六
僕が教室に入ると既に二人が向かい合って座っている。それを見て、今日最初のイラっとした。坂下が僕に気づいた。
「おはよう」
僕は聞こえなかったふりをして、人見くんを見て「何してるの?」と聞いた。
「今日の英語の宿題、訳が合っているか確かめているんだ」
人見くんに聞いたのに坂下が答えた。
「足永くんはできた?」
「……まあ、当てられそうなところだけは」
名前を呼ばれさすがに何も言わないわけにはいかなかった。人見くんはこの間、一度も顔を上げずに坂下のノートを書き写していた。
「良かったら一緒に合わせない?」
こういう時、自然と仲間内に入れてくれるのは坂下だった。それが癪に障った。人見くんはこの間、一度も顔を上げなかった。悔しい。僕は、どうしてもこの坂下善次に勝てない。このへらへらした偽善者に、敗北し続けていた。
人見くんと一緒にいたいが、そうするとこの坂下が付いて来る。人見くんはこいつのどこがいいのだろう。皆目見当もつかない。幼い頃からの友情というものには、どんなものも及ばないのだろうか。
僕の家に来た。坂下の家にも行った。けれど、人見くんの家に行く事はなかった。人見くんは本当に坂下としかいなかった。行くところも坂下の家ばかりだと言っていた。坂下が塾に行っている日は一人きりでいるらしい。
坂下と一緒でなければ、彼は僕の家に行こうとは言わなかった。それでも、以前に比べれば大きな進歩ではあった。
あの日から、全てが変わった。「僕の家に来る?」そのたった一言で、拒絶される恐れに歯向かった事で、僕は先へと進む事が出来たのだ。
「お前、最近坂下たちと仲良いよな」
予鈴が鳴って、自席に着くと、江東が振り返ってこんな事を言った。坂下たちという言葉は引っかかったが、傍目に見ても仲良く見えるという事が僕を舞い上がらせた。
「そうか?」
得意げになるのを抑えて抑えて、何てことない風を装う。
「最近ずっと一緒にいるじゃん」
その言い方にちょっと棘のあるのを感じた。僕は江東の顔をまじまじと見た。けれど、江東はそれ以上は何も言わず、フイと前を向き直った。僕はその背中を見ながら、何を苛々しているのだろうかと思った。僕が人見くんといるのが面白くないのだろうか?江東は何にもわかっていない。まあ、わからなくてもいいさ。人見くんの良さは僕さえわかっていればそれでいい。
江東はその日一日中不機嫌だった。授業の合間の十分の休み時間、いつもなら振り返って話しかけて来るのに、今日は一度もこちらを見ない。
その日の放課後、帰ろうとする人見くんを呼び止めた。彼は振り返って僕を見た。見返り美人とはこの事だ。
「今日は帰るの?」
「ああ、ゼンジ塾なんだって」
「それならさ、僕の家に来ない?」
坂下がいない。絶好の機会だと思った。人見くんと二人きりになれる。そう思って勇気を出して彼を誘ってみた。
「お前の家に?」
「お、弟も会いたがっててさ」
「ふうん」
心臓が激しく鼓動していた。人見くんの耳にも聞こえているんじゃないかってくらい。
「じゃあ、行くか」
人見くんがそう答えた瞬間、僕はこのまま天に召されそうになった。
僕は急いで鞄を持って立ち上がった。そして僕ら二人のやりとりを見ていた江東に「じゃあな江東、また明日」と声をかけた。江東は「あ、ああ……」と歯切れの悪い返事をした。
人見くんが江東を見た。江東は顔を強張らせている。江東はどこか人見くんを怖がっている節がある。あの頭突きの噂のせいだろうか?
「お前も来れば?」
「え?」
江東は目を見開いている。人見くんの言葉は意外だった。彼が坂下以外に声をかけるなど有り得ないと思っていたから。
人見くんの一言で、江東は戸惑いながら、僕らについて来た。江東は頭突きの噂のせいか人見くんを怖がっているようで、進んで話には入らず、距離を取って様子を窺っていた。
何度か家に来ているから、人見くんは僕の弟達ともすっかり馴染んでいた。
「コトじゃん。あ、今日はエトーもいる」
「こら、コトくんだろ」
僕は弟を叱った。慣れ切っているから聞く耳を持たず、人見くんの手を引いて奥へと引っ張って行った。
「なあ、ウノしようぜ」
「俺、それやったことない」
「教えてあげるよ!」
人見くんと弟が奥に入って行っても、僕と江東は玄関でまだ靴を履いたままだ。
「……俺も呼び捨てにされてるけど?」
江東はぼそりと呟いた。僕は聞こえないふりをして、靴を脱いでさっさと中へ入った。
トランプ、オセロ、人生ゲーム、人見くんはそのどれもやったことがなかった。僕の弟にルールを教わっていた。特に末の弟は、誰かに教えるということ、それに人見くんが口を出さずに従順に聞いているのが嬉しいのか、人見くんによく懐いていた。
その光景は微笑ましかった。最初、人見くんを見た時、凛とした美しい子だと感じた。人見琥都という抽象的な美の概念でしかなかった。甘いものに貪欲な姿、誰の目も気にしない孤高な姿、一方で僕の弟に黙って従う姿――彼から人間味を感じた。より一層彼が魅力的に見えた。
どうしてこうまで僕を惹きつけるのだろう?例えば、江東だって綺麗な顔をしていた。入学式の日、彼と同じクラスで嬉しかったのを覚えている。親しみやすさがある。彼といると楽しい。彼も僕の弟と遊んでくれている。彼の接し方は、友人の弟として、わざとゲームで負けたり、年長者としてのそれだった。
けれど、彼に対して人見くん程の執着を持たない。一体何が違うのだろう?二人の顔を交互に見た。つり目の凛々しい顔立ち、顔の系統は似ている。僕はこの手の顔に弱いのだ。
「さっきからずっとにやついてるけど、お前大丈夫か?」
変なものを見る目で僕を見ている。そう言われて、頬が緩んでいる事に気づいた。パッと真顔になった。
「何でもねえよ」
江東の目を見てそう言った――この時、僕は気づいた。ああ、そうか……この目だ。この目なんだ。僕はこの目に惹かれているのだ。
人見くんの目――何と形容するのが適切だろう?冷めた目つきをしている。ただ冷たいだけでなくて、どこか暗い感じもする。翳りのある目。光を投げかけても、その目は何の反応も示さない。内側に何かを隠しているように見える。
僕の知らない人見琥都がまだある。それを暴きたい。彼を知りたい。一番の理解者は僕であって欲しい。何より、坂下善次に負けたくない。




