やさしい雪月の知らぬ顔
「え……」
すぽっと抜けた腕は、今度は華乃子に背中を見せている人に庇われていた。華乃子を金髪の男性から庇ったのは、雪月だった。華乃子の窮地にすっと現れた雪月は、背中に華乃子を庇ったまま男にきっぱりとした声でこう言った。
「I'm sorry, she is my dear woman. Please pick up」
すると、金髪の男は肩を竦めてなにかひとこと言うと、もと居た雑踏の中に溶け込んでいった。
……い、一体、何のやり取りがあったのだろう。
ぽかんと雪月と金髪の男のやり取りを見ていた華乃子は、雪月が振り向いて、大丈夫でしたか? と問うてくれて、初めて我に返ることが出来た。
「あ……っ、すみません、先生! おかげで助かりました。私、英語はからっきし駄目で……」
「いえ。こんなに人の多い所で僕が華乃子さんから離れたのがいけませんでした。怖い思いをさせてしまって、申し訳ありません」
ぺこりと頭を下げて謝る雪月に、止めてください、先生は私の恩人です、と華乃子は返す。
「それにしてもあの方、すんなり帰って行かれましたね。先生、あの方に何と仰ったのですか?」
華乃子が彼の消えた方向を見やりながら疑問顔で尋ねると、やはり雪月がついっと手を差し出し、華乃子の視界を遮った。
「止めてください、見知らぬ人を追いかけるのは」
「え……」
思いの外真剣な声で言われて、華乃子は雪月の顔を仰いだ。そこにはとても真剣な瞳をした雪月が居て、華乃子と目が合うと雪月はほんのりと耳を赤くした。
「……せん、せい……?」
もう一度ぽかんと雪月を見つめる。雪月は華乃子が何も言えない間に、はっと気付いたように手を退け、慌てた。
「す、すみませんっ! つ、つい……! 女性の華乃子さんに失礼なことを! 申し訳ないです!」
「い、いえ……。……そんな風に謝られると、私もなんだか……」
言葉と同時にすいと離れた距離が寂しいと思う。それと同時に思い出したように心臓がどきどきと鳴り始めた。
どうしてあの人を見て欲しくなかったの?
その手の衝動には、どんな気持ちが込められていたの?
聞こうとしても、口に出来ない言葉たち。
答えは雪月の行動から推し量るしかない。
それなのに。
「花火はもう直ぐ林の向こうから揚がるそうです。木立に邪魔されない所まで行きましょう」
雪月はそう言って華乃子に背を見せた。
寂しいと思ってしまう。
何時だって華乃子の望みは叶わない。そんなチャンスすらない。
そう俯いた時。
雪月の草履を履く足が華乃子を待つ素振りをした。
俯いた視線を上げれば、其処にはいつも通り気遣いがちな雪月の目があって。
「人が多いですから、手を繋いだ方が安全だと思うのですが、……どうでしょうか……」
そんな風に聞いてくれるものだから、華乃子の胸は、じんと痺れた。
「先生……、私、子供じゃないですよ?」
「知っています」
「先生が認めて下さっている、一人の自立した女です」
「分かっています」
「それに」
「華乃子さん」
華乃子が言葉を継ごうとしたのを、雪月が微笑んで首を振り、遮る。
そんなに頑張らなくていいのだと。
頼る人は居るのだと。
その言動で示してくれる雪月に、恋焦がれずにはいられない。
「……っ」
駄目だ、目が潤みそう。
こんな風に大事に扱われることを、華乃子は知らない。
この雪月の行動の所以が、もし華乃子の求めるそれでなければ、自分は諦めるしか方法を知らない。それでも。
そっと差し出された手に、手を重ねる。
夏の夜に伝わる肌の温度が、一瞬の夢を見させてくれた。
雪月は躊躇いがちに華乃子の手を握った。さっき金髪の男に腕を握られたときは恐怖を感じたが、雪月に握られた手はじわじわと雪月のあたたかさを伝えてきて、顔に熱が上りそうだった。いや、絶対顔が赤くなっているに違いない。夜で良かった、と華乃子は思った。
そう思っているうちに、最初の花火が揚がった。赤色の見事な大玉で、散りゆくさまが美しい。去年までは、花火を見れば花が開いたときの輝きが美しいと思った筈なのに、今そんな風に思ってしまうのは、雪月が繋いでいてくれる手も、華乃子を求めて差し出されたからではないと知っているからだ。雪月は頼れと手を差し伸べてくれたが、それは華乃子の人生に及ぶものではない。
思えば自分は求めるものを与えられたことが一度もない。親兄弟からの愛情、学校での友人、職場での活躍。どれをとっても華乃子では駄目だと言われる。これで雪月の担当まで降ろされたら、自分はきっと職業婦人として頑張っていく気力がなくなってしまいそうだ。せめてそんなことにはならないよう、この仕事だけは頑張ろう。恋情が叶わなくても、雪月の仕事の支えにはなれる。それだけはせめて取り上げないで欲しい、と華乃子は花火に祈った。
「華乃子さんがあやかしについてご自身の経験を話してくれたおかげで、僕の書くあやかしが世の人々に世迷言と思われているかもしれないことが分かってきました」
その日は雪月が華乃子を呼んだので、華乃子は雪月の部屋を訪れていた。雪月が、自分の書く作品が読者に身近に感じてもらえているのか、といった疑問から発展した話題でのことだった。
「僕にとってあやかしは、古来の良き日本を想像させる、とても愛すべきキャラクターなのですが、目に見えないことを信じられないということは、空想の羽根さえも羽ばたかないということなのですね」
物書きとして、それは残念だ、と難しい顔をして雪月は言った。
確かに昔を顧みて比べてみると、現代は道にはガス灯が灯り、街が明るくなり、昔その暗闇に居たかもしれないあやかしを思うことはなくなった。線路に鉄道が走り、彼らを信じていた頃には思いもよらなかった機械が沢山働いて世の中を動かしている。行燈の油を舐めた油赤子は紡績工場の機械に挿す油は舐めないだろう。人々は現実に追われ、その裏にある大いなる空想の世界へと思いを馳せる機会は減ったと思う。
「そんな今だからこそ、今を時めく職業婦人を題材に描く必然性があるのではないですか! 現在の象徴の職業婦人と、古き良き時代の象徴あやかしのお話! 雪月先生の次のお話は、きっと多くの人の心を掴むはずです。頑張ってください!」
ぐっと手を拳に握り、意気込む華乃子が力説すると、雪月は華乃子の励ましに照れたように笑った。この、照れたように笑う笑みが、雪月の魅力の一つだと思っている。人の好さが前面に出ていて、争いごとを起こさなさそうな、温厚な性格が表れている。人格って、表情に出るんだな、とまざまざと思ったのが、雪月の笑みなのだ。
そんな微笑みを自分に向けられて、華乃子も嬉しくなった。華乃子の言葉が雪月に届いているのだと感じられたからだ。
「頑張りたいですね……。華乃子さんのように、あやかしに係わって悲しい思いをされている女性を文学で救いたい。その一助となることが出来れば、私が今まであやかしを題材に書いてきた理由も分かるというものです」
「はい! その通りです、先生!」
自分の助言を受け入れた雪月の新作が大ヒットになればいい。華乃子は雪月に資料を提供することで彼の生業を支えることしか出来ない。今回自分の体験談が資料となっていることもあって、華乃子も力が入る。




