十二
一年の頃は取り立てて変わったことはなかった。善次は誰もやりたがらないクラス委員を引き受けるといった天使ぶりを発揮していた。
中学校までは、電車通学になった。最寄り駅の七号車の一番ドアの前。そこが善次との待ち合わせ場所だった。通学の時間帯にこの電車に乗る人は多くはなかった。(反対方面の電車はいつ見ても満員で、ぎゅうぎゅうに人が押し込まれていた)このドアの前は俺達以外に誰もいないのが常だった。俺が着く頃には、善次は既に扉の前で待っていた。
善次の家に行く頻度は減った。彼は学校で勉強した後も塾へ行って勉強していた。それでも、週に一度か二度は彼の家に行った。そして以前と変わらない手厚い歓迎を受けた。
俺の誕生日には、おやつにホールケーキが用意されていた。(善次の母親は何故か俺の誕生日を知っていた)苺が載っていて、真ん中には「お誕生日おめでとう」のチョコレートのプレートが載ってある。そして、年の数だけの蝋燭も立てられてあった。
ホールケーキを見たのも、家族以外にお祝いされるのも、この時が初めてだった。俺は目の前のケーキに目を爛々と輝かせていた。
彼の家ではお菓子を食べて、映画を観た。(大抵洋画ばかりだった)テスト前には一緒に勉強した。善次は俺自身よりも俺のことを心配し、勉強を教えてくれていた。
元が悪い上に、気の散りやすい俺に教えるのはかなり根気がいることなはずだった。俺は彼の善意を当たり前のものとして受け取っていた。彼の優しさに甘えきっていた。彼の頑張りがあって、俺は毎回赤点をぎりぎり免れていた。
学校では、名簿の前半と後半でクラスが二つに別れる英語の授業を除けば、殆どの時間を善次と過ごした。
昼は俺の机で二人で食べた。給食がなくなったから、各々で用意しなければならず、多くの生徒は弁当を持参していた。善次もそうだった。料理好きな善次の母親は弁当にも力を入れていた。お手製のサンドイッチなんかも見られた。
俺の母親は弁当を用意する代わりに、テーブルの上に五百円が置かれていた。俺は五百円を握りしめて近所のスーパーやコンビニに行った。そして陳列棚から甘くて腹が満たされるものを探した。
俺はスイートブールやスイスロール、銀チョコロール(善次の家でチョコレートを食べてからその虜になっていた)といった甘くて量の多いものを順々に買っては食べていた。
今ではいくら貧乏だからといって菓子パンばかり食べたりしないが――いや、もしあの頃と同じ貧困に戻れば、同じことをするかもしれない。人間とは満たされている時は、当時の感情を忘れるものだから。
そうやって一年は何事もなく過ぎた。クリスマスも善次の家で過ごしたように思う。記憶が曖昧で定かではないが。
変わったことといえば――善次が俺のことを「人見くん」と呼ぶようになったことくらいだった。
異変があったとしたら二年になってからだった。
二年でも俺は善次と同じクラスだった。一年で善次の背は随分伸びた。(俺の背は大して変わらなかった)顔つきも少し変わった。ふっくらした頬は肉が落ちてほっそりとした大人びた顔つきになった。目の周りに出来た暈は、疲れた印象を与えていた。
それでも、俺の目にはいつもの善次に見えていた。
きっかけは何だろう?あれこれと思いを馳せてみても、これと断定できる明確なものが見つからない。けれど、とにかく善次に――善次と俺に目に見える変化を及ぼしたのは、海人と出会ったことだった。
俺と善次の二人きりの世界に第三者が現れたのだ。彼とは二年になって同じクラスになった。
当時の海人は眼鏡をかけた出っ歯の子だった。いつも誰かと喋っていた。彼の周りにはいつも人がいて、一人でいることがなかった。俺は喋ってばかりいるうるさい奴だなといった印象しか持っていなかった。
二年になって最初のテストが終わった後、席替えをして、海人と近くの席になった。どういう経緯があって話すようになったのか思い出せない。とにかく、何かがあって口を利くようになったのだ。
