1話: 咳をしても一人
体が動かない。よくわからないが動かない。瞼は開かず、耳は遠いが、風が頭、胴体、そして足で吹き抜けていることはわかる。青々とした大地の匂いは伝わってくるが、味覚は何故か使えない。服は…たぶん着ているのだろうな。突然視界が開けたと思ったら、どこにでもありそうな緑が広がっているようだぞ、と視覚が訴えてくる。自然を感じられる様な外の空気を吸うこと自体、随分と久しぶりのような気がしている。またよくわからないが、首が左を向いたようだ。そこには案の定森が広がっており、面白みに欠ける。そしたら次は首が右を向いた。何かがいる。狼のように見え、足は何かうなりを上げている。体が動いた。よくわからないが走ることができている。あぁそうか。これはまた悪い夢か。早めに起きてしまおう。
ーーいつもなら、ここで起きている。しかし、今回ばかりはそうもいかぬ。あー、もしかすると、これがいわゆる異世界転生と言うやつか。躁になったときに薬を飲み忘れてトリップしてしまったか。とうとうやってしまったか。だとしても、そうでなくても、夢ではないのであれば、虚しいことを考えている時間はなくなってくる。これが我が人生の新しい定められた道なのであれば、まずはこの肉体の自由意志を取り戻さなくてはならない。全力で頭を回すんだ。目を見張り耳をすまし、その駆けている足をより鮮明にイメージするのだ。
わずかに耳鳴りがしたのち、意思は取り戻したが、これは愚策だった。同時に体力が残り少ないことを感じ、肺が急に圧迫されるのを感じたと思ったら、メロスのごとく回っていた足は、すぐさま緩慢な一人歩きへと変わってしまっていた。頼む。夢なんだったら、さっさと覚めてくれ。そう願った刹那に、死線を感じたと思えば、何やら肉体に鉄が当たったような鈍い音がした。
恐る恐る足を緩めながら振り返ると、オオカミはわずかに血を流しながら、明らかに足元がおぼつかなくなっている様子であった。一体何が起きているのか?情報量が多すぎる。その割に話の論理が立っている。疑問を感じている間にも、狼は走ることをやめ、間もなく左側へ倒れてしまった。
「そこの男!怪我はないか?」
少しして、森がしゃべった。軽やかな女の声で。いや、森はしゃべっていないのだと思うが、人の姿が見えないのでそう錯覚した。その正体はすぐに現れた。うわー。こういう系の小説に出てきがちな、背が高く、露出が多く、乳がでかい、どう考えても、隙だらけの女の戦士だった。んてか日本語で喋って来んのかよ。都合のいい世界だな。それでもよく分からない言語を嬉々として話されるよりは数千倍マシだが。
そういえば、普段運動なんてしないくせに死力を使ってしまった。もう体は限界に近いことなんて忘れていた。なるほど、感覚が馬鹿になるから馬鹿力というのか。そんな阿呆な考えをするために脳のリソースを割いているようでは、この上がった心拍数などへなちょこな身体が受け止められるはずがない。私は、直ぐに情けなくヘナヘナと座り込んでしまった。
「助かった…ありがとう…」
とりあえず最低限の感謝はしたのは覚えている。今が夢の中か何かは知らないが、ここで礼儀を欠けば良くないことが起きる気がしたからだ。不本意である。そう話した後、私は意識が薄れ、視界は一度意味を持たなくなった。次に目を開けられたときには、本当の意味で目覚められるのだろうか。頼むからそうであってくれ。まあどうせこの小説が連載な時点で、絶対に目覚めることはないんだけどな。そして伏線にしても内容が薄いし、アプローチとしても微妙である。
まあさ、確かに乳のデカい女に囲まれた生活ができるのは魅力だが、どうせ私に興味があるわけでもないのでしょうから、私には無関係なのだよ。それよりも、こういう世界観だと恐らくスマホが使えないのもそうだし、ヤバい猛獣とかが日常的に出没する場所で生活しなきゃいけない可能性があるのは頂けない。あゝ、こう考えると、都市の生活はできたものではないが、実は幸せなものであるかもしれない。狼は襲ってこないし、スマホは使えるし、安易な娯楽もある。…まあ、その部分だけきり取ればな。何が幸せだよ、ばかばかしい。二度とそんな言葉に逃げるんじゃないよ。それは愚か者の言葉なんだ。
こう思慮を巡らせても、次に目を開けた時にも、見受けられるのはクラシカルな表現の中世建築であった。ああくそ、やっぱトリップしちまったのか。今思うとやっぱり少し...勿体無かったな。あんなに死にたい死にたいとほざいていたのに、死ぬときはこんなにあっさりか。命とは儚い。ただ、その余韻に浸ってる時間はない。とりあえず切り替えないと。
んで、黄泉の世界ってこれかよ。閻魔は?正義の審判は?天国へ連れて行ってくれる天使は?三途の川は?そう神は教えてくれたじゃないか。どれも見当たらないな。そもそも死者にはいかなる裁きの前にも少々の安寧があ…
「わかりますか?」
んだよ、考え事してんだよ私は。さっきの下品な剣士とは声が違う。となれば、別の女か?自由意志はすっかり私のものになっていたので、この私に気安く話しかけてきた女を一目見てやろうと、この体を起こそうとした。
