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かつて彼は天使だった  作者: 秋吉紫貴
第一章 回想録
14/18

十三

 違和感をそのままにして、季節は過ぎて行った。次に彼の異変に気付いたのは――あれは、コートを着ていたから冬だ。吐く息が白んじていたのが目に浮かぶ。


 朝、駅のホームに立つ善次の後ろ姿が見えた。俺は悠々と彼に近づいた。


「善次」


 善次が振り返った。俺はその顔を見て言葉を失った。虚ろな目が俺を捉えた。その目の下には濃い青い隈ができていた。真っ白で生気のない顔はまるで幽霊みたいだった。


「どうかした?」


 善次は力なく笑った。実際は口角を軽く上げただけだった。


「お前、ひどい顔してるぞ」

「え?」

「寝不足か?」

「う、うん……」

「一体何時まで勉強してるんだよ」

「ハハハハハ」


 善次は笑った。乾いた声だった。


 電車から降りると、風が刺すように吹いていた。俺は身体にぐっと力を入れて、寒さを堪えていた。駅の改札を出ると学校まで続く坂道を上って行く。


 冬ざれた坂道を上っていると、今度は暑くなってくる。毎度毎度嫌になる。こんな坂道の上に学校を建てた奴を恨みたくなる。


 善次に同意を求めようと、彼を見るとぼんやりと宙を眺めながら、ゆらゆら歩いている。口が微かに動いた。


「――マンズノット」

「え?」


 よく聞こえなくて聞き返した。すると、善次は徐に顔をこちらに向けた。あの時の善次の目は、何だか異様な光が宿っていた。俺は暫く口がきけなかった。舌が麻痺したように動かなかったのだ。


「今、何か言ったか?」

「いや、何も」


 そう言って微笑んだ。目には何の色もない。善次は前を向いて歩き出した。さっきみたいに宙を眺めたまま。


 思い返せばサインは無数にあった。感じ取っていても、まあ気のせいだろうと思った。俺は彼に対しても無関心だった。


 そうしているうちに三年になった。俺は善次と海人とクラスが離れた。一人きりになるのは初めてのことだった。


「あれ、人見じゃないか」


 振り返ると江東が立っていた。二年の時から引き続き同じクラスになった。彼とは同じ小学校だった。小学生の時はこうして話す事もなかった。というより、彼の存在を認識していなかった。俺の世界には善次しかいなかったから。


「坂下は別のクラス?」

「ああ、善次は四組」

「四組か。足永と同じだな」

「ああ」

「俺もあんまり知り合いいないんだ。よろしくな」


 とりあえず頷いておいた。江東が俺に話しかけるのも、こういう話をするのも意外だった。


 俺の汚れた制服も、皆のそれと変わらなくなっていた。体育の授業で二人組を作る時、江東を初め誰彼となく声を掛けられた。小学生の時は誰も近寄りたがらなかった。それは俺が貧乏だからだと思っていた。


 今もそうであるのには変わらなかった。俺自身は何も変わっていない。けれど、周りの態度がこうも変わった事に、内心俺は戸惑っていた。


 クラスは違ったが、昼休みになると善次と海人が来て、俺の教室で一緒に昼飯を食べた。帰りも大抵は善次達のクラスの方が終わるのが早くて、教室の前まで迎えに来てくれた。そして、寄り道するのが常だった。


 それがひと月かふた月程経つと、教室の前で待つのは海人だけになっていた。海人に聞くと、塾があるから先に帰ると言って帰ってしまったらしい。


 善次と顔を合わせるのは、朝の登校時と昼休みだけになった。この頃の彼は、明らかにやつれていた。口数も少なくなって、前のように笑わなくなった。呆然と一点を見つめていることが多かった。


 たまに思い出したかのように微笑んだ。無理に口角に力を入れて笑うものだから無気味だった。そんな善次を見て、こんなになるくらいなら勉強なんて止めてしまえばいいのにと無神経なことを思った。


 この時に善次に声をかければ良かった。何かあったのかと聞けば良かった。俺は聞かなかった。聞けなかったのだ。変わっていく彼を放っておいたまま、時は過ぎて行った。


 昼休みの時間になって、いつものように二人が来るはずだった。が、そこには海人の姿しかなく、善次はいなかった。


「善次は?」

「自習室で勉強するんだって」

「――そうか」


 俺は特に気に留めなかった。


「もうすぐ受験だね」

「試験っていつなんだ?」

「一月だよ」

「まだ先じゃないか」

「琥都くんは志望校決めた?」

「海人は決まってるのか?」

「僕は東高かな……多分そこしか行けないだろうから」

「じゃあ、俺もそこ」

「適当に言ったでしょ」


 俺は笑ってごまかした。


「坂下はどこ受けるんだろう」


 今度こそ善次とは別なんだろうなと考えていた。けれど、どこかで高校でも海人と三人で一緒にいる姿も想像できた。それは矛盾した事だった。矛盾してはいたが、確かにそう考えていた。


 夏休みが明けた時、いつもの駅のホームに善次の姿はなかった。最初は休みかと思った。が、海人によると学校には来ているらしかった。


 善次と会わなくなっても、それでも時は過ぎて行った。彼と再会したのは、十二月の事だった。あの日はひどく寒い日だった。俺はこの先、この日を忘れる事はないだろう。


 授業が終わって、帰る支度をしていたところだった。


「コトちゃん」


 振り返ると、善次が立っていた。突然現れたことに少し驚いた。


「――善次」


 善次は何も言わない。ただ俺の目をじっと見つめて離さないでいる。


「どうかしたか?」

「どうかしたわけではないのだけど――その、久しぶりに一緒に帰りたいなって」


 突然現れた善次に驚きはしたが、頷いて俺達は教室を出た。


 ポケットに手を突っ込んで、中でぐっと握りしめていた。寒さに肩を怒らせながら歩いた。善次とこうして並んで歩くのは随分久しぶりだった。


 頬に何か冷たいものがあたった。――ポツリ、またポツリと空から線のように落ちてくる。


「あ、雨――」


 それは次第に激しさを増していった。


「雨、止まないね」

「ああ」

「雪に、なりそうだ」


 善次はひとり言のようにつぶやいた。俺は何気なく「ああ、そうだな」と言った。ふと、横にいる善次を見た。何かに憑かれているような、恍惚としているような無気味さがあった。この世のものではない何かを善次から感じた。


 何かおかしいと思った。「何かあったのか?」そう聞こうとしたその瞬間、電車がホームに着いた。俺はタイミングを失って、結局何も言わなかった。


 そして、冬休みが明けた。海人の口から善次が死んだと聞いた。




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