五
僕の日常に変化が起きた。朝、教室に入って自席に座っていると、前の扉から人見くんと坂下が入って来るのが見えた。人見くんと目が合った。
「よお」
僕の頭は思考停止した。「よお」と人見くんが言った。僕に、人見くんが、挨拶した――
「お、おはよう……」
状況を頭が処理する事が出来ず、僕は言葉につかえた。人見くんはそんなことには気に留めず、僕の隣を通り過ぎて自席に着いた。
「いつの間に仲良くなったんだ?」
江東が振り返って、僕の耳元で声を潜めて聞いた。僕は「まあ」などと適当に返事をした。何故なら、僕自身が一番驚いていたからだ。
夢に見たことだった。それが現実に起きている。喜びよりも、理解できず――というより、刺激が強過ぎて惚けてしまって、神経が麻痺したように思考が停止した。
その日の昼休み、また意外な事が起こった。僕は大体昼食は前の江東が椅子を後ろに向け、向かい合って二人で食べていた。
それが、その日は人見くんが昼食を手に、僕の席に来たのだ。勿論、坂下を連れて。自分の椅子を僕の机の横まで引きずって座った。江東が口をあんぐり開けている。人見くんは目に入っていないのか、全く気にせず話し出した。
「お前今日暇か?」
何の前触れもなく話し始めた。突然やって来た人見くんに驚いた江東は口をぽかんと開けて彼を見ていた。それに気づいた人見くんが江東を見た。二人の視線が合わさると、江東は顔を強張らせた。
「お前、誰?」
「江東くんだよ。ほら、同じ小学校の」
坂下が後ろから言った。
「違うクラスの奴は知らねえよ」
「六年の時、同じクラスだったけど?」
人見くんは「そうだったか?」と不思議そうにしている。江東は呆れ顔で、「人見は本当に人に関心がないんだな」と言った。
その言葉は安心感を僕に与えた。僕の胸中に自分より親しい人がいて欲しくないという独占欲が人見くんに対して芽生えていた。
人に関心がないという事は、とりわけ親しい人間がいたわけではないという事を意味していた。が、一方でそれでも坂下には関心を示したというのは僕には不快だった。一番は坂下なのだ。それが気に入らない。
「で、暇なのか?」
「まあ、特に用事はないけど……」
「善次の家に行くぞ」
僕の頭の上に疑問符が浮かんだのは言うまでもない。人見くんは決まったことのように何の説明もしない。代わりに、坂下が話し出した。
「あのね、昨日足永くんの家にお邪魔したでしょう。それを母さんに話したら、御礼がしたいって言い出して。迷惑じゃなかったら、どうかな?」
「人見くんも行くの?」
「ああ」
彼は当然と言わんばかりに答えた。
「じゃあ、行こうかな」
「なんか、楽しそうだな」
江東が僕らを眺めながら、低い声で呟いた。
「お前も来れば?」
人見くんがそう言うと、江東は首を振った。
「部活があるから」
「そうか」
余りに気のない返事過ぎて、僕は思わず吹き出してしまった。人見くんは「何だ?」と怪訝な顔で僕を見た。
「いや、あっさりしてるなって――何部?とか聞かないの?」
「聞かないといけないのか?」
「いや、そういうわけじゃないけどさ」
人見くんが江東を見て、「じゃあ、何部なんだ?」と形式的に尋ねた。普通なら失礼に聞こえるところだが、彼の場合それがあまりにあからさまでそうは感じられない。
「卓球だよ。人見は帰宅部だっけ?何かしないの?」
彼は口を歪めてちょっと考えた。ややあって「面倒だし、動くと腹が減るから」と述べた。
「何か、人見らしいや」
それまで少し顔に緊張が伺えた江東が笑った。どうやら人見くんは他人を嫌って、意図的に人を寄せ付けないのではなくて、関心がない故に、他人との関係が育めないだけであった。彼が何よりも関心があるのは、どうやら食べ物だった。殊に甘いものには目がない。
