借りと助言
真夏の熱気は容赦なく、アコヤマートの空調はその暑さに敵わないまま静かに稼働していた。湿った空気が肌にまとわりつき、まるで招かれざる客のように居座っている。
レジに立つバイオレットは額の汗を拭い、ベルトの上を流れる商品へと視線を戻した。
三年間この場所で働いてきた彼女は、来店する客の顔がすぐに記憶から消えていくことをよく知っていた。しかし今夜訪れる一人の客は、そう簡単には忘れられない存在になるだろう。
「お水ですね」ピッ。「サンドイッチ、以上でよろしいですか」ピッ。「二百八十五円になります」
目の前に立つ男は動かなかった。シャツは幾晩も寝転がったあとのように皺だらけで、髪も長らく整えられていない様子だった。疲労が全身から滲み出ており、彼女は思わず言葉を繰り返すのを一瞬躊躇った。
一秒。
さらに一秒。
そして三度目の沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。
「すみません」掠れた声だった。「事業に金を使い切ってしまって……後で払うことはできますか」
聞き間違いだと思いたかった。「……はい?」
「後払いにしてもらえませんか」彼はもう一度、丁寧に繰り返した。まるで言い方を変えれば納得してもらえるとでも思っているようだった。
コンビニに掛け売りを頼む人間などいるはずがない。それでも彼は答えを待つように立ち続けていた。
「申し訳ございませんが、当店では後払いは承っておりません」接客用の口調で、彼女ははっきりと告げた。
「知っています」
ならばなぜ尋ねたのか。その疑問を口には出さず、彼女は黙って飲み込んだ。
「クレジットカードはお持ちですか」
彼はゆるく首を振り、代わりに鞄へ手を伸ばした。
その瞬間、警戒心が芽生えた。名刺、続けて数枚のパンフレット、最後にやや大仰な銀行の書類まで、次々とカウンターへ並べられていく。紙の山はスキャナーに触れそうな高さまで積み上がった。
彼は資料と彼女の顔を見比べながら息を吐いた。「怪しい人間に見えるのは分かっています」
多少の自覚があるだけ、まだ救いはあるのかもしれない。「ですが、本当にVTuber事務所を経営しているんです」
パンフレットが一枚滑ってきた。「もうチャンネルもあります」名刺がもう一枚。「モデルも発注済みで、今はAI駆動のリギングシステムを開発中です」
資料と男を交互に眺めながら、彼女はこれが必死さなのか、それとも妄想なのか判断がつかなかった。
「それは支払いにはなりません」できるだけ柔らかく、しかし毅然とした口調で答えた。
肩が落ちた。似たような台詞を何度も聞かされてきたのだろう。
「そうですか」たった一言に、これまでのどんな説明よりも深い落胆が滲んでいた。
彼は静かに資料をまとめ、迷惑をかけたと詫びながら、水とサンドイッチを黙ってカウンターへ戻した。
その諦めきった小さな動作が、なぜか彼女の胸を落ち着かなくさせた。追い詰められた人間は普通、怒るか食い下がるものだ。しかしこの男はすでに怒りの段階を通り過ぎ、それでも歩き続けているように見えた。彼が出口へ向かおうとした瞬間、考えるより先に声が出た。
「待ってください」なぜそう言ったのか、自分でも説明できなかった。前掛けの小銭を取り出し、代わりに支払うと告げる。
男の目が驚きに見開かれた。数秒の沈黙のあと、彼は頭を下げた。一度、そしてもう一度。額を打ちそうな勢いで何度も礼を述べる姿に、彼女はむしろ心配になった。
去る前、彼は名刺を彼女の手に押しつけ、気が変わったら連絡してほしいと言い残した。断る手間の方が面倒に思えて、彼女はそれを受け取った。
自動ドアが閉まり、アコヤマートはまた静寂に包まれた。
名刺をひっくり返しながら、聞き慣れない社名と奇妙なロゴを見つめる。VTuber事務所、AIリギング、そしてサンドイッチひとつ買えない創業者。どれもうまく噛み合わない話だった。
その矛盾に頭を悩ませていると、再びドアの鐘が鳴った。
「いらっしゃいませ、アコヤマートへ」反射的に姿勢を正しながら顔を向け、すぐに後悔した。
「バイオレット~!」名前を歌うように伸ばせる人間は、この世に一人しかいない。
金色に染めた髪と隙のないオフィス服を纏った来客は、皺だらけの制服姿の彼女とは正反対の存在だった。
「ヒミコ」淡々とした声で返す。
「その挨拶はひどくない?」ヒミコはカウンターに大げさに寄りかかった。「じゃあ、また姫星って呼ぼうかな」
思わず身が固まった。「やめて」
「姫星」構わずもう一度繰り出される。反応を楽しんでいるのは明らかだった。
その姓は誉れというより重荷のようなものだった。何世代も前に途絶えた姫星家との縁を大げさに響かせるだけで、平凡なレジ係には不釣り合いな響きだった。それでも名前はしぶとく残り続け、望んでもいない意味を背負わせてくる。
「今日、何かあったでしょ」ヒミコの声から茶化す色が薄れ、代わりに好奇心が滲んだ。
躊躇いながらも、彼女は名刺とパンフレット、そして手書きの借用書を次々と取り出した。話し終える頃には、ヒミコは珍しく長く黙り込んでいた。
「へえ」やがて漏れた声は、少しも安心材料にならなかった。
「何?」
「嘘は言ってないと思う」
「本気で?」
「本気。でも、それが信用できるかどうかは別問題だからね」ヒミコはパンフレットを手に取り、意外なほど真剣な目で読み込んだ。
「今、VTuber業界はすごい速さで広がってる。だからこそ危険も多いの。詐欺まがいの事務所、悪質な契約、才能を使い捨てるだけの会社。財産を築く人もいれば、消えていく人もいる」
その説明は励みになるどころか、不安を積み重ねた。
「じゃあ、どうすればいいと思う?」
「まずは借金を返してもらう」ヒミコは即答した。「それから、事務所が本当に価値あるものだって分かったら、VTuberになるのも考えてみればいい」
彼女はゆっくりと息を吐き、棚へ向かい、割引の弁当を一つ抱えて戻ってきた。自分でバーコードを通し、表示を確かめる。
「七百三十五円」半ば意味もなく、そう告げた。
ヒミコは芝居がかった仕草でぴったりの金額を置いた。「現金で、全額。誰かさんとは違ってね」
「その言い方はやめて」
「どの言い方?」
「悪いことなんて何も起きないなんて、迂闊に言わないで」災いを軽々しく招くような発言を、バイオレットはずっと苦手にしていた。理屈に合わない予感だとしても。
ヒミコは笑いながら自分を指差した。「私の名前の意味、知ってるでしょ?」弁当を抱え、戸口で軽く手を振ると、自分にだけは面倒事など起きないと言い切って去っていった。
言葉を返す間もなく、自動ドアが友人の背中を隠すように閉まった。店内はまた静けさへ沈み、前掛けにしまった名刺の存在だけが、彼女の胸の奥にわずかな重みを残していた。
人混みの中へ消えていくヒミコの後ろ姿を眺めながら、彼女はふと、この奇妙な一日がまだ終わっていない気がしてならなかった。




