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かつて彼は天使だった  作者: 秋吉紫貴
第一章 回想録
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 校庭に出ていた生徒がぞろぞろと教室に戻って来た。俺達を見て、ざわつきだす。暫くして、担任が走って教室に入って来た。


「あいつがいきなり頭突きをしてきたんだ!」


 担任を見るなり、歯の欠けた生徒はしきりにそう訴えた。


「なんでそんなことしたの!」


 担任は俺を睨んだ。何故、そうなったのか事の詳細は突き止めず、そいつの話だけを聞いて、俺にばかり非があるかのように責めた。一方的に叱られて俺は不機嫌になった。


 俺はどうしてそんなことをしたのかと担任に問い詰められた。どうして、どうして、どうして。そればかり言われて苛々していた。


「うるさい!あんたには関係ないだろ!」


 予鈴が鳴ったことで、ひとまずは解放された。扉の近くにいた善次と目が合った。その目からは、何の感情も読み取れない。周りは騒々しいのに、彼だけは落ち着き払っていた。


 放課後になって、俺は担任に残るように言われた。周りの生徒はじろじろと俺を見て、口々に何か言っている。皆が俺を横目に見ながら、教室を出て行った。


 善次は何か言いたそうに俺を見ていたが、諦めて教室を出た。他の子のように、俺を何の理由もなく手を出す――この時は頭だ――乱暴で手に負えない奴と恐れたのかもしれない。


 俺は善次のように訳もなく謝るようなことは俺の性質上出来ないことだった。かといって、自分の行動や感情を言葉で説明する能力もなかった。それで、ただじっと教師の目を見ていた。言葉で表せない不満を訴えるように。


 結局、何も言わない俺に、無駄だと判断した教師は散々嫌味を言った後、もう帰るようにと言った。


 教室を出ると、そこには善次の姿があった。もうとっくに帰ったと思っていたから俺はちょっと驚いた。


「コトちゃん」


 俺は怒られて機嫌が悪かったから、いつものように善次に接することが出来ない。それに、一度善次の暴力はいけないと言われていた。


 きまりが悪くって、俺は善次の顔から目を背けた。俯いて、自分の足ばかり見ていた。


 ぼろぼろの靴――汚れて、糸が解けている。向いの善次の靴は新品同然に何の汚れもなく綺麗だった。俺と善次は違う――


「先生にあんな言葉遣いをしてはいけないよ」

「聞いていたのか?」


 否定も肯定もしなかった。ただ、「目上の人に対して、ああいう言い方はいけない。敬語を使わないと」と続けた。


 何でと思った。けれど、善次を前にすると反抗できない。一切の力を失ってしまう。


「それから、頭突きはだめだよ」


 善次の声は優しく、穏やかだった。怒っているわけでも、恐れているわけでもなかった。俺は半ば善次の変わらない声にほっとしていた。


「だって……」


 俺は言い訳をする子どものような声を出した。善次を前にすると、不思議と我儘になって、甘えたくなってしまう。


「どうして――」


「どうしてそんなことをするの?」担任にも言われた。善次も同じことを言うと思った。


「どうして、嫌だと思ったの?」


 善次の言葉は俺を責める言葉ではなかった。彼の問いは、行動の理由ではなく、俺の感情を問うていた。善次は続けてこう言った。


「嫌だと思ったから――納得いかないことがあったから、頭突きをしたんでしょう?」


 俺は善次の言葉に戸惑った。こんな風に聞かれたのは初めてだった。善次は真っ直ぐに俺を見ている。俺の心を見ようとしている。俄かに居心地の悪さを感じた。


 何か言わなければ、その視線から逃れられない気がした。けれど、言葉は浮かび上がってこない。沈んだ言葉を手を伸ばして探りだそうと試みるけれど、奥底に沈んでおり手が届かず、虚しき空を掴んだだけだった。


「なんか――むかついたから」


 何か言わなければいけない。そうして出て来た言葉がこれだ。何という語彙力の無さ。五歳児でももっとまともに話すだろう。


「どうしてむかついたの?」

「それはあいつが――」

「あいつが?」


 そこから先の言葉が出てこなかった。あいつの何がむかついたのだろう。何に腹を立てたのだろう。


 俺は考えた。あいつの何が俺をこんなにも苛々させたのだろう。俺が苛々するのは腹が減っている時だ。俺は腹が減っていたのか?いや、違う。それは関係ない。頭突きをしたのは――何でだろう?考えることに慣れていない俺は、頭が痛くなってきた。


「どうせ、善次にはわからないさ。俺はお前とは全然違うんだから」


 俺は善次のように良い子じゃない。善次は暴力をふるったりしない。攻撃しない。たとえどれだけ傷つけられようとも。


「確かに、僕とコトちゃんは違うのかもしれない。けれど、違うものほど、理解できないことほど、わかろうとする努力が必要だと思うよ」


 正直に言うと、この時、俺は善次の言葉を真面目に聞いていなかった。その言葉の意味を理解しようとしなかった。


 善次の言葉は随分後になってから、俺を考えさせるようになった。ただ、この時はとにかくあの場から逃げ出したかった。


 善次は平生ならば「仕方ないね」と笑って済ませてくれるのに、この時ばかりは我を折らなかった。


 家に帰って母親からもこっぴどく叱られた。叱られながら、俺は何で叱られているのかよくわかっていなかった。あの頃の俺には善悪とか道徳心とかそういったものは備わっていなかった。


 人間の感情というものは年を経るにつれて分化していく。まず最初に不快さ、そして快さに分化して、そこから怒り、嫌悪、恐れーーと更に細分化していく。五歳になると成人と同等の情緒が形成されると言われているが、この時の俺にはまだ快か不快かそれだけしか問題としていなかった。


 何で不快だったか、その時の俺にはわからなかった。自分に感情に疎く、言語化する事が出来ないだけでなく、心も貧しい人間だった。空腹かそうでないかが重要な問題だった。


 そんな俺に善悪の概念を教えたのは善次だった。


 俺は善次の度々口にする「どうして?」には辟易した。善次の「どうして?」に対する答えが出なかった。だから善次にそう問いかけられる度に「知らない」と言って逃げた。


 が、彼も引かないことがある。善次はどんな理由があったにせよ、暴力はいけないよと言った。その言葉が抑止力となって、あの一件以来、衝動的に手が出そうになることはあったが、決して暴力は振るわなかった。


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