放課後になって、人見くんを挟んで、今度は坂下の家に向かっている。ここいらの道を歩いたことのない僕は、二人と歩きながらきょろきょろしていた。見渡す限り立派な家ばかりだった。
二人が急に立ち止まった。白いレンガ造りの家――僕は口をあんぐりあけて、間抜け面を晒していた。
「ここが――坂下の家?」
坂下が僕を見て、微笑みながら頷いた。
「嘘だろ……」
俄かには信じられなかった。普通の家の倍はあるぞ。金持ちだろうとは思っていたが、ここまでとは――住む世界が違う。二人が敷地の中へ足を踏み入れて行った。ぼんやり突っ立っていた僕は慌てて二人の後を追った。
玄関を開いて僕らを出迎えたのは、まあ何と品の良い女性なことだろう。坂下の母親と一目でわかる風貌だった。
「昨日は善次がお世話になって、ありがとうね」
「い、いえ……」
「さ、どうぞ」
坂下は自分の家だから遠慮がないのはわかるが、人見くんまで、まるで自分の家かのように慣れた様子で靴を脱いで中へ入って行った。奥に進むにつれ、何とも甘ったるい匂いが強くなっていった。僕はその匂いにむかむかして気分が悪くなってきた。
通されたのはキッチンだった。坂下は椅子を引いて僕に「どうぞ」と言って勧めた。坂下は僕の向かいに、人見くんは決まっているかのように坂下の隣に座った。
「コトちゃんと善次はココアよね?海人くんは何にする?」
「紅茶かコーヒーか、それから――」
「じゃあ、コーヒーで……」
「砂糖とミルクは入れる?」
「いえ、大丈夫です」
「あらそう。ブラックで飲むの。大人ねえ」
「甘いの苦手なんで」
「あら、そうなの?それじゃあ、パンケーキも嫌い?」
叔母さんは左手にボウルを抱え、右手に泡立て器を手に、ボウルの中のパンケーキの生地をかき混ぜている。
「海人くんは何が好き?」
「その――せんべいとか……」
「昨日出して貰ったお煎餅、すごく美味しかったんだよ」
坂下がそう口にした瞬間、僕の頭には千疋屋の青緑の紙袋が浮かんでいた。恥ずかしくなって俯いた。如何に自分が庶民であるか、坂下との格差を痛感し、惨めになった。やめろ、余計な事を言うな。僕は坂下を睨みつけた。
「あら、そうなの。どこのかしら?」
「……普通の、スーパーで買えるやつです」
叔母さんは僕には別にポテトチップスを出してくれた。近所のスーパーで見かけたことのない、多分外国のメーカーのものだった。
「コトちゃんは何枚食べる?」
叔母さんはパンケーキを焼きながら、人見くんにそう尋ねていた。人見くんはその上にホイップクリームやチョコレートソース、を大量にかけていた。甘ったるくて、見ていると胃から何か込み上げてくる感じがした。
二人がパンケーキを食べている間、退屈になって、部屋の中を見渡した。隣のリビングには、大型のテレビがあった。その向かいに水色と白のチェックのソファ、その前にローテーブルがある。
テレビラックにはアニメのキャラクターのフィギアが横一列に並べられてある。水平服を着た筋骨隆々の男、ポパイだ。その隣にオリーブ、バッグスバニー、ダフィーダッグ、トゥイーティー……そういえば、廊下にもバッグスバニーとダフィーダッグのポスターがあった。坂下はアメリカのアニメが好きなのか?何だかイメージと違う。漫画やアニメは見ないって顔してるのに。
視線を横に滑らせていると、ある物に目が釘付けになった。僕は椅子から立ち上がって、吸い寄せられるようにそれに近づいた。それは、ターミネータ2に出てくるジョンコナーのブロマイドだった。丁寧に写真立てに入れて飾られてある。しかもこれ、サイン入りじゃないか?
