婚約者
『彼女』……。やはり先程見かけた美人なのだろう。しかし、『いつも荒れる』とはどういうことだろう。あまり仲は良くないのだろうか。
「まさか……、喧嘩、ではありませんよ、ね……?」
雪月が人と争うところを想像できない。華乃子が尋ねると、雪月は少し口ごもった末、何時も話が噛み合わないんですよ、と情けなく笑った。
「大人ですから丸く収めれば良いものを、私もまだまだ未熟です」
「……先生が他人と争うところを想像できません……」
華乃子が率直な気持ちで言うと、雪月はひたと華乃子を見てこう言った。
「子供のような我儘だと言われても、貫き通したいこともありますから」
貫き通したいこと……?
疑問に思った華乃子は、しかし雪月の視線に動揺した。
真っすぐな視線は華乃子を貫き、捉えてくる。その意味が分からなくて、……そして勘違いしたくなくて、華乃子は脇に置いたままの桔梗を手に取った。
「先生、桔梗を買ってまいりました。お部屋に飾らせて頂こうと思うのですが」
「ああ、良いですね。花は心が和みます。いつも気を遣っていただいてありがとうございます、華乃子さん」
「いえ……。先生のお役に立てれば、私も嬉しいです」
結局雪月は美人のことを話さなかった。華乃子も聞く勇気はなかった。
華乃子が雪月の家を出ると、もう日は暮れていた。あれから華乃子は雪月と表紙の打ち合わせをし、夕食を拵えて辞した。
(今日は色々と疑問が残る一日だったわ……)
寛人が、約束したとはいえ、半年も前の口約束を覚えているとは思わなかったし、雪月の家に来ていた美人の事も分からなかった。美人のことは分かっても華乃子が何か出来るわけでもないので分からなくても良いのだが、分かれば心持ち胸がざわつくのは収まったかもしれない。
(女の人のことは考えるのは止めよう……。どうせ私には関係のない話だわ……)
個人的な知人のことを仕事の関係者に話したくないという人は大勢いる。公私混同をせず、その分仕事をきっちりやればよいのだ。雪月の取った行動はまさにそれであり、華乃子が彼女についてうだうだ考えているのはまったくもっておかしいことなのだ。
(はー、気持ちを切り替えよう……。今日のお夕食は何にしようかしら……)
そう思った時、ぽんと肩を叩かれた。
「貴女、お話があるの。ちょっと良いかしら?」
そう言ったのは雪月の長屋から出てきた美人、その人だった。
カフェーで珈琲を間に挟んでテーブルに座って居る。美人――沙雪と言った――は、静かな顔でこくりとひと口珈琲に口を付け、カップを静かにソーサーに置くと華乃子の前で美しい顔をにこりと微笑みに変えた。
「失礼ですけど、貴女、雪月さまとどういうご関係かしら?」
「ゆ、雪月先生とは、お仕事をご一緒させて頂いております……」
美人が笑うとこんなにも迫る迫力があるものなのか。華乃子は縮こまりながら答えてそう思った。
「お仕事を? ああ、小説の」
「は、はい……。あの、それがなにか……」
おどおどと答える華乃子に、沙雪はああごめんなさい、と口元を手で覆い隠しながらこう言った。
「わたくし、雪月さまの婚約者ですの」
「え……っ」
こん……、やくしゃ……。
沙雪から聞いた言葉はそれ一回だけなのに、華乃子の鼓膜の中ではその言葉が何回も反響して聞こえた。
(こ、婚約者……。婚約者って……、でも雪月先生はご自分でお相手を見つけるつもりで……)
確かに雪月からはそう聞いた。しかし目の前にいる沙雪が凛とした眼で華乃子を見つめ、心に抱いた雪月への淡い想いを打ち砕く。
「雪月さまは何時までも此処で遊び続けるわけにはいかないのです。いずれ家に戻って頂き、家を継ぐという使命が彼にはあります。その時に、此処での暮らしでの余計ないざこざを持ち込んで頂きたくないのです。私は家同士に認められた唯一の伴侶になりますので、もし貴女が雪月さまに想うところがあっても、無駄というものだということを、今はっきりとここで申し上げておきたいと思います」
雪月があれ程情熱を傾ける執筆のことを『遊び』と言った沙雪に腹が立った。だが、雪月の私生活にまで口を出すわけにもいかず、華乃子は口を噤んだ。それに沙雪は『もし』なんてやさしい言葉で形容したが、ありありと華乃子の淡い気持ちは知られてしまっていたことが分かる。
(……そりゃあ、婚約者から見たら、仕事とはいえ女性が頻繁に自分の婚約者と家で会っているというのは、許しがたいでしょうね……)
もし反対の立場だったら同じことをしたかもしれない。そう思うと沙雪になんの口ごたえも出来なかった。
「そんなわけですので」
がたんと沙雪が席を立つ。
「貴女は早くお仕事を変えられたら宜しいかと思います」
沙雪が華乃子を見下した。圧倒的に立場が悪いのは、華乃子の方だった。




