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かつて彼は天使だった  作者: 秋吉紫貴
第一章 回想録
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「良い奴だったよな」


 海人はそう言うと、四分の一程グラスに残っていたハイボールを一気に飲み干した。


 大学の六限の講義の終わったのは七時三十分だった。校舎の外は暗く、外に出た途端、冷たい風が頬を刺す。


 俺は海人と並んで駅の方へ歩いていたが、寒さと腹が減っていたこともあって、銀座にあるビアホールに入ることにした。


 地下にあるそこは、暖房が効いていて暖かい。木の天井と等間隔に設置された暖色系の照明が温もりを感じさせる。ここは、外の冷たさから隔絶されていた。


 俺達は空いている中央の二人掛けのテーブルに案内された。テーブルに海人と向かい合って座り、ハイボールを飲みながら色々の事を話していた。


 海人は空になったグラスをテーブルに置いた。グラスには水滴がついていた。漸く一杯を飲み干したところなのに、頬が仄かに赤らんでいる。(彼は二杯が限度で、三杯飲んだ日には、真っ直ぐ歩けなくなると言っていた)


 俺と海人は中学二年生の時に同じクラスになって知り合った。そこからクラスは違えど、高校、大学まで同じだ。


 大学の誰誰は駅前のスタバでバイトしているだとか、高校の誰誰は関西の大学に行ったとか、誰々は就職したとか、喋々として、話題は尽きることがない。


 俺と海人はかなりの時間を共に過ごしていた。けれど、彼は俺とは違い友人が多かった。そして、彼らのことをよく知っていた。どこでその情報を仕入れているのか、友人の少ない俺はよく不思議に思ったものだ。


 大学の友人、高校の友人の話と順に遡って行き、話は中学の友人に至った。


 俺の記憶に残る一番昔の海人の姿は中学生の時だった。今の彼は中学の時の彼とは違う。いつもかけていた眼鏡は、高校生の途中でコンタクトに変えていた。主張の強い前歯も矯正の効果があって僅かに抑えられていた。


 けれど、弧を描くように跳ね上がった数本の前髪や話し出したら止まらないおしゃべりなところは、あの頃の彼自身をありありと残している。


 俺は海人が話すのに口を動かしている間、テーブルの上のピザやらポテトやらを食べるのに口を動かし続けていた。が、何気なく口にした海人の言葉に、俺は口を止め、果たしてそうだろうかと思った。


 午後八時という事もあって、店の中は賑わっていた。四人掛けのボックス席は大抵埋まっていた。スーツ姿の仕事終わりの会社員は――あれは語調からして同僚だろうか。黒のエプロンをした店員が皿を手に行き交っていた。


 海人が「良い奴だった」と言ったのは、坂下善次という人間のことだ。海人とは中学の同級生で、俺とは小学校からの同級生だ。


 俺が「良い奴」や「善人」という言葉に過剰に反応するようになったのも、善次に会ってから――いや、会わなくなってからかもしれない。

 

 海人の言う通り、確かに善次は良い奴だった。俺の知っている人間の中で善人という言葉が一番相応しい人間だった。


 けれど、俺はどうしても善人など存在しないと言わずにはいられない。それを説明するには、俺は過去のことを思い起こさなければならない。


 俺が善次と出会ったのは、確か十一か十二の時で、ちょうど今のように寒さの身に染みる季節だった。席替えで善次と隣の席になり、それから親しくなった。


 俺と善次は友達だった。最も親しい友達がと問われればちょっとわからない。けれど、一番最初に出来た友達だということは間違いがなかった。


 善次とは中学を境に会えなくなった。その日から幾年も過ぎ、俺は酒を飲める年齢になった。が、頭に浮かべることの出来る彼の姿は、中学生のまだ幼さの残る顔だ。彼とはもう杯を交わす事もない。

 

 善次と最後に話した時の事を今でも覚えている。忘れられるわけがない。あの日は濁りのある濃い灰色の雲が空を覆っていた。俺と善次は駅のホームで電車の来るのを待っていた。冷たい風が頬を掠めて行った。俺は寒さに身を縮ませていた。善次は俯いているが、姿勢よく立っていた。


 冷たいものが頬に触れた。ポツリ、またポツリと――雨が降り出したのだ。善次もそれに気づいて空を見上げた。暫くの間、ぼんやりと空を眺めている。やがて、その目は何かに憑かれたように爛々と輝き出した。


「雪になりそう……」


 そう言う善次は恍惚とした表情をしていた。その言葉がどんな意味を持つか、当時の俺には知る由もなかった。


 善次の表情や彼を纏う雰囲気が平生とは違い、違和感があったが、それを突き止めようとしなかった。しようという気もなかった。俺は友人の異変を見逃すような、自分の事しか考えない薄情な人間だった。


 電車が来て、空が遮られた。いつの間にか、隣に立つ善次は、人の良い笑みを浮かべたいつもの善次に戻っていた。


 あの後、どうしたのかは全然覚えていない。何せもう五年も前の事だから。恐らく、何事もなかったかのように電車に乗り、最寄りの駅で下りてさよならしたのだと思う。それが最後のさよならだとも思わずに。


 あの時の俺と善次には隔たりがあった。もっとも、それより以前にお互いを別つ溝は出来ていたのかもしれない。ただ、その溝は想像以上に広く深いものだったと今になって漸く気づいた。


 会えなくなったからと言って、彼を忘れる事はない。年を経るにつれて思い出す頻度は減った。が、天使の絵、神奈川という文字、それから雪――それらを偶然見かける度に俺の頭には善次の顔が浮かんでいた。日常に潜んでいる何かが引き金となって、善次を思い出させる。そして、思い出すと今でもちょっと泣きそうになる。


 真っ先に思い出すのは、最後に会った時の顔ではなくて、十一か十二の頃の、まるで天使のように微笑んでいる顔だった。あの頃は何の隔たりもなく話した。殆ど毎日一緒にいた。何も言わなくともお互いが考えている事がわかった。俺はそう思っていた。


 彼のことを――過去を思い起こすことは、俺にとって勇気を要することだった。けれど、俺は敢えてそれをしようと思う。いや、しなければならない。海人の言葉が引き金となって、俺は過去を総決算しようという気になった。


 彼との事を思い起こそう。と言っても、過去にあった事を鮮明に覚えているわけではない。ただ、いくつか断片的に覚えている事がある。それから、最初に断っておきたい。これから語る事は、全て正しいこととは限らないということだ。何せ人間の記憶というものは曖昧なものだから。(日記をつけていれば話は別だが)


 それに、過去は美化されるとも言うだろう。美化――確かに美しい記憶だ。少年時代の懐かしく愛おしい記憶でもある。が、ただそれだけでない。


 何と言えば良いのだろう?相応しい言葉が見つからない。淋しさと、それから後ろめたさ、どうする事も出来ない行き詰まりの感覚――言葉で表す事など出来ない。


 あの日々を取り戻したくて、何度も何度も自棄になる程に追い求めた。が、それは流れる水を手の平で掬うように、取り戻せるはずがなく、徒労に終わる。


 後悔――彼に纏わる記憶は後悔を伴う。火傷のようにひりひりと痛む。五年経った今でも――


 それでも、そうするのは、多数の誰かに彼の事を知って欲しいという思いがあるからだ。そして、彼という人間を――坂下善次という人間を理解して欲しい、受け入れて欲しいからだ。


 出来るだけ時系列になるように俺なりに記憶を整理したつもりだ。それでも、多少順番は前後するかもしれない。


 それじゃあ始めよう。まずは、善次と出会った頃のことを……


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