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かつて彼は天使だった  作者: 秋吉紫貴
第二章 それぞれの目
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 次の日になると、また振り出しに戻った。振り返ってちらと人見くんを見た。彼は右手で頬杖をついて机の端を見つめていた。顔を上げもしない。もしかすると、話しかけてくれるかもって期待した。


 けれど、現実はこうだ。人見くんにとって僕は、同じ教室にいるだけの、それだけの人間に成り下がっていた。昨日は、本当に偶然だった――いや、奇跡だったのだ。


 振り出しに戻った僕は、行動も初めに戻った。人見くんの興味を引こうとあれこれと考えていた。考えてもいい案は一向に出てこない。


 思い通りにならなくて、だんだん苛々してくる。――やめだ。僕は一旦考えるのを止めた。気を紛らわせようと、鞄の中から昨日かったばかりの漫画を取り出して、読む事にした。


「あ、それ新刊か?次貸してくれよ」


 前の江東が振り返って言った。僕は「ああ」と適当に返事をした。


 開いたページに視線を這わせるが、全然内容が頭に入ってこない。気が散って、集中出来ないのだ。それは「読む」ではなくて、一定の速度でページだけを「捲る」だけの作業になっていた。


 そういう作業にも嫌気がさしてきた。好きな漫画で、新刊が出るのを楽しみにしていたのに、これじゃあちっとも楽しめない。


 僕は漫画から視線を外し、顔を上げた。視界に入ったのは、前の席の江東の後頭部。何か気配を感じて後ろを振り返ると、意外なものが視界に入った。


 さっきまで机で頬杖をついていた人見くんが――あの人見琥都が、他人に関心のない彼が、僕の手元を覗き込んでいる!突然の事で、驚いた僕はぎょっとして思わずのけぞった。


 彼は僕の態度には全く無頓着で、ただ、僕の手にした漫画本をじっと見つめている。僕は状況が読み込めなかった。どうしていいかもわからなかった。人見くんをただ見るばかりだった。


「それ……」


 口を開いたのは人見くんだった。「れ」の口のまま止まっている。僅かな沈黙――時間にすると五秒にも満たなかっただろうが、僕には随分長く感じられた。


「面白いのか?」

「これ?――面白いよ。昨日新刊が出たばかりなんだ」

「ふうん」


 それから何も言ってこない。興味を持っているのか?僕は勇気を出して、彼に話しかけた。


「漫画、好きなの?」


 彼はちょっと首を傾げた。その仕草の可愛いこと!思わず口に出してしまいそうだった。


「読んだことない」

「ああ、これを?」

「それもだし、漫画自体も」

「うそ!」


 稀にそういう人間がいる。でもそれは坂下のような真面目な人間で、人見くんみたいな人ではない。


「おかしいか?」


 眉間に皺を寄せた。僕は慌てて首を振った。彼の機嫌を損ねたかもしれないと内心焦っていた。


「もし――興味があるなら、貸そうか?」


 僕が恐る恐るそう言った瞬間、彼の顔がパッと明るくなった。その目は、まるで好奇心に溢れた子どものように純粋でキラキラとしていた。


 不意打ちにくらっとした。今の顔はずるいだろう。普段は一匹狼というか、孤高さがあって近寄りがたいのに、笑うと幼く見える。僕は魅了されていた。美しいものの前では、どんな生き物でも敗北する。僕は白旗を上げた。


