8話: 風の日
イライラする。本当にイライラする。
大きな弱点が克服され、できないことが唐突にできるようになったところで、その愉悦に浸るが短し、むしろ『こんな事もできないのか』という苛立ちにすぐに変わっていく。何も誰かに苛立つわけでは…いや、他人に対しても常に苛立ちはある。何れにせよ、できることが増える度に『出来ない自分』のしきい値が上がるのみで、劣等感は絶えず襲ってくる。そして解消されることのなく悶々と込み上げる性怨と、冷静になるほど尚更リアリティのある現実。ああ、何もかもが恥ずかしい。いくら顔が良くなったところで、創作物のように万象の免罪符にはならん。まあそりゃそうか。そもそもイケメンはイケメンであることをアイデンティティにはしねーんだよ。それが許されるのは男性アイドルの皆さんだけだ。
さっき、贅沢な悩みに生産性はないと言った。この思想は変わらん。だがお…俺…まあそのうち慣れるさ。何の話したかったんだっけ。そうそう。俺が娑婆で餓鬼をやっていた頃、私を跳ね返る壁のように使って悩みを打ち明ける悪友の言うことも、ただの嫌味にしか聞こえなかったのである。自分が世界の底辺であり、自分より恵まれたものの悩みなど全てはしたないものであると思っていた。逆も然り。
だが今の俺は側から見ればかなりのイケメン、そして難民という強い立場。それでも女子とは相変わらず話せないし、日本のコメが恋しい。悩むという行為自体が真剣なものである。自分がそういう立ち位置にならない限り知り得なかった。哲学というのはこういう時に沁みるものなのか。いいや、その立場にならない限り実感できないようなものはただの啓発だ。とかく、俺が言いたいのは『贅沢な悩みね』なんていうものを認識したところで、その後の人生に何か活かせる教訓でもないんだから、そういう言葉を他人と共有するなってことだ。腹立たしい…って大きい大きいブーメランが刺さっているな。やめようこの話。
あーあ、今の世界ではスマホも使えず、面白そうな娯楽もそこまで存在しないので、藁の上に敷かれた暇に響く虚無をとくと受け止めるしかない。いつまで行っても欲求は飽くことを知らないな。どうしてこうも諦められないのか。そりゃあ、美術面で言えばレオナルドダヴィンチ、数学界でいえば岡潔、野球界で言えば大谷翔平のように、全知全能がごとくこなしてしまう人間の先例が存在するためだろう。俺もこの世界で全知全能の剣士にでもなりてえよ。なこと言っても猛獣がある時代だけどな。じゃあ最強狙撃手でも目指すか?いいや。もうめちゃくちゃな人生は勘弁だよ。ただ、安らかな場所が欲しいだけなんだ。ここが死後の世界だとしても納得できるほどに、俺を癒して欲しいんだ。そうだ、私にはそういった拠り所がなかった。
これは作者の人生とは無関係なのだが、少し前の世界での自分語りをさせてくれ。俺の小さい頃は住環境はあったし、家も悪くなくて、服もまあボロいものは着なくて良かったんだ。別に親との仲は悪くなかったけど、母さんがやばい宗教にハマったあたりから、もう全部崩れた。幸せの味というは永遠に残ってしまうだけに、2割増し程度の不幸が、幼少期の記憶のハイライトだ。
そして厨房の頃、母さんが衝動で小学生時代の図画工作で作った粘土細工を壊した、風の強い日。それまでこれで当たり前だと思っていた生活というものの認識が歪んでいることに気づいたので、家を出ることにした。深夜、警察の元に行けば児相を経由してどうせ家に戻されてしまうだろうなと何となくわかっていたので、小岩に住んでいる母の元夫の母の兄弟の妻のいとこの別居中の夫、まあつまり死ぬほど関係が遠いのにしょっちゅう遊びに行っていた親戚になし崩し的に泣きついてやろうとしたが、出た時間が遅すぎたせいで、電車を乗り継いでも御茶ノ水で足止めを喰らってしまった。改札を持ち前の影の薄さで乗り切っても、その後警察に補導されないように小さい体を文字通り死に物狂いでそろりそろり、尚もせかせかと目を掻い潜りながら、死にかけの電池のスマホで母の元夫の母の兄弟の妻のいとこの別居中の夫に電話をかけたが、流石に出なかった。もうここで大人しく補導されようと思っていた時に、偶然通りかかったタクシーのおっちゃんが匿ってくれた。なんとそれは偶然にも母の元夫の母の兄弟の妻のいとこの別居中の夫だった。事情を話しては見たが、どんな理由であれ親の同意なしに家にあげると犯罪になってしまうことを知っていたので、その夜とその次の夜はどうしても江戸川区の児相で明かすことにはなってしまったのだが、2日もすれば、なんと俺はその母の元夫の母の兄弟の妻のいとこの別居中の…母さんの…ああ、もうこの折だから言ってしまうよ、樹さんね。んで、樹さんの家で匿ってもらうことが認められた。
