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律と欲望の夜  作者: 冷泉 伽夜
第三夜 静寂と沈黙の雨
86/93

夜更けの席


 デリヘルでの営業も終わり、律はタクシーで新宿に戻ってきた。


 「Aquarius(アクエリアス)」がある大通りではなく、裏路地にある階段で地下に降りていく。その先にあるのは、二十四時間営業の喫茶店だ。


 仕事終わりに必ず訪れる律の行きつけ。レトロで落ち着いた雰囲気と、手間暇かけた軽食が評価されている。


 ドアを開ければ上についた鈴が鳴り、カウンターの向こうに立つ店長と目が合った。黒ぶちメガネをかけた白髪交じりの店長は、クリップに挟まれた注文票を確認して背を向ける。店員の案内もなく、いつもの席に向かった。


 トイレからもカウンターからも遠い隅の席。注文したメニューが、テーブルに並べられていく。


 サンドウィッチ二つに、湯気が昇るココア。サンドウィッチはそれぞれ中身が違う。一つは分厚いとんかつとキャベツ。もう一つは生ハムにトマト、クリームチーズだ。


 生ハムトマトのほうを静かにむさぼり始めた律のもとに、明るいダミ声が降りかかる。


「あーら、りっちゃんじゃない久しぶり~」


 ふくよかな体型の派手なニューハーフが、手を振って近づいてくる。太い指に金色の指輪がいくつかはまっていた。彼女の後ろに、長髪のモデル体型が続く。こちらもニューハーフだ。


 律は二人に対して控えめな笑みを浮かべた。


「久しぶり。最近どう? 雨が続くからお客さんなかなか来ないでしょ?」


「ほんとそう! 今来てくれたら私たちの愛、受け放題よ。りっちゃん」


 となりの席に、二人は向き合うようにして座った。


 モデルニューハーフがメニューを開く一方、律のとなりにいるふくよかニューハーフが身を乗り出し、声を潜めて話を続けた。


「聞いた~? この店の奥さんのこと。なんか体調崩しちゃってるらしいわよぉ」


 紙ナプキンで口元を拭き、同じ声量で返した。


「らしいね。昼間は奥さんがキッチンに立ってることもあるからさ、今後どうするんだろうって思ってた」


「それがさ~……あ、あたしカツカレーね」


 モデルニューハーフにそう言うと、「あんたそんなんだから太るのよ」と返されていた。とはいえ、席に来た店員に、言われたとおり注文している。


 ふくよかニューハーフは律に視線を戻した。


「なんでも、後任の人を探してるみたいよ。昼間に店を回してくれる人」


「そりゃそうでしょう。二十四時間営業で店長がずっと立ってるわけにはいかないし」


「いやそうなんだけどさ。何人か面接してるらしいんだけどね。奥さんが、全部難色示してお断りしてるって」


「あー……」


 上を見ながら、驚愕(きょうがく)とも納得とも言えない絶妙な表情を浮かべる律。


 注文を終えたモデルニューハーフが話に入ってきた。


「あの女、ぽやぽやしながらこだわり強そうだもん。ほんとに優秀なやつじゃなきゃ取らないわよ」


「でもさー、店長も気が気じゃないでしょうにねぇ」


 律はカウンターに目を向ける。店長は奥の調理場に引っ込んでいた。


「奥さんただでさえ体調悪いってのに、今でも調理場に立ってスタッフの指導してるらしいのよぉ。体調悪くなる一方じゃない」


「聞き分けが悪いのよ、あの女。医者にも止められてるくせにね。死んじゃったら元も子もないってのに。ねえ、りっちゃん」


 名前を呼ばれ、視線を戻す。


「ああ……そうだね。ずっとこのままってわけにもいかないよね。このままじゃ店長も気疲れしそうだし」


「そうなのよ~、最近店長も元気なさそうなのよ~」


 モデルニューハーフが片手を頬に当て、しみじみと続けた。


「なんにせよ。この店がなくなるようなことは避けてほしいわね、お気に入りの店だもの。でも後任の人が見つからなきゃ、夜だけの営業ってことにもなっちゃうのかしら」


「やだ~。それはそれで寂しい~」


 律は再び、カウンターを見る。店長が顔を出し、カウンター席に座る客の前に料理を出していた。



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