「それ次俺に貸してくれるんじゃなかったのかよ」


 江東が割って入った。やっと人見くんと話せているのに。うるさい、邪魔するな。


「そうなのか」


 気を落とした声をした。今を逃せばこんな機会は二度と訪れないかもしれない。そう焦って、背を向け、自席に戻ろうとする彼を僕は慌てて引き留めた。


「いや、これは新刊だからさ。僕の家に全巻揃ってあるんだよ。その、だから、読みに来る?その、僕の家に……」

「行く」


 彼は食い気味に答えた。肯定――人見琥都が僕の家に来る。それって、奇跡みたい。奇跡は突然起きるのだと、僕はこの瞬間、身をもって知った。


「なあ、善次!漫画貸してくれるって、えっと、名前なんだっけ?」

「か、海人……」


 近寄って来た坂下に彼はもう一度言った。


「海人が漫画貸してくれるって」


 人見くんが、僕の名前を呼んだ……彼の声が僕の名前を……思考が停止していた。鈍器で頭を殴られたようだった。天に召された心地さえした。


 僕を地上に留めたのは、彼が坂下善次を呼んだことだった。何故坂下を呼ぶ?呼ぶ必要があるのか?坂下はいつものへらへらした顔でこちらを向いている。


「今日行って良いか?」

「大丈夫だけど……」


坂下も来るんじゃないだろうな?嫌な予感は的中した。


「善次も行くだろ」


 人見くんは必ず坂下を誘う。坂下が僕を見る。その視線からは戸惑いが感じられた。「僕も行っていいの?」と目が訴えている。哀れっぽい目――断るに断れないじゃないか。むかつく。僕は努めて何とも思っていない表情を作って、意思とは反対の事を口にした。


「それじゃあ、放課後ね」

「決まりな」


 彼の勢いに押されて、それは決まった。それで、放課後、僕は坂下と人見くんを挟んで帰路についていた。何故坂下まで……僕は不満が表に出ないように懸命に抑えていた。不機嫌になるな、人見くんと坂下は友達だ。玄関の扉を開ける。後ろを振り返った。


「どうぞ、入って」


 人見くんは何も言わずに足を踏み入れた。坂下は後から「お邪魔します」と言って中に入った。


「にーちゃん、おかえり!」

「友達来てるの?」

「エトーじゃない!誰それ?」


 騒ぐ弟たちを奥へと突き返した。


「なんか、あれだな。うるさいな」


 晴れやかな笑顔で言った。少しも嫌味な感じがしない。ただ思った事をそのまま口にしたといった感じだった。


「賑やかで楽しいね」

「ごめんね、友達が来ると遊んでもらえると思ってはしゃぐんだよ。さ、上がって」僕は二階に上がるよう二人に勧めた。

「でも、いいね兄弟って――僕達は一人っ子だから、羨ましい」


 階段を上りながら坂下がこんな事を言った。僕は振り返って二人を見た。


「人見くんも兄弟いないの?」

「ああ」

「僕はてっきり、兄弟がいるのかと思っていたよ」

「何で?」


 制服が誰かのお下がりみたいだからとは言えなかった。


「なんか、弟っぽいから……」


 あながちそれも嘘ではなかった。坂下と一緒にいると、彼は幼く見える。坂下が人見くんの面倒を見ているようだった。二人は仲の良い兄弟のように見えた。


二階の自室に二人を通し、適当に座るように促した。地べたにすとんと座った。人見くんはきょろきょろと部屋の中を見渡している。坂下は行儀よく正座をしているが、どこか落ち着かない様子だった。


 僕は本棚から漫画を一、二冊取り出して手渡した。「これ読んで待っていて。飲み物持って来る。お茶でいい?」


 本を受け取るや否やすぐさま開いて読みだした。僕の言葉に「おう」と上の空で返事をした。

 

 僕は階下に下りて、台所に向かった。冷蔵庫からお茶を取り出して、三人分コップに注ぐ。それから、戸棚の一番下の段を開いた。ここにはお菓子がストックしてある。お煎餅や袋詰めの洋菓子がいくつか入っていた。


 何が良いだろうかと探していると、ある日の昼休みの光景が目に浮かんだ。坂下が鞄から取り出した千疋屋のクッキー。人見くんは坂下の家に行った事が恐らくあるだろう。そこでは、上等なお菓子が出されたはずだった。


 僕は戸棚の中を見て絶望的な気分になった。坂下には敵わない。人見くんとは別の意味で、僕は坂下に白旗を上げざるを得ない。


 結局、まだ封の空いていないばかうけとチョコパイを盆に載せて階段を上がって行った。部屋の扉を開けると、人見くんが三角座りをして漫画に見入っており、その肩越しに坂下が本を眺めている姿が目に入った。二人の距離は近い。人見くんが振り返れば、唇が触れ合いそうな距離だった。


「こんなのしかないけど、良かったら食べて」


 僕は半ば自棄になって二人の世界に割り込んだ。人見くんは漫画から顔を上げた。本を脇に置いてチョコパイに手を伸ばした。一つ口にいれて、すぐさままた一つ手に取って口に入れる。もぐもぐ食べている。やはり、甘いものが好きなんだな。人見くんの食べるペースを見る限り、お気に召したのだろう。僕はほっとしていた。