海人と話すようになってから、彼の友人とも話すようになった。善次以外の人間と関わるようになった。学校というコミュニティの中で俺の世界には善次しかいなかった。それが、開けていったのが、この時だった。
同時にこれまで密接だった善次との距離が出来たのもこの時だった。
海人の家に行った。海人には兄弟がいて、兄が一人、それから弟が二人と妹が一人。俺も善次も兄弟がいないから、兄弟のいる賑やかさというものを初めて知った。
色の褪せた畳に黄ばんだ壁、所々塗装の剥げた机――海人の家は善次の家とは違っていた。善次の家よりも近しいものを感じた。裕福ではない、貧困層の持つ特有の匂いがした。俺は彼に――というより、彼の家に親しみを感じた。
海人と俺とは性質は異なっていた。まず、彼は甘いものが嫌いだった。以前食べるかと聞いた時、眉間に皺を寄せて断っていた。
口数の少ない俺と違い、彼は一人で滔々と話している。大抵は誰かの噂話だった。学校での彼は目立ちたがりの騒がしい奴だった。俺が最もする忌避する性質の人間だった。
そんな彼と何故こうも親しくなったのか今でも不思議である。理由を挙げるとすれば、彼から敵意を感じ取らなかったからかもしれない。
意外だったのは、彼が料理や洗濯といった家事を見事にこなしていたところだった。家での彼は面倒見が良い一人の兄を演じていた。
気づけば、三人でいるようになった。海人の家に行った。ファミレスに行った。コンビニでアイスを食べた。善次の家にも行った。俺と善次が二人でしていたように、三人で映画を観た。
その映画はアメリカの――キリスト教徒の葬式の場面があった。日本のような墓ではなくて、四角のシンプルな石碑だった。それを見て――善次はこういう風に弔われるのだろうなと考えていた。
何故そんな事が思い浮かんだのかは今でもわからない。無意識に不吉な予兆を感じ取っていたのかもしれない。
善次が塾のある日は海人の家に行った。彼の家には漫画が沢山あった。二年のクリスマスは海人の家で過ごした。彼の家では善次の家のような豪華さはなかった。けれど、手製の料理やケーキでもてなしてくれた。彼の家は兄弟が多い。それだから量に関しては善次の家のものと劣らなかった。
彼の家はいつも賑やかだった。家庭というものを強く感じた。俺はそれに救われていた。
二年生の――あれはいつだったろう?雨降りが続いていたから六月だったろうか?視界に映るもの全てに靄がかかって、いつもの景色を幻想的に見せていた。
学校へ行くのに、最寄りの駅のホームへ向かうエレベーターに乗っていた。善次の姿が見えた。七号車の一番ドア。善次はいつもそこに立っていた。
いつものように声を掛けようと彼に近づいた。が、何だか様子がおかしい。何がと言われれば、それを表現する言葉が浮かばない。ただ、何か変な感じがした。
善次は前を見ていた。前を――俺は彼の視線の先を追った。そこには歩道橋があった。歩道橋を渡るスーツ姿のサラリーマンや制服を着た学生の姿があった。善次はそれを見ているようだった。見ながら、口を僅かに開いた。
「落ちるぞ……」
善次はそう言った。その言葉の意味がわからなかった。怪訝に思い、彼の名を呼んだ。善次はこちらを見た。表情がパッと変わった。いつものように微笑んだ。
「おはよう、人見くん。英語の宿題はやった?」
「――いや、やってない」
「今日二十六日だから、琥都ちゃん当てられるんじゃないかな」
「一段落目か――」
「後で僕が訳したの見せてあげる」
「おう」
そう話しているうちに電車が来た。俺は先程抱いた違和感など、とうに忘れていて、聞く事をしなかった。 この時以外にも、歩いていると、聞き取れない小さな声でぼそぼそと呟いていることがあったりした。
妙だなと思った。ただ、思っただけだった。




