啟程
午前九時半、青山由紀は休憩室の扉をそっと押し開け、両手に淹て間もない温かいお茶を二杯抱えていた。
部屋の中は静かで、葉山雅子はすでに目を覚ましていた。
彼女はベッドには横たわっておらず、椅子をひとつ運んできて、佐藤美咲のそばに黙って腰を下ろし、足元には昨夜と同じ灰色の毛布をかけていた。
ドアを開ける音に気づき、彼女は振り返って、やってきた青山由紀の姿を見た。
「おはよう、青山さん。」
「おはよう、葉山さん。」
青山由紀と互いに朝の挨拶を交わした後、葉山雅子の視線はもう一方のベッドでまだ眠り続ける佐藤美咲へと戻った。美咲はとても落ち着かない様子で、眉をひそめ、掛け布団の端をぎゅっと握りしめ、口の中で何かを何度もつぶやいている。
それを見た青山由紀は、葉山雅子に温かいお茶のカップを差し出し、もう一杯は休憩室のテーブルに置いた。
葉山雅子はそっとカップを両手で包み込み、ひと口すする。温かなお茶が体にほのかなぬくもりをもたらした。
「もう起きてから、ずいぶん経つの?」と由紀が声を潜めて尋ねた。
「まだ少ししか経っていないわ。」
「こちらでの寝心地は、まあまあ慣れた?」
「私は出張が多いせいで、あまり場所を選ばないほうだけど……」葉山雅子はちらりと佐藤美咲の方を見て続けた。「美咲はずっと悪夢に悩まされていて、夜中に『ママ』とか『健吾』って、口走ってるのよ。」
由紀もまた若い女の子だ。一夜にして頼れる存在を失う絶望というものを、想像するのは難しくなかった。彼女はゆっくりと眠る佐藤美咲のもとへ歩み寄り、優しい声でささやいた。
「安心して。きっと両親の居場所を見つけられるからね。」
眠りの中にいる佐藤美咲は何かを感じ取ったのか、掛け布団の端をつかむ手が少しだけ緩んだ。
そのとき、青山由紀はもう一つ大事なことを思い出し、葉山雅子に向き直った。
「そういえば、葉山さん、いいお知らせがあるの。昨夜、お兄さんの葉山隼人さんと連絡が取れたの。あなたの状況を聞いてとても心配して、今、車で駆けつけている最中なのよ。先ほど電話で話したんだけど、署にはあと一時間弱で到着するみたいね。」
兄の消息を聞いた葉山雅子は、胸の内でぐっと安堵の気持ちが広がった。
「ありがとうございます。本当にご迷惑ばかりかけて……」
「どういたしまして。私たちの役目だから」と由紀は微笑んで言った。「あ、そうそう、隣の宿舎にも連絡して、使い捨ての洗面用品やタオル、歯ブラシなんかを用意してもらっているの。このあと顔でも洗って、ちょっと気分をリフレッシュしてきてもいいわよ。」
「ええ、ありがとう。」
二人が小さな声で話し合っていると、隣のベッドからカサコソという音が聞こえた。
佐藤美咲がくるりと寝返りを打ち、ゆっくりと目を開けた。目覚めたばかりの彼女の瞳はぼんやりとして、まるで昨夜の恐ろしい体験からまだ抜け出せていないようだった。あたりを見回し、一瞬自分がどこにいるのかさえわからなくなった様子だ。
「ここは……?」と彼女は思わず口にした。
それを目にした葉山雅子は、すぐにカップを置いて急ぎベッドへと歩み寄り、しゃがみ込んだ。
「美咲、怖がらないで、私よ。」雅子は手を伸ばし、そっと美咲の手を握った。「ここは警察署、もう安全なの。」
掌から伝わる温もりに、美咲は一瞬で落ち着きを取り戻した。そして初めて、雅子が自分の手をしっかりと握っていることに気づいた。
彼女は手を引き抜き、少し照れくさそうに言った。
「ごめんなさい、雅子さん、ちょっと寝ぼけてたみたい。」
雅子はそんな美咲の様子を見て、ただ優しく微笑み、乱れた前髪をそっと整えてやった。
「馬鹿ねえ。謝ることなんてないわ。家が恋しくなっちゃったのよね?」と雅子が言うと、美咲は唇を噛みながら、黙ってうなずいた。
「大丈夫よ。もう少ししたら、私の兄が来るわ。考えておいたんだけど、彼が来たら、車で君の実家がある町まで連れて行ってもらうつもり。きっと両親の居場所も見つかるはずよ。」
「本当?」と美咲は顔を上げて葉山雅子を見た。
「本当よ」と雅子は頷いた。「だから今は、しっかり元気を出すことが大事。由紀さんが近くの宿舎に連絡してくれたから、まず顔を洗って身支度をしてきましょう、ね?」
「うん、わかった」と美咲は素直に答え、布団をはねのけてベッドを降り、雅子と一緒に宿舎へ向かおうとした。
二人がちょうど玄関の前に差し掛かったとき、再び休憩室のドアが勢いよく開いた。
署長の青山隆介が入ってきた。彼は一晩中眠れなかったようで、目の下には深い隈ができ、表情はひどく重く沈んでいる。
すでに起き上がっていた二人の姿を見て、少し険しい顔つきを和らげ、こう言った。
「お二人とも起きていましたか? 昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、よく眠れました。お世話になりました」と葉山雅子が丁寧に答えると、彼女は鋭い勘で青山隆介の異様な様子に気づいた。
「青山署長、何かあったんですか?」
しばらく沈黙した後、青山隆介は脇に挟んでいた印刷された書類を一枚取り出し、雅子の前に差し出した。
「これは今朝、山岳警備隊から届いた最新の報告です」と彼は低く言った。「あなたたちを襲ったあの巨大なクマは、すでに死亡確認されています。」
「クマが死んだんですか?」と葉山雅子は驚いて問い返した。あれほど山のように巨大な怪物が、まさか死んでしまうなんて?
