新月
辺りは真っ暗で月の光はない。
周りの木々は風を受けてさわさわと音を立て、時々獣の鳴き声も聞こえてくる。
視界は悪いのに足元は石や木の根ででこぼこしていて歩きづらい。
こんなところで一人で歩いているところを賊にでも襲われたらかなり分が悪い。
嫌なところへ来てしまったと思いながら、葵亥はこの先にあるという万願寺を目指していた。
人気のない山道のはずだが、時々見られているような感覚を覚えるのは気のせいではないだろう。
この道を通るものを何者かが監視している。
あえて明かりを付けずに進んできたのは暗闇に目を慣らすためだが、さすがにこれだけ暗くては進むだけで精一杯である。
しかしそれはこの暗闇に潜んでいる者たちにとっても同じことだろう。
もくもくと山道を行くと遠くに黒い門と明かりが見えてきた。
正確には黒い門なのか赤い門なのかは分からないが、とにかくそこがおそらく万願寺だろう。
門の前に立ち、葵亥は一度深呼吸して気持ちを整えてから門を叩いた。
すると意外にも内側からすんなり門が開き、門番の男は何も言わずに葵亥を中へ招き入れた。
門の中はいくつか火で明かりを灯しており、暗闇からやって来た葵亥にとっては眩しいくらいだった。
門の中に入って立ったまま辺りを見回していると、門番の男が静かに言った。
「左側に大きな鐘がある。そこへ行きなさい」
葵亥は言われた通り左側へ進んだ。
たしかにそこには大きな鐘があった。
そして鐘の下に既に何人か人が集まっている。
葵亥は静かにその集団のなかに混ざって、何事かが起こるのを待つことにした。
ここに集まる人々は階級に差はあれど皆武士のようだ。
葵亥は寄席のときと同じ十夜からもらった着物に身を包み顔にも化粧をし、下級武士になりきっている。
鐘の下には火のともった明かりがひとつあり、そのすぐ横に立つ二人の人物は雰囲気からしてここを取り仕切る者たち、真朝隊の者のようだ。
目を凝らして見ていると、一人は寄席で声をかけてきた人物だと分かった。
もう一人の人物はかなり体格のよい屈強な武士という印象で、左目の上に傷がある。
葵亥は不思議とこの人物の顔つきに見覚えがあるような気がした。
どこかで会ったことがあるのだろうか。そんな気がして葵亥は一生懸命に思い出そうとしていると、その人物が咳払いをし話し始めた。
「私たち真朝隊はこの国を真のあるべき姿で守り続けるために存在する組織だ。
この葦原中国を治めるに相応しいのは、邇邇芸命の血をひき、天照大御神より賜った三つの宝物を所有する由緒正しき天皇である。
八咫鏡は伊勢神宮に、草薙剣は熱田神宮にある。
そして我らの天皇はもう一つの宝物、八尺瓊勾玉をお持ちである。
これらの宝物をもたぬ者が国を治めるなどあってはならない。
我々は葦原中国の正しき姿を取り戻す必要があると考えている。
ここに集まった貴方がたは我々に賛同し協力する者という認識でいる」
頷きながら聞いていた周りの者たちは歓声をあげた。
「つまり我々で幕府を倒すということですか」
集まっていた者の中の一人が言うと、周りの者たちは先ほどの男に注目した。
男は左目の上の傷を指で撫でるように触れ、それから首を横に振った。
「まあそう焦るな。私とてはじめから力ずくでどうにかしようと言うのではない。
それに京の都にいる我々が少人数で幕府を討つなど現実的ではないだろう。
まずは幕府ではなく所司代から順に手をつけなければならないだろう」
所司代と聞いて葵亥の拳に自然と力がこもる。
また集まった者の中の誰かが声をあげていた。
「以前、所司代の屋敷へ攻め入った者たちがいたと聞きましたが、簡単に返り討ちに遭っていましたぞ。
何か策はあるのでしょうな?」
顔に傷のある男は、少しむっとしたような表情を見せた。
「初めに言っておく。
所司代の屋敷に乗り込んだ愚か者がいたが、あれは私の意向とは全く違う。
所司代には京の都から出ていくように説得すればよい。
まあそれで駄目なら力ずくで行くしかないが、もちろん策はある」
「葉香園とかいう茶屋でのいざこざは何だったのだ」
周りの者たちから立て続けに質問が飛び出していく。
葵亥にとっては下手に動いて目立つことは避けたかったのでこれはありがたい状況だった。
「あの騒ぎも愚か者の早とちりだ。
ただ、あの葉香園という茶屋は昔の真朝隊の拠点だったのだ。
葉香園は重要な位置にあり、我々の手に取り戻したいというのは事実だ。
あの建物の屋根に上がれば、所司代の屋敷への侵入が可能になる上、宮廷の塀も楽に越えることができるからな」
「所司代の屋敷はともかく、宮廷の塀を超えるとはどういう事ですか?」
誰かが葵亥が思っていたのと同じ疑問を口にした。
「それについては後々話す。幕府の方の対処が優先だ。
まずは私が自ら所司代に話をしに行く。
準備が整うまでしばし待つのだ。
あまり期待はできないし、状況によっては刀を交えることになるかもしれない。
その時に必要なのがここにいる貴方がただというわけだ」
「気織と戦うと言うのですか?」
「最悪そうなるという話だ。
しかし気織と正面からやり合うというのは愚策だ。
やるからにはしっかり準備する。
とにかく貴方がたには心の準備と鍛錬を積んでおいてもらいたい。
準備を整えるにもまだ少し時間がかかる。
くれぐれも勝手に動いて騒ぎを起こさない様にしてくれ。
次の新月にまた集まろう。
抜けたいものは勝手に抜けるがいい。
ただし我々のことは他言無用だ。以上」
山道を一人で下りながら葵亥は考え込んでいた。
真朝隊の主張は、天皇こそこの国を治めるのに相応しく、幕府は彼らにとって不要な存在だということだろう。
しかしまだ分からないこともある。
所司代に話をつけにいくための『準備』とは一体何なのか。
そして葉香園の屋根伝いに宮廷へ入れるとして、どんな目的があるというのだろうか。
屋敷へ戻るとすぐに葵亥は万願寺で見聞きしたことを義巳へ報告した。
葵亥の話が終わると、義巳は腕組みをしてしばらく考え込んでから言った。
「真朝隊も一枚岩ではないということだな。
色々と気になるところはあるが、次の新月まで大きな動きはなさそうだな。
こちらも万が一のための準備はしておく必要がある。
真朝隊に気づかれぬように密かに武器を揃えよう」
真朝隊の情報網がどれほどのものかは分からないが、真朝隊に知られないように武器を揃えるくらいなら可能だろう。
まだ腕組みをして難しい顔をしている義巳に、葵亥は思いついた事を口にした。
「義巳叔父さん。真朝隊もこちらに悟られぬ様に準備をしているということではないですか?
であれば、京の都での物の流れに不審なところがないか調べてみたらどうでしょうか。
真朝隊がどんな準備をしているのか分かるかもしれません」
「うむ。明日になったら早速手をつけよう。
梅立商店や望月家なら協力してくれるだろう。
葵亥、お前は望月家の方を頼む」
「分かりました」
義巳はふと硬い表情を崩して優しい笑みを浮かべて言った。
「ひとりでこういう仕事をするのは初めてだったろう。よくやったな。
今、京の都に葵亥がいてくれてよかった」
葵亥は自室へ向かいながらこっそりと微笑んでいた。




