二
僕はつり目の彼を見たあの日から、彼の事で頭が一杯になっていた。彼は美しかった。かつ周りを寄せ付けない神聖な雰囲気を纏っていた。ああいう人間には滅多に出会えない。
何よりもあの鋭い目――あの目に映りたい。あの目で僕を見て欲しい。仲良くなりたい。ああいう人間と友達になりたい。
僕は元来美しいものに強く惹かれる性質だった。綺麗な子と仲良くなりたい。そういう子の側にいると高揚とした気分になった。
それは、自分にないものだからだろうか。僕の顔――口を閉じていても、前歯がしまいきれない。何度櫛で梳かしても、アホ毛が立っている。お世辞にも顔が良いとは言えない。綺麗なものといる時は、自分も彼らの仲間であるかのように錯覚した。
三組の前を通る時、僕は彼の姿を探した。群れを作る他の生徒とは違い、彼は一番後ろの席で机に突っ伏して眠っている。彼の制服はお下がりなのか薄汚れていた。兄がいるのだろうか?
ここのところ彼のことばかり考えている。綺麗な人間ならば、他にも存在した。何をこう彼に執着するのか?他とは違う、特別な感じが彼にはあった。何が――そうか目だ。あの目の色だ。鋭いのにどこか澄んでいるように見える、透き通った目の色にこんなにも引き寄せられるのだ。
あの子の事を知りたい。あわよくばどうにかして接点を持ちたい。
クラスは隣だが、教室は階段を挟んでいる。二クラス合同で行われる体育の授業は、一組とで三組とは接点がない。
今日は学年集会で全てのクラスが集まったが、僕は先頭だから彼の後ろ姿を眺めることすら出来ない。学年主任の顔を睨みながら、せめてクラスさえ同じならばと恨めしく思った。僕はただ三組の前を通る時、あの子の姿はないかと探すことしか出来ないでいた。
この日も眺めるだけで終わりそうだった。流れに乗って、歩き出した。
「ヒトミくん」
その声に、彼は振り返った。その場に立ち尽くしている。丸顔の学生が駆け寄って来た。
彼はヒトミという名前……
僕はその日の放課後、誰もいない三組の教室の前で、壁に貼ってある名簿から「ヒトミ」という字を血眼になって探した。
ヒトミ、ヒトミ、ヒトミ……
「人見琥都」
彼は人見琥都という名前だった。僕はこの日、漸く彼の名前を知ることが出来たのだ。
僕が人見琥都を追いかけて一年、結局名前以外の情報は何も手に入らなかった。停滞したまま時間だけが過ぎた。もやもやして、じれったい感情ばかりが募っていた。
転機は突然訪れた。二年生に上がった時、俺は張り出されたクラス名簿を見て目を見開いた。同じクラスに人見琥都の名前があったのだ。
これ程嬉しい事はなかった。努めて平常心でいようと心掛けたが、それでも浮かれた気分が溢れ出して、顔が綻ぶ。
やっとだ。やっと人見琥都に近づける。そう思ったが、ある疑問が頭に浮かんだ。でも、どうやって?
僕はまた窓際の一番前の席から人見くんを見つめた。出席番号二十三番の彼の席は余りに遠い。近づきたいが、きっかけというものがなかった。話しかけようにも、どうにも近寄りがたい。気安く話しかけるなというオーラを纏っている。話しかけても無視されるかもしれない。それって、すごく恥ずかしいし、居た堪れないことだ。
近づきたいが、近寄れない。それで離れた場所から彼を見る事しか出来ないでいた。これじゃ、一年の時と変わらないじゃないか。ただ眺められる時間が増えただけのこと。それでも嬉しいには違いなかったが。
彼を探す度に、必ず視界に入るのが坂下善次という男だった。人見くんは大抵の人の前では無表情で無関心を貫き通している。誰ともつるもうとしない。他人とは一線を画した、慣れ合ったりせず、高潔さを兼ね備えていた。
それなのに、あの男だけは隣にいるのを許している。それに無邪気に笑ってさえいるのだ!