その女はすぐに
「無理に体起こさなくていいので!発見者の方呼んできますから!」
というよくわからないことを言って、部屋の奥に消えた。これはもしかして近くの医院まであの女が運んでくれたってことか?どういう体制で運ばれたのかは知らないが、どっちみちあの妖美な体に、私の体は触っていたというのか。畜生、起きておけばよかった。それで起きていたなら、すでに私はこの世界で生きる意味は見出せたのに。てかなんならその出来事だけでもう死んでもいいぐらいの幸福だろう…結局俺が前の世界で悩んでいたことってこんなレベルの話なのか?三大欲求の範疇を出ないじゃないか。ほんとうに嫌になるぜ。
まあいい。さっきの考え事の続きをしよう。とにかく死生観として、死後の世界には必ず最初には安寧があるはずだ。そうどの宗教も教えてくれた筈なのに。もしかして、あのまま狼に食われれば地獄行き、助けられれば天国行きという感じの世界なのか?あゝ、もう深く考えるのはやめよう。もうなんでもいいよ、成れの果てが異世界転生でもなんでも。どうせ元の世界には戻れないのだから。あーもう、さっきの女のせいでどの辺まで思考を持っていこうかを忘れてしまったよ。本当に腹立たしい。
5分もしないうちに、さっきの下世話な女と破廉恥な女がやってきた。
「よかった、生きてた〜」
そう破廉恥な方の女は言った。そりゃ生きとるわアホめ。逆に死んでたらどういうリアクション取るんだよ。失礼な女め。
「いったい何があったのですか?」
そう先ほどの下世話な女は聞いた。普通に看護師だった。
「いやーね?それが、そもそも何でここにいるのかも知らないんですよ。信じてもらえないと思うんですが、目が覚めた時には森の中で…」
「ってことは…素人の推測ですけど...なんか記憶が消えちゃったとか?それにしても、何であんな山奥で寝っ転がってたわけ?噛まれた後とかなかったから野生動物に襲われたとかでもなさそうだし。」
破廉恥な女は言った。
「だからそれがわからないんですって。」
「どっちにしろ頭がおかしくなっちゃっているのね…かわいそうに…」
クソっ、ここでも障害者扱いかよ。あの看護師許さねえ。どの世界の人もこうやって、お前らの頭じゃ理解できないような行動をする人間をすぐ障害者という言葉に押し込める。そうやって普通の人間というのを定義し、異分子を排除するための社会構造を構築してゆく。野蛮な生物たちの生存戦略が人間にも通用すると思うな。…まあ私もそんな障害への社会福祉とやらにあぐらをかいいていた身ではあるがな。まあなんでもいいよ。とりあえず記憶が飛んでることにしておけばいいんでしょ。
「とにかく怪我がないのであれば、さっさと出てってもらいますよ。」
「ちょっと待ってくださいよ。まず自分が何者かぐらい思い出させてくださいよ。」
「貴重な病床を待っている『人』がいるんです!ご理解ください!」
なんだこいつ。障害者は人じゃねえってのか。んてかここでも病院足りないのかよ、ある意味歴史は繰り返すんだな。兎角覚えていやがれこのクソアマ、もし私がこの世界で魔王にでもなった暁にはこの村を真っ先に焼き払ってやる。これが異世界の洗礼か。もっと都合のいいハプニングでもあるのかとか思ったぜ。
やり場のない怒りを覚えながら、私はこの無礼な診療所を後にすることにした。そういえばこの世界での医療費のシステムがわからないので一応カウンターらしき場所によったが、どういうわけだか金は請求されなかった。なるほどな、ソリアノ診療所というのか。
この無礼な診療所を出ると、先ほどの破廉恥女が再びいた。そういえばこいつ赤髪だったっけ。んで赤のビキニアーマー、持っていた銃は茶色。多分こいつの脳内はピンクだ。てか銃がある時代なのか。相当後期の頃かな。いや、17世紀にはもう鉄砲ってあったはずだ。となると意外と近世なのかもしれないな。どっちみちスマホ使えないから時代設定がなんだろうが変わんねーや。のうなんかこの女の乳を見てたら全部どうでも良くなってきた。
「なんか災難だったね。」
本当だわ。マジで。勘弁してくれよ。よりにもよってあんなヤブ医者のところ連れていきやがって。
「まあちょっとね...色々。」
「もしかして、君本当に何も持ってないの?」
「...そうですね。そのそもここの文化とか、慣習とか、礼儀とかも、何もわからなくて…」
「どういうこっちゃねん。まあいいよ、この感じだと...多分他の国から亡命したとかその辺りかな?」
おおいいね、その設定に乗ろう。
「...そんな感じですね。元いた国の内戦から…逃げてきました。」
「難民なのね、それは大変なこった。」
「とりあえず、もしその国に関する情報を持っているのであれば教えて欲しいから、ちょっと色々話聞かせてちょうだい。昼飯奢るからさ。」
やっべえ。これもしかして情報持ってないと殺される流れか?
しぶとい散文にここまでお付き合いいただきありがとうございます。
連載作品として投稿するのは高一の頃ぶりとなります。
今後も亀より遅い速度でゆっくり更新していきますので、よかったら気長にお待ちいただけると幸いでございます。




