逃亡
遠くから届く鐘の音は低く重く、まるで古き時代の葬儀に鳴り響く喪鐘のように、二人の耳元でこだましていた。
葉山雅子は思わずスマホの時刻を確認した。
00:00――真夜中の零時だ。
おそらく何かの定時報せなのだろう。だが、人里離れた廃駅のこのあたりに、どこからこんな鐘の音が聞こえてくるというのか?
二人がまだ考えあぐねているうちに、
「ダッ……ダッ……ダッ……」
窓の外から、はっきりとした足音が忽然と響き始めた。それは革靴が枕木を踏む音だ。その足音は速かったり遅かったり、歩いたり立ち止まったりを繰り返し、まるで何かを探っているかのように、あるいは試しているかのようにも聞こえた。
「誰か来たの?」佐藤美咲は勢いよく顔を上げ、窓の外へ目を向けた。
葉山雅子もすぐに立ち上がり、灯台の灯油ランプを机の上に置いて、窓辺へと身を寄せる。
夜の闇はなお濃く、それでもランプの淡い光が薄っすらと漏れ出るおかげで、霧の中にぼんやりと人の姿が見えた。
その人影は線路沿いを、ゆっくりと駅の方へ向かって歩いてくる。歩みはよろめき、体はふらつき、どうやら怪我をしているらしい。
「あの輪郭……きっと人間だわ」と雅子が低い声で言った。
こんな不気味な場所で、もし他の生きた人間に出会えれば、ここがどんなところなのかわかるかもしれないし、ひょっとしたら連れて帰ってもらえるかもしれない。そうでなくても、仲間が一人増えるだけで生き延びる確率は少しは高くなるはずだ。
葉山雅子は即座に机の上の灯油ランプを手に取り、「行ってみるわ」と言った。
「行かないで!」しかし佐藤美咲が彼女の腕をつかんだ。
「行かないで!もし……もし、あの何かだったらどうするの?」彼女の声は震え、恐怖に満ちていた。
彼女は先ほど列車の中でちらりと見た、あの黒い影のことを思い出していたのだ。
「大丈夫よ」と雅子は彼女の手の甲を軽く叩き、できるだけ落ち着いた様子を装った。「あの動きを見ると、どうやら人間みたいだし、しかも怪我をしてるみたいで、すごくゆっくり歩いてるわ。もし化け物なら、とっくに突進してきてるはずよ」
「じゃ……じゃあ、私、一緒に行く!」
佐藤美咲は怖くてたまらないものの、この警備室に一人で残されるのはもっと恐ろしかった。
彼女は雅子の袖をぎゅっと握りしめ、懇願した。「私を一人にしないで、雅子さん!」
「わかった、じゃあ一緒に」
二人は警備室のドアを押し開け、凍てつく寒風が吹きすさぶホームへと踏み出した。
灯油ランプの仄かな黄色い光が濃い霧の中を切り開き、前方数メートルほどの範囲だけをかろうじて照らし出す。
二人は息を潜めて、どんどん近づいてくる人影をじっと見つめた。
やがて前方の霧の中から、その人影が徐々に輪郭をはっきりと現してきた。
ボロボロのシャツを着て、ズボンの裾には泥と黒い汚水がべったりと付着し、片足を引きずりながら駅の方へと一歩一歩進んでくる。
一歩進むたびに、ものすごい力を使っているように見える。距離が縮まるにつれ、ランプの光がようやく彼の顔を照らし出した。
そこには若い男の顔があった。汚れと擦り傷に覆われ、瞳には恐れがぎっしりと詰まっていた。
佐藤美咲はまず一瞬ぽかんとし、続いて目を見開いて、思わず叫んだ。
「ケンゴ?!」
なんと、あれほど列車の中で行方不明になった彼女の恋人・健吾だったのだ!
「ケンゴ!よかった、生きてたのね!」
驚きのあまり頭が真っ白になり、佐藤美咲はもう何も考えずに駆け寄り、失ったはずの恋人を抱きしめようとした。
「来るな!」
ところが、駆け寄ってくる美咲を見て、健吾の顔には再会の喜びは微塵もなく、むしろ極度の恐怖が浮かび上がった。
彼は抱きつこうとする佐藤美咲を思い切り突き飛ばし、怒鳴った。
「早く逃げろ!走れ!」
「どうして?ケンゴ、あなたどうしたの?」美咲はよろけて一歩後退し、呆然と尋ねた。
「そんなことより、逃げろ!早く!」健吾の声はかすれ、切羽詰まった調子で、視線は絶えず背後の濃い霧へとさまよっていた。まるでそこに何か恐ろしいものが潜んでいるかのようだ。
そのとき、葉山雅子もランプを手に追いついてきた。光を頼りに、彼女は健吾の今の惨状をはっきりと目にした。全身には細かな切り傷が無数にあり、鋭利な刃物で切り裂かれたような痕跡だ。血が衣類を染め尽くし、特に足はひどい怪我をしているようだった。
「何が起きたの?どうやって逃げてきたの?」雅子が急いで尋ねた。
「俺……ついさっきまで美咲と一緒に車内にいたのに、一瞬のうちに、美咲が……美咲が消えちゃって、気がつけば……気がつけば、森の中にいたんだ。それから……」
「ウゥゥ……」
言葉が終わらぬうちに、背後からうなり声が響いた。
「あいつが……追いついてきた……霧の中にいる……ずっと俺を追ってきてた……」健吾は恐怖に震えながら言った。「二人とも、今すぐ逃げて!俺のことなんて気にしないで!早く!」
「じゃあ、あなたは?」佐藤美咲は涙声で尋ねた。
健吾は自分の傷ついた足元を一度見て、苦笑いを浮かべた。
「俺はもう動けない……これ以上はただの足手まといになるだけだ。放っておいて、早く逃げてくれ」
「いや、行かない!」
佐藤美咲は再び飛びかかり、健吾の腕をしっかり掴んで、決して離そうとはしなかった。「行かない!一緒に行くの!もう二度とあなたを一人にしないわ!」
「バカ野郎!」激昂した健吾は、必死で彼女の手を振りほどこうとしたが、佐藤美咲は鉄の意志でもって、がっちりと握りしめたままだった。
「パシッ!」
焦った健吾は思わず、佐藤美咲の頬を平手打ちにしてしまった。静まり返った夜に響く乾いた音は、耳を劈くほど鋭かった。
「だから放っておけって言ってるだろ!わかんないのか!死にたいのかよ!」彼は怒鳴りながらも、目尻を赤く染めていた。
火照った頬を押