僕はそれを目にした瞬間、俄かに苛立ちを感じた。何故と思った。ぼんやりした何の特徴もない男なのに、何故人見くんは彼に心を開いているのだろう。
僕は坂下を見た。彼は今、当番でもないのに、授業で使った黒板を消している。
坂下は丸顔で色が白く、背が高い――身長が百六十五センチの俺よりも高かった――そして、あの余裕ぶった微笑みをいつでも浮かべている。その容姿に加え、物腰の柔らかさや授業中の受け答えでその頭も良いのだと推測できる。坂下は典型的な優等生だった。
そのような見た目と性格だから、教師にも生徒にも――特に女子から――好かれていた。そういうところも、何だか気に食わない。人見くんとは正反対の性質だった。(彼は愛想がなかった)正反対なのに、あんなに親しくしているなんて……
以後、これは、人見くんの観察日記だ。なお、実際に記録しているわけではない。頭の中で綴っているに過ぎない。
四月九日、人見くんが坂下を「善次」と呼んだ。
四月十日、昼休み。二人で昼食を取っている。坂下が人見くんにサンドイッチをあげた。坂下が差し出したサンドイッチに人見くんがかぶりついていた。まるで、小動物に餌をあげているみたい。付き合いたてのカップルにも見える。腹立たしい。
四月十四日、スイートブールを食べていた。小柄な割によく食べる。そして食べるのが早い。
今日の人見くん。今日の昼食はスイスロール。恵方巻のようにかぶりついていた。ロールケーキをあんなふうに食べる人を初めて見た。大きな口を開けてがつがつと食べている。かわい――
「何見てるんだ?」
江東の言葉で我に返った。彼とは二年でも同じクラスで、かつ名簿も前後だった。
江東は僕の顔を覗き込んでいる。僕の視線の先を追った。そして「ああ、相変わらずだな、あの二人は」と呆れた声を出した。
「相変わらずって?」
「いや、同じ小学校だったんだけどさ、あの二人いつもああやって二人だけでつるんでいたから」
彼は呆れながら笑った。平生は凛とした何となく冷たい感じがするが、笑うと優しい印象になる。
「二人とも孤立してたのか?」
「いや、坂下は人当りが良くていい奴なんだけどさ、問題は人見だよ」
特に関心のない風を装って「何が問題なんだ?」と自然に尋ねた。
「いや、あいつさ……」ちょっと声を潜めた。
「小学生の時――それも六年の時だよ。頭突きしたんだよ」
「はあ?」
「いや、これが本当なんだって。矢部知ってるだろう?ほら去年同じクラスだった。あいつに頭突きしたんだよ。それで前歯が欠けたんだ」
「頭突きって――何でそんな事したんだ?」
「……さあ、知らない」
「じゃあ、矢部の前歯は欠けたままなのか?」
「いや、インプラントにしたんだってさ。この年でインプラントなんて不憫だよな」
「ふうん」
「それで、人見は怒ると何をし出すかわからない。そもそもあいつは加減というものを知らないんだよ。ほら、大体はやっていい事といけない事の線引きが出来ているだろう?けれど人見にはそれが通用しない。道理とか常識とかが無いんだよ。その境界を越えてしまう。だからあいつ怖がられてさ、誰も近づかないってわけ」
江東の話は興味深かったが、人見くんをあいつと言ったのが気に入らなかった。
「でも、その――坂下は違うんだな」
「ああ、あいつは良い奴だからな。誰にでも親切さ。たとえどんな悪人にもね」
人見くんよりその坂下とかいう男の方が評判の良い事に僕は嫌悪感があった。あのぼんやりした男のどこがいい?
それよりも人見くんだ。実際にその場面を見たわけではないから、何故人見くんがそんなことをしたのかわからない。が、どこかであり得ない話ではないと思っている自分もいる事も事実だった。
それは、入学式の日のあの目を見たせいかもしれない。人見くんの目には普通でない何かが感じられた。が、そんな事はどうでも良かった。嘘でも本当でもどうでもいい。
たとえ、彼がどんな人間であろうと、人見琥都は美しかった。美しいものは存在するだけで価値がある。そんな事で彼の価値が下がったりはしない。




