がよくわからない。善人の面をさげたお人好しだという事。坂下の本心が見えない。話している内容も当たり障りのないことばかり。坂下を前にするとどうにも身構えしてしまう。
悶々としていると、不意にある事に気づいた。坂下の態度は母親が小さな子どもに接するそれと似ている。母親が子どもに話しかけるように僕達にもそうする。それが、気持ち悪いのだ。
アイスコーヒーで冷えた身体が太陽の熱で再び熱せられる。汗が首筋を伝って落ちていく。暑さから逃れたいがために、歩を速めていった。