振り返って「おい、これどうしたんだ?」と尋ねると、坂下が僕の隣まで来た。
「ああ、それは母さんのなんだ。昔、アメリカに留学していた時に買ったみたい」
「アメリカにーーそうなんだ。いいなあ」
自然とそういう言葉が口から出た。僕はこの時、本当に坂下が羨ましかった。僕はこの写真の少年、ジョンコナーが好きだったから。
「足永くんも映画が好き?どういうのを観るの?」
「ベニスに死すとか、ぼくのエリとか……」
有名なものを言ったのだが、知らないようだった。そうなんだと言ったきり、話が続かなかったから。
「何か観る?」
坂下はリモコンを操作して、テレビの画面を変えた。坂下の家はプライムビデオ、ネットフリックス、ユーネクスト……あらゆるサブスクに入っていた。
映画を好きかと問われるとちょっと返事に戸惑う。もちろん映画は好きだ。が、どういうジャンルが好きかと言われれば――はっきりとしたことが言えない。何故ならば、僕は話の良し悪しがよくわかっていない。いや、そもそも話をよく理解していない。
それならば何を観ているのかと言えば、そこに出てくる美しい人間だった。僕にとって、肝心なのは美しい子が出ているかどうかだ。だから、話がどうであれ、レビューが低くとも、美しい人間が出ていればそれでいい。そこに僕は価値を感じた。
美しい子を見ると、気分が高揚する。ターミネーター2のジョンコナー、ベニスに死すのタッジオ、マイ・フレンド・フォーエバーのエリック……彼らは美しい。ずっと見ていられる。もはやその存在だけで芸術的だった。たとえ鼻水を垂れていようが、涎を垂れていようが、はたまた嘔吐していようがそんな事で彼らの美はかき消されない。
選んでいるうちに、パンケーキを堪能した人見くんもこちらに来た。人見くんの美しさはまだ世間には知れ渡っていない。僕だけが気づいている。クラスでは汚いとか不良だとかそういう言葉で避けられていた。彼の身に着ける物は汚れていた。容姿よりもそういう情報が先行していたから誰も彼をよく見もしない。その美しさに気づかない。
けれど、僕は違う。僕は自分の目に自信があった。僕の目は、たとえどんな状態だってそこにある美しさを見い出す。
僕らはソファに三人並んで座って――もちろん人見くんが真ん中だ――映画を観た。その映画は葬式巡りをする青年と癌の少女の話だった。見ながら、僕は時々視線を人見くんに向けた。彼は飽きてきたのか、首をこくりこくりとさしている。頭が右に揺れ、左に揺れ、また右に――こっちに来いと思った。来い、来い、僕の方に。そのまま右に倒れて坂下の肩に寄りかかった。彼は眠っていた。
どうして坂下の方にいく?僕の肩に凭れればいいのに。いくらでも貸すのに。もどかしい。目を閉じていると長く密度の高い睫毛が際立つ。人見くんはジョンコナーに似ている。鋭い目つき、下を向いた時にはらりと前髪が垂れる感じ、冷たいのに、どこか脆そうな感じのするところが彼によく似ている。
映画が終わって、坂下が人見くんの肩を揺すった。人見くんは大きな欠伸をした。眠りから覚めて開口一番に「腹減ったな……」と呟いた。さっきパンケーキ五枚も食べてなかったか?
「夕飯何だろう……うどんか、そばか、ラーメンか……」
「家はカレーかな」
「カレーか、いいな」
「買い物するの面倒だし、家にあるもので済ませたいから」
「お前が作ってるのか?」
「そうだよ。家、共働きだからさ」
「そうなんだ。大変だね」
坂下が割って入ってきた。人見くんと話しているのに、邪魔されて苛ついた僕は、坂下の言葉を無視して、人見くんに話しかけた。
「人見くんのとこは?お母さん働いてるの?」
「ああ。俺のとこは、父親がいないから」
「亡くなったの?」
「小さい時に出て行ったんだ。生きてんのかも知らない」
「そうなんだ……あ、でも江東の家もそうだよ。離婚して母ちゃんだけなんだって」
人見くんは「江東?」と怪訝な顔をした。少しして、思い出したのか、ああ、あいつかと息を吐くように言った。
僕らの帰ったのは、それから程なくしてだった。坂下は途中まで僕らを送って行った。先に別れたのは僕だった。僕は二人が並んで歩く後ろ姿をじっと見つめていた。




