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かつて彼は天使だった  作者: 秋吉紫貴
第二章 それぞれの目
17/18

 二年になって二週間ばかり経った。五限目の数学が終わり、残すのは英語のみとなった。一日と一週間の疲れが重なってくたびれていた。最悪なのは、その最後の授業が英語だってことだ。


 英語の授業は必ず当てられる。一回の授業で当てられるは多く見積もっても二十人。当てられたら一段落ごとに訳していかなければならない。


 チャイムが鳴った。立ち話をしていた生徒が席に戻る。コツコツという音が聞こえる。英語の氷見の登場はヒールの音と共にだった。ガラリと扉を開いて、中に入って来た。厚化粧に派手な赤の口紅が目に障る。相変わらずけばいなと思った。彼女は教壇に立つなり、名簿を開いた。


 今日は四月十八日。出席番号十八番から当てられる。とみせかけて、気を衒って八番とか二十八番とか八のつく番号を指名することがあるから気を抜けない。


「じゃあ今日は十八日だから――」

「八番、加藤くん。一行目から訳して」


 ほら、意地悪だ。自分が当てられそうなところを予習するから、あえてこういう事をする。


 まあでも八番なら問題ない。僕が当てられることはない。授業の間、安心しきって、気を抜いていた。自分の訳が合っているかどうかなど碌に聞きもしなかった。そうしてかなりの時間が経過した。


「じゃあ、次。人見くん」


 ぼんやりしていたのに、人見という言葉に僕の耳は反応した。彼の番だ。僕は耳を澄ませた。


「わかりません」


 氷見はぎろりと目を光らせた。そして、「わからない?」と言って溜め息をついた。うまく訳せなかったり、出来ないと言うと、彼女は鼻にかかった溜め息をつく。それはまるで、こんな簡単なものも訳せないのかと見下しているようだった。氷見はわからないと言っても容易に逃してはくれなかった。


「何がわからない?ちゃんと調べてきたの?」

「はい。それでもわからないんです」


 彼の言葉は端的だった。(彼は頭は良くないようだった)僕のように当てられそうな所だけ下調べをしておく事もしなかった。ただ、「わかりません」とだけ答えた。


 その開き直っている態度に、何人かがくすくすと笑っていた。笑われても、彼は何の反応も表さない。無に徹している。恥ずかしいとか、そういう感情は一切感じられない。


 僕などは他人の目が気になるたちだ。人からどう思われるかとか自分のクラスでの立ち位置をひどく気にしていた。


 馬鹿にされたくないとか、他人より秀でていたいとか、一人でいる惨め奴だと思われたくないとか――怯えて、恐れて、それを隠すために口ばかり動かした。でも、誰だってそうだろう?学校という集団の中では、自然と力関係が生まれる。その中で自分という存在を守らなければならない。


 人見くんはそういうことを一切気にしない。自分を良く見せようと虚勢を張らない。彼は空っぽに見えた。空っぽで自己を守るものが何もない。それなのに平気そうだった。強いと思った。僕は到底そうはなれない。


「静かに!」氷見は声を荒げた。僕はまた小言が始まるぞと思った。


 氷見はこれまた嫌味な教師で、常に生徒を小馬鹿にして見下していた。彼女は人見くんを見た。彼は顔をやや下に向けて、目だけを氷見に向けていた。


「あのねえ、そんなんじゃろくな高校に行けないわよ」

「ええ、そうですね」

「恥ずかしいと思わないの?」

「別に」

「別にってあなたねえ、私はあなたのことを思って言っているのよ」

「俺の将来のことなど、先生には関係ないです」


 氷見は次の言葉が出てこず、口を閉ざしてしまった。暫く――といってもほんの数秒だったと思う――沈黙が支配していた。その沈黙を破ったのは人見くんの方だった。


「それとも、先生が面倒を見てくれるんですか?」


 この言葉にはぎょっとした。強烈なカウンターだった。誰もが人見くんを見ていた。彼は超然としていた。視界の隅に坂下の姿が入った。当人よりも彼の方がおろおろと狼狽えていた。


「今はそんな話してないでしょう!」

「じゃあ、何の話をしているんですか?」


 その目には敵意はなかった。ただ、真っ直ぐに見ているだけだった。穴の開くほどに、真っ直ぐに――その目を見て、僕の頭には小学生の時の夏に飲んだラムネのビー玉が浮かんでいた。


 瓶を逆さにして中を覗く。透き通ったビー玉が厚ぼったい口に留まっている。僕はあれを取り出したくて瓶を逆さにして何度も上下に振った。けれど、瓶の口は狭く、つかえて出てこない。


 彼の言葉や態度には何の悪意もなかった。相手を打ち負かしてやろうとか、傷つけようとか、恥をかかせてやろうとか、そういう意図はない。ただ思った事をそのまま口にしているだけだった。


 彼は他とは違う。群れないし同調しない。他人を意に介さない。それだけじゃない。感覚が僕らとはまるで違っている。俗じゃない。異質で、特別だ――僕はこの瞬間、完全に彼の虜になった。彼に近づきたい。影響を受けたい。僕も彼のようになりたい。


「放課後、職員室に来なさい」

 