「でもそれは喜ばしいことじゃないですか? なぜそんなに心配されているんですか?」と雅子はさらに尋ねた。
「焼かれて死んだんですか?」と美咲が急いで聞いた。
「いや、焼かれて死んだわけではない」と青山隆介は首を振った。冷たい響きを帯びた声で続けた。
「もし焼かれて死んだのなら、遺体は神社の廃墟の中に残っているはずだ。ところが今朝、山岳警備隊が発見したのは、神社から二キロ離れた裏山の奥だった。確かに体には火傷の痕もあるが、それは致命傷ではない。」
「その死に方は、とても惨憺たるものでした」と青山隆介は雅子の手の中の書類に目を落としながら言った。
「詳しい報告と写真はこちらにありますので。」
葉山雅子は深呼吸して、ゆっくりとファイルを開いた。
最初に目に飛び込んできた写真に、胃がぐるりとひっくり返りそうな衝撃を受けた。
写真は早朝の森の中で撮られたものだ。あの巨大なクマの巨体が一本の古い杉の木の下に横たわっているが、すでに完全な形ではなくなっていた。四肢は、想像を絶するような力で無理やり引きちぎられたかのように周囲の藪に散らばり、切断面からは血肉がむき出しになり、白い骨の切り口がむき出しになっている。
巨大な頭部は地上三メートルの高さの枝に吊るされ、まるで残酷な見せしめのようだ。口は大きく開き、鋭い牙が覗くが、眼球があったはずの位置には血肉がぐちゃぐちゃになった二つの穴がぽっかりと空いており、何かによって抉り取られたかのようだ。
次の写真はさらに衝撃的だった。クマの腹部には大きな裂け目が走り、そこからは血肉がむき出しになった人間の遺体が覗いている。その遺体はもはや原型を留めておらず、しかし内部から消化しきれずに残っていた名刺が見つかり、成人男性サラリーマンだと判明した。
佐藤美咲が興味津々で覗き込んだが、見るなり口を押さえて乾いた嗚咽を漏らし、吐きそうになった。
「大丈夫?」と慌てて青山由紀が彼女を支えてベッドに戻し、背中を優しくさすった。
「この人物の身元はすでに特定済みです。東京近郊の会社員で、あなたたちより先に青狐村へ到着し、灯油ランプに火を点けた後、さらに半瓶の灯油と布切れを使って松明を作り、夜通し逃げようとしたようです。ところがその途中であのクマに出くわし、松明で追い払おうとしたものの、最後はその牙の餌食となってしまいました。」
葉山雅子は不快感を必死で抑え、ファイルを素早く閉じて青山隆介に返した。
「やっぱりあのクマは、とてつもなく巨大で恐ろしい生き物だったんですね」と雅子は震える声で言った。
「でも、こんな化け物のような存在が、なぜ突然命を落としたのでしょう? 一体何が、あの怪物を殺したんですか?」
「私たちもそれがまったくわからないのです」と青山隆介は眉をひそめながら続けた。
「山岳警備隊の人々も、これほど凄惨な状態は見たことがないと口を揃えています。しかも、クマの胴体にはいくつもの貫通傷が見られます。その傷は円柱状で、縁が焦げて黒く変色しており、何か非常に鋭利な尖った物体によって一瞬で体を突き通されたかのようです。」
「もしかして、誰かに銃で撃たれて死んだあと、木の傍に運んできて、クマが死んだと見せかけたんじゃないでしょうか?」
「それは考えにくいですね。もし銃によるものなら、これほどの損傷を残すためには、バレット級の対物ライフルが必要になりますが、昨夜は銃声もしなかったし、弾倉も見つかっていません。それに、もう一つ奇妙な点があります」と青山隆介は付け加えた。
「現場の記録によれば、遺体の周囲には非常に酷い悪臭が漂っていて、動植物が極度に腐敗したときに放つような、見る者を吐き気にさせるような匂いだったそうです。」
「こんな巨大な獣を一瞬で引き裂けるなんて、もしかして恐竜? ティラノサウルスなんでしょうか?」と佐藤美咲がふいに口にした。