 人見くんが食べ進めている中、坂下はコップを両手に持ってちびちび飲んでいたが、やがて遠慮がちにばかうけの袋に手を伸ばした。


 きっと普段高級品ばかり口にしているから、口に合わないのだろう。どうせ、僕の家は貧乏さと劣等感を抱いた。五人兄弟で、服や学校で使う絵の具セットや習字道具は兄貴のお下がりだ。弟達も僕のお下がりを使う事になるだろう。物でも食べ物でも、何でも分け合わねばならない。坂下はそんな事、経験した事がないのだろう。恨めしげに坂下を見た。呑気な顔に、腹が立った。


「お前の家、いいな」


 本棚を見て感慨深そうに言う人見くんを意外に思った。


「どうして?」

「だって、こんなに漫画があるんだから」

「そうかな?」


 高さ一メートルの四畳半の部屋の壁一面を埋めた本棚には漫画やらDVDやらが所狭しに詰められている。確かに幼い頃から漫画は好きで買い集めて、本棚に収まり切らず、本棚の上に積んであった。


 彼は、またチョコパイに手を伸ばした。袖の先に茶色の染みが出来ている。


「琥都くん袖のところ汚れてるよ」

「え?」

「ほら、そこ。左手の袖のところ。多分チョコがじゃない?」

「そうか」


 彼は一瞥しただけで、チョコパイを掴んで袋を開けた。


「そうかじゃないよ。早く洗わないと落ちなくなるよ」

「別にいいよ。面倒だし」

「駄目だよ、そんな事言ってたら」

「いいって、汚れたところで、元から汚れてるんだし。一つ増えたところでわからないさ」

「そういう問題じゃないでしょ。ほら、洗うから脱いで!」


 僕はいつも弟にする癖で、強い口調で言ってしまった。


「……なんかお前、ばーちゃんみたい」


 彼はシャツのボタンを外しながらポツリと呟いた。


「ばーちゃんって……」


 下着一枚になって、シャツを差し出す彼を見た。よく食べる割に肉付きの悪い骨ばった腕、浮き出た鎖骨、薄い胸板――見ていて恥ずかしくなった。見てはいけないものを――神聖なものに足を踏み入れてしまったかのような罪悪感が滾々と溢れてきた。


 押し入れの襖を開いて、洋服ダンスから適当に上着を引っ張り出して、彼に着るように促した。彼は躊躇せずいそいそと袖を通した。小柄な彼には大きい。百五十センチあるのかも怪しい。服に着せられている感じが何とも可愛らしい。


 一階に下りて、洗面台で染みの部分にタオルを当て、裏返して食器用洗剤を付けた歯ブラシで汚れた部分を叩く。お湯で軽く洗えば、大体汚れは落ちていた。ドライヤーで軽く乾かすと、制服を両手に持って、二階へ上がった。


 人見くんは三巻を手に持っていた。畳の上には一巻と二巻が積み上げられている。


「人見くん」


 彼は顔は上げず、目線だけこちらに向けた。あの目だ――いつか、あの目で見られたいと思った目。一瞬、石のように身体が硬直した。


「汚れ、落ちたよ」


 彼は受け取った制服をじっと見つめた。「ありがとな」僕の顔を見て、微笑んだ。坂下に見せるような、あの幼さを感じる顔で。僕の何かが打ち砕かれた気がした。その破壊力と言ったら、もう……


 人見くんは貸した服を脱いで無造作に畳の上に置いた。僕が汚れを落とした制服に袖を通した。二人はまた二人で一冊の本を読んでいる。二人だけの世界だった。僕はそれを眺めることしか出来ない。


 五時を少し過ぎた頃、坂下が帰らないといけないと言ったので、二人を玄関まで見送った。僕は彼らが帰った後、自室に戻って幸福の余韻に浸っていた。


 さっきまでここに人見琥都がいた。床に脱ぎ捨てた上着が置いてあった。僕は座って、徐にそれに手を伸ばした。手にしたまま、僕はそれをじっと見つめていた。これは、さっきまで人見くんが着ていた。人見くんの肌に触れていた。僕はそれを鼻先に近づけた――その時だった。


「兄ちゃん!」勢いよく扉が開かれた。僕は慌てて鼻から服を離した。


「何だよ」

「腹減ったよ。ごはんまだ?というか、何してんの?」

「何でもいいだろ。わかったから、向こう行けよ」


 共働きで、夕飯は僕が作ることになっていた。僕には僕の生活があった。幸福に浸っている余韻などない。服を畳んで、階下に下りて行った。



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