十一
俺は善次を前にして、何故ここにいるのか?私立の中学を受験したんじゃないのか?落ちたのか?そういった疑問が次々に浮かんできた。
けれど、俺はそれらの疑問を口にしなかった。小学校を卒業する間際の気まずさは彼を目にした時に消えていた。
そんなことよりも、ただ、善次がいる事が嬉しかった。顔がにやけているのが自分でもわかる。俺はそれを必死に抑えて、平静を装おうとした。
「よお」
「……うん」
善次は俺の顔を見て微笑んだ。少しだけ、控えめに。
「腹、減ったな」
「……この後、家に来る?母さんがケーキ用意してるんだ」
「ケーキ!」
その単語は魔法のような響きを持っていた。耳にした瞬間、初めて善次の家に訪れた日の事がありありと眼前に浮かんだ。
初めて善次の家に行った時も、ケーキが出された。チョコレートケーキと苺のショートケーキ――俺達はそれを半分に分けた――天国のような白い家、善次によく似た天使の絵のある画集、それから……
「……どうする?」
「行くに決まってるだろう?」
俺は善次の肩に頭を載せて寄りかかった。善次はにこにこ笑っている。いつも通りだった。何も変わらない。安心していた。善次はいなくならない。善次は俺を見捨てない。この時、俺にはそういう自信が生まれたのだ。
そこには何の根拠もなかった。ただ、そういう気がしたのだ。
教室に戻ると、担任の自己紹介やら時間割やら一通りの説明を終えて、漸く解放されたのは十二時少し前で、俺は空腹で苛々していた。担任の話など一切聞いていなかった。机に突っ伏して、時計を睨んでいた。
「コトちゃん」
名前を呼ばれて視線だけをそちらに向けた。善次が新品のスクールバックを肩に下げて、俺の机の前に立っていた。
「帰ろう」
「ああ」
俺が立ち上がると、くすくす笑う声がした。
「コトちゃん、だって」
その言葉に反応してそちらに顔を向けると、机を一つ挟んだ向こうの席に、男子生徒が椅子に座ったままこちらを見ていた。その前の席の生徒が後ろを振り返って話している。二人とも、知らない顔だった。
「あいつの制服、汚くないか?」
「貧乏なんじゃないか?」
俺はその二人の顔をじっと見続けていた。彼らの言葉は不快だった。が、俺は善次の言葉に抑えられているから、もう頭突いたりしない。ただ見ているだけだ。すると、一人と視線がぴたりと合った。
「何だよ」
口の片側だけを上げて、嫌味な笑みを浮かべている。善次の笑い方と全然違う。俺はそいつの目を見た。その目からは悪意がひしひしと感じられた。こいつは俺の事を馬鹿にしている。
「何見てんだよ」
声を荒げた。ついさっきまでにやにやしていたが、今はもう笑っていない。
「なあ、行こうぜ。こいつなんか変だよ」
腕を引かれて教室を出て行った。
「コトちゃ――」
「なあ善次」
「うん?」
「ケーキって、チョコレートかなあ?」
「――たぶんね」
俺達は並んで歩いて行った。善次を見つける前にはない安心感があった。俺は少なからず、中学に通う事に身構えていた事に気づいた。友人のいる心強さをこの時初めて理解したのだ。
善次の家に行くと、善次の母親が出迎えてくれた。僕ら二人を代わる代わる見た。目尻が下がり、口角が上がる。
「お揃いね。二人とも、よく似合っているわ!」
善次の母親は両手を合わせて、声を弾ませて言った。まるで子どもみたいに無邪気に喜んでいた。彼女は俺の事を善次と同じように扱ってくれた。たまに、俺もこの家の子なんじゃないかって錯覚するほどに。
「久しぶりね、元気にしていた?」
「まあ、それなりに」
善次と距離をとっていたのが気まずくて、適当に言葉を濁した。
彼の家にはよく行ったが、一度も善次の父親を見たことがなかった。それで善次に聞いてみたことがある。父親がどんな生き物かってことを。
「お父さん?僕の?」
「そ、俺覚えてないからさ。父親がいるってどんな感じなんだ?」
「お父さんはね、偉い人なんだ。頭が良くてね、お医者さんなんだ。僕は父さんみたいになりたいんだ」
「善次は医者になるのか?」
「そう。だからもっと頑張らないといけない」
その時、善次は笑っていたけれど、少し苦しそうな顔をしていた気がする。もっとも、俺の記憶違いかもしれないが。
それだから、俺は善次の父親について立派な人間だという認識しかなかった。善次の口からはそれしか語られなかったから。
けれど、今は少し違う。それだけではないということを俺は知っている。善次の本心を見てしまった今では……
善次の母親は俺と善次を見て「お揃い」と言ったけれど、新しさという点では俺と善次の制服では全く別物だった。
以前のように、リビングの椅子に二人並んで腰かけた。あと、ケーキはチョコレートケーキだった。
「中学はどう?」
善次の母親はココアを入れながら、俺達二人に尋ねた。俺達は顔を見合わせた。
「どうだろ?変わんないよな」
「まだ一日目だからね。でも、僕達同じクラスなんだ」
「そう、それは心強いわねえ。よろしくね、コトちゃん」
「はい」
俺はケーキを頬張りながら適当に返事をした。よろしくと言わなければならないのは、間違いなく俺の方だったが。
この時が一番幸福だったと今なら迷いなく言える。そういう日を失った今ならば。
この日は確か善次に用事があるとかで、ケーキを食べた後、善次の部屋には行かずにそのまま帰ることになった。
それでも善次は小学校まで俺を送ってくれた。ひと月前まではここに通っていたのだ。それなのに、通いつめた小学校はどこか他人のような顔つきをしていた。そこに通っていたのが遠い昔のように感じられた。
もう、ここに入ることはない。楽しかったかと言われれば、そうではない。勉強は嫌いだった。教師も嫌いだった。善次以外に友達もいなかった。
それでも、教室や机、それらを懐かしいと思った。そう思うのが意外で、俺はちょっと妙な感じがして落ち着かなかった。
「どうかした?」
善次が俺の顔を覗き込んでいる。善次がいる。それが当たり前だった。小学校を卒業したら失うはずだった。けれど、善次はここにいる。善次はいなくならなかった。善次だけはいなくならない。
「いや――」
善次がいてくれて嬉しいと思った。それを言いそうになった。けれど、ちょっと照れくさくなって、開いた口を閉じた。
「またな」
「うん。明日は――一緒に行こうね。駅で待ち合わせしてさ」
「ああ」
善次は手を振った。俺は歩き出した。横断歩道の前、赤信号で立ちどまった。後ろを振り返った。善次はまださっき別れた所で立っていた。
ここからだと善次がどんな顔をしているのか見えない。善次はどう思っているだろう?また俺と同じクラスで嬉しいだろうか。私立の中学に行けなくなって、落ち込んでいるのだろうか。
今、善次は何を思っているのだろう?