そんなこんなで、樹さんは俺の養子縁組を勝ち取り、俺は元の苗字を捨てて新生活を始めて、わんこを迎えたりなんかしてそこそこの幸せを手に入れたとしても、今度は今までやられてきた傷跡が精神病となって現れてしまったんだ。本当に何もできなかった。高校にも行く日が少なくなって。ただここ数日は本当にひどかった。本当に自分が自分じゃないみたいな行動しかとらなかった。理性はあるのに脳が言うことを聞かねいんだよ。意味わからないと思うんだけど、本当なんだよ。
はあ、あっちの世界では今の俺の葬儀の手続きでもしているのだろうか。くっそ、もう俺は樹さんに何も返せない。何もしてやれないし、何も帰らない。んなことはわかってる。言うな。だからこそ言うな。自分を匿ってくれた人より先に死んじまった悔しさがわかるだろうか。まして自分で自分をだ。たぶん。
少し虚しさの中で休眠をとった。これで睡眠シーンは5回目だ。便利に使いやがって。というか案外寝れるもんだな。体はバキバキになるけど。まあいいや、目を開ける気力がないし、感情的にも落ち着いたから俯瞰して考えよう。どちらにせよ、流石に自分の身に来ると思ってなかった異世界転生から、このベッドでぶっ倒れるまで、考え事をまともにできるような時間もなかった。それこそ銭湯ですらも、見慣れないものばかりで休まりはしなかった。なぜかこの部屋は独房のように無機質だが、どこかしらの癒しをもたらす、見外はすでに暗い。居間で時間を確認しよう。あそうそう、自分の部屋にあった時計と思しきものはただのモニュメントであった。そんなもの導入する金があるなら俺に朝飯をよこせや。
針は11時…のところに1って書いてある。12のところには0とあるし、1時のところには11時とある。もしかしてと思い、秒針を60秒間じっと観察する。そうか、この世界の時計は反時計回りなのか。ん?俺は何を言っている?えーとねつまり、東京でいうところの内回り、大阪でいうところのちゃんと確認しないと和歌山や奈良に飛ばされる方。余計わかりづらくなったわ。
外を見れば、雨上がりの、風の強い様子を伺えた。都合よく、樹さんに助けてもらった時の光景をどこか思い出す。高い建物なんていうのはほぼ見当たらないが、中途半端な暗さの汚え空の色にどこか覚えがある。地面の質感がコンクリと土で全然違うことを加味したとしても、土に雨水が染み込んでいる様子は、都心でよく見られる水たまりとは違う風情がある。
そこらへんの歌のように、俺は4分足らずでけろっと前を向けるような人間ではない。なんだろうな、苦しさと言うか虚しさと言うか。そう言うものに大人しく浸らせればいいのに、強引に希望を見せようとするのは商業的理由なのだろうか。それと、自分はこう言うことがあったが今は立ち直って音楽をやっているという伝記のひけらかしか。ええい、きな臭い。
とりあえずお花を積んでから、独房に戻ってきた。今はちょっと前を向く…って言い方をすると癪だな。もう戻らないことを考えてもなんの生産性もないので、この世界でどうするかを考えなきゃいけない。かなり主観的な事実として、樹さんたちは俺のために数多の苦労をしてくれた。本来、安寧の暮らしというのは余程の社会への忠誠心を持って成り立つものであろう。それをデカ乳女と一緒に仕事したいからという理由で手に入れようとしていること自体がお門違いだ。なんの職業訓練も護身術も身につけていない俺ではあるが、やっぱ似たような環境で匿ってもらっているのにも関わらず、何も返せないという二の舞を踏むのは流石に腰が引けるな…うお洒落臭え。言ってること寒いぞマジで。あ、今初めて典型的な冷笑をしたな。どっちにしろなんか覚悟が決まった。やっぱ誰か救う系の職業やりたいよね。典型的ななろうの話っぽくはなってしまうけどな。
最近何に対しても意気消沈気味で語彙力が終焉を迎えております。多分湿気に奪われました。