「もしティラノサウルス程度の生物に噛み殺されたのなら、現場の地面には必ず足跡や、引きずったり食べたりした痕跡が残るはずです。ところが最も不可解なのは、ここでは他の大型生物の足跡は一切見当たらない上、クマの遺体にも噛み跡や食痕がまったく見られないことです。まるで……」
青山隆介はそこで言葉を切った。自分の考えがあまりにも荒唐無稽すぎる気がしたのだろう。
「まるで、あのクマが何か目に見えない存在によって、生きたまま引き裂かれたかのようです。」
「目に見えない存在!」と佐藤美咲が叫んだ。
「昨日出会ったのがクマだけでよかった。あの恐ろしい何かじゃなくて。」
「いずれにせよ、あの森は以前よりもずっと危険な場所になってしまいました」と青山隆介はため息をつき、メモ帳を閉じた。
「政府は今朝、緊急命令を発令しました。工事チームを派遣して、神山トンネルの入口を巨石とコンクリートで永久封鎖し、周辺には鉄条網を張って二十四時間有人警備を行い、誰も勝手に入れないようにします。クマの遺体は東京の生物研究所へ搬送し、解剖して死因を究明する予定です。」
そう言い終えると、彼は腕時計に目をやり、「詳しい状況はとりあえずここまでです。我々も今朝になって巡視隊からの報告を受けたばかりで、現時点で把握できている情報はこれだけ。今日一日は政府機関の作業に協力するつもりです。お二人はまず洗面に行ってください。葉山さんの兄ももうすぐ到着するでしょう」と告げた。
「わかりました。いろいろ教えてくださって、ありがとうございます」と雅子は礼を述べ、まだ疲れが残る美咲を支えながら、近くの宿舎へと向かった。
およそ二十数分後。
神奈川県警察署の自動センサー式ドアがゆっくりと開いた。
ダークカラーのフード付きコートを着た一人の男性が中へ入ってくる。彼はサングラスを外し、ホールをざっと見渡して、フロントデスクを通り過ぎていく資料を持った青山由紀にすぐに視線を定めた。
彼はそのまま由紀のもとへ歩み寄り、軽く声をかけた。
「こんにちは。」
青山由紀は一瞬戸惑ったが、すぐに気づいた。目の前の男性は葉山雅子と確かに眉目が似ており、きっと彼女の兄に違いない。
「あ、葉山隼人さんですね」と由紀は慌てて言った。
「はい、葉山隼人です。妹の葉山雅子を迎えに来ました。」
「お嬢さんは休憩室にいますよ。すでに洗面も済ませています。こちらへどうぞ。」
葉山隼人氏は軽くうなずき、由紀の後に続いて休憩室の扉の前に立った。
扉を開けると、葉山雅子が佐藤美咲の隣に座り、手を握って優しく語りかけていた。
「怖がらないで。兄が来たら、すべてうまくいくからね。」
ドアが開く音に気づき、雅子はとっさに顔を上げ、見覚えのある姿を一目で認めた。
「兄さん! 来てくれたのね!」
葉山隼人氏は一歩で妹のそばへ駆け寄り、上から下までじっくりと全身を眺めた。顔色が少し青白く、服が多少汚れていいただけで、他に目立った傷はないことを確認すると、一晩中懸けていた不安がようやくひとまず消えた。
「お前、いったいどういうことだ? 昨夜は家に帰って夕飯を食べる約束だったのに、なんで神奈川なんてところに来てるんだ? 駅で三時間も待ったんだぞ。電話もつながらない、連絡も返さない。俺がどんな夜を過ごしたかわかるか? ほとんど行方不明者捜索願いを出そうと思ったくらいだ。いま外はあんな騒ぎで、行方不明事件が次々と……」
兄の立て続けの問い詰めに、葉山雅子は反論せず、ただうつむいて謝った。
「ごめんなさい、兄さん。ちょっとアクシデントがあって……本当に、こんなことになるとは思ってなかったの。スマホの電池が切れちゃって、いろんなことが重なっちゃったの。」
「アクシデント? どんなアクシデントでこんなところまで来ることになるんだ?」と葉山隼人氏は眉をひそめた。
「それは長くなるから、帰り道でゆっくり説明するね。まずは怒らないで。お願いがあるの。」
「お願い? どんなお願いだ?」と葉山隼人氏は警戒した。
葉山雅子は体を少し横にずらし、背後の佐藤美咲を紹介した。
美咲は少し気まずそうに立ち上がり、両手をきつく組んで、迫力のあるこの男性の目を正面から見ることができずにいた。