 これ以上話しても、人見くんを言い負かす事など出来ないと白旗を上げた氷見は、その言葉を口にする事で逃げた。威厳を保とうとしたのだ。人見くんは何とも言わなかった。


「だめだよ、コトちゃ――人見くん。先生にあんな事言ったら」


 授業が終わって坂下が人見くんに駆け寄った。「どうして――」と言った瞬間、人見くんは「わかったわかった」と口を割った。「もう言わないよ」


 坂下は眉を八の字に下げて、それでも口元には微笑を浮かべていた。


 それで、その日の放課後、職員室に来るようにと言われていたが、彼は忘れてたのか、それとも覚えていても行く気がなかったのか、さっさと帰ってしまった。


 彼は怒られようとも笑われようとも馬鹿にされようとも無関心に徹していた。誰にも関心を持たなかった。親しい友人もいなかった。ただ一人、坂下善次を除いて。


 人見くんは坂下のような人間が好きなのか?坂下のように振る舞えば、人見くんも僕を好いてくれるのか?悶々としたまま週末を過ごした。休み明けの月曜日、一限の数学が終わって、十分の休み時間の間、僕は坂下を観察した。


 彼は自席に座って本を読んでいた。そこへ問題集を持った女の子が一人(彼女は伊勢野さんだ。小柄で大きな丸い目が印象的だった)坂下に近づいた。


「ねえ、坂下くん。この問題がわからないんだけど」


 クラスで一番可愛い子まで坂下を慕っていた。あんなぼやっとした奴の何が良いのだろう。腹が立つのは、頭の良さ、育ちの良さ、人柄の良さ、そのどれもが坂下に敵わないという事実だった。


 クラスの皆は解けない問題があれば先生よりも先に坂下に尋ねていた。委員会決めの時、クラス委員を誰もやりたがらず決めあぐねていると、先生は坂下にやってくれないかと頼んでいた。先生からも同級生からも頼られて、それを得意げにしない。


 張り合おうとしても駄目だ。敵いっこない。何か別の手段で人見くんの興味を引くより他はない。けれど、どうやって?


 僕は人見くんの興味の引き方がわからずにいた。坂下との会話に聞き耳を立てているが、特にこれといった話題はない。例えば、何が好きなのかとか、最近はまっているものとか、今見ているドラマとか音楽とか――そういうものが分かれば会話の糸口になるのに、そういう事は話題に上らない。


 坂下と話している事と言えば――いや、坂下が話している事と言えば、こういう本を読んでこういう所が気に入ったとか、考えさせられるとか、そう言う事だった。人見くんはそれに対して、「ふうん」とか「そうか」とか相槌をうつだけだった。彼が自分自身の事を語る事はない。わからない……人見琥都がどういう人間かちっともわからない。


 僕は人見くんの近くの席にいる友人の所へ行って、彼の注意を引こうと、新しく買った漫画本の話をわざと声を大きくして話した。友人は羨ましがって口々に貸してくれと言った。


「貸してくれよ」

「いいぜ」

「次、俺な」


 ちらりと人見くんを見た。こちらに関心を持っていないか期待したからだ。が、人見くんは微動だにしていない。いや、もしかすると聞き耳を立てているのかもしれない。僅かな希望を持った。彼はすうすうと寝息をたてている。


 昼休み、今日も二人は一緒に昼食を取っている。坂下が鞄から青緑に花柄模様の紙袋を取り出した。あの袋は千疋屋だ。高級店なのは僕でも知っている。それを人見くんに差し出した。彼は袋を開けて、中から一つ取り出して口に入れた。あれは――クッキーか?


 坂下は食べ物を分け与えている姿をよく見かける。そういう関係性が羨ましかった。恨めしかった。僕はいつしかこの善人面した坂下を憎みさえしていた。


 あの坂下善次の位置を取って代わりたい。こいつさえいなければ僕が人見くんの隣にいれたかもしれない。そんなありもしない妄想ばかりが一人歩きしていた。


 悶々と過ごしていくうちに、二年生になって最初の試験が終わった。試験が終わると席替えをするのが常だった。僕の席は廊下側から二列目の前から五列目の席だった。さっさと机を動かして座った。


「足永はそこか?また近いな」


 前の席には江東で、机を引きずって来た。僕は適当に返事をして、周囲をぐるりと見渡した。親しい顔が近くにないかと探して――僕はあっと驚いた。


 僕の左斜め後ろに人見くんの姿があった。彼は机に突っ伏して眠っている。僕の目は彼に囚われていた。人見くんに一歩近づいた。後は何か話すきっかけさえあればいい。きっかけが訪れる事を祈っていた。が、そう意識している時に限って、そういう状況は訪れない。僕は話しかけたくてうずうずしていた。


 何も起きないまま数週間が経った。午前中の授業が終わり、昼食を取り始める。前の席の江東は椅子を横に向け、僕の机で共に食べていた。食べながら、視線を後ろに向けた。いつものように坂下が人見くんの席に来た。


 人見くんは――口を大きく開けて、恵方巻のようなものをがつがつと勢いよくかぶりついていた。いつものじゃないなと(彼はスイートブールやスイスロールを交互に食べていた)思って眺めていると、ある文字が見えた。


「ロールちゃん……」


 耳の長い兎のイラストと共にそうプリントされていた。あれは、ロールケーキだ。恐らく、チョコレート味のロールケーキ……


 不意に彼と視線が合わさった。電気のように緊張が身体を走った。


「何見てんだよ」


 突然、自分に向かって投げられた言葉に、面食らった僕は言葉が出ない。心臓が早鐘を打っている。僕は異常に緊張している。


「やらねえぞ」


 人見くんは手にしていたものを守るように僕から遠ざけた。


「い、いらないよ……」


 何か、話さないと。せっかくのきっかけを無駄にしてはいけない。


「今日は、いつものパンじゃないんだね」


 彼は口をぽかんと開けて手にしたロールケーキをじっと眺めていた。


「ああ、まあ……」

 

 そこで、会話が終わった。ほんの少し会話を交わしただけだった。それなのに、僕は異様に興奮していた。


 前を向き直ると、江東が怪訝な顔で僕を見ていた。が、そんな事はどうでも良かった。僕は気にせず今朝作った弁当を頬張りだした。高揚とした気分はその日一日続いていた。



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