「こちらは佐藤美咲。私たち、思わぬ出来事に巻き込まれて、一緒に逃げてきたの。彼女の両親とは連絡が取れず、携帯もつながらない。もう何日も音信不通なの。彼女の実家は三浦半島の野島崎で、様子を見に行きたいけど、今の彼女の状態じゃ一人ではとても行けないし、行くこともできないの。」
「私が彼女と一緒に様子を見に行きたいの。兄さん、車で連れて行ってくれない?」と葉山雅子は懇願した。
「野島崎だって?」
「遠いから嫌なの?」
「遠い遠くないの問題じゃない」と葉山隼人氏はため息をつき、口調を厳粛に変えた。
「最近、野島崎の沿岸一帯はとても騒がしくて、通信状況も極端に不安定。警察には多くの行方不明者届けが出されていて、海に奇妙な存在が現れているという噂まである。地元警察はここ数日、救助活動に追われている。お前たち二人の女の子は、危険な場所から脱出したばかりなのに、また別の火種へ飛び込むつもりなのか?」
「でも……」と雅子は隣の美咲を見やった。
「行かないと、彼女は本当に両親に二度と会えないかもしれないの。その待ち続ける苦しさ、兄さんだってわかるでしょ?」
佐藤美咲は勇気を奮い起こし、深々と頭を下げて懇願した。
「葉山さん、お願いです! 本当に怖いんです……でも、どうしても様子を見に行きたいんです。もし……もし都合がつかないなら、一番近い駅で降ろしてもらって、自分でバスに乗って行きますから……」
目の前の無力な少女と、決然とした表情の妹の顔を交互に見た葉山隼人氏は、やむなく苦笑した。
「助けたくないわけじゃない」と彼は腕時計をちらりと見て言った。
「雅子、忘れてるんじゃないか? 今夜九時の飛行機でイギリスに行くんだぞ。入学手続きも終わって、教授も催促してる。日本の情勢が不安定だから、早く出国したほうがいいって言われてるんだ。荷物は車のトランクに積んであって、本当はお前を迎えに行って夕飯でも食べて、そのまま空港へ直行するつもりだったんだ。」
葉山雅子ははっと我に返り、兄の海外留学計画を思い出した。それは彼が念願していたチャンスだった。
「そんな……そんなに急なの?」と雅子はつぶやいた。
「そうだよ。今から野島崎まで行って、さらに空港へ行くなんて、とても間に合わない。チケットの変更も今ではすごく面倒なんだ」と葉山隼人氏は少し困った様子を見せた。
休憩室にはしばしの沈黙が流れた。
雅子はうつむき、美咲の手を強く握った。その手がわずかに震えているのが伝わってきた。
「兄さん……」と雅子は涙を浮かべて顔を上げた。
「美咲は……両親以外、もう何も持っていないの。」
妹の頑なな眼差しに、葉山隼人氏もついに心を許した。
「わかった。少しの間だけ、君たちを乗せてあげよう。ここから南へ向かう道は、空港へ行くルートと野島崎へ向かうルートが一部重なる部分がある。野島崎の近くの派出所に勤める僕の先輩がいて、そこの事情に詳しいんだ。彼に連絡して、途中の休憩所で君たちを引き受け、パトカーで野島崎まで送ってもらい、安全面もしっかり見守ってもらう。それで僕も飛行機に乗り遅れずに済むし、君たちもちゃんと護衛がつく。」
「本当に? 彼、手伝ってくれるの?」
「試してみよう。久しぶりの連絡だけどね。」
そう言って葉山隼人氏は携帯を片手に警察署を出て、玄関の階段に立って電話をかけた。
ほどなくして、葉山隼人氏が再び扉を開け、葉山雅子が急いで尋ねた。
「どうだった?」
「うまくいったよ。大介先輩がちょうど沿岸道路を巡回していて、『海風休憩所』で待ってくれることになった。すぐに出発しよう。」
雅子は美咲を抱きしめて喜んだ。
「よかったね、美咲! 大介警官が助けてくれるから、きっと無事に着けるわ!」
美咲は感謝の気持ちを込めて小さくうなずき、葉山雅子と葉山隼人氏に向けた。
「ありがとう!」と彼女は言った。
「礼など要らないよ」と葉山隼人氏は手を振って答えた。
「では、急いで出発しよう」と彼は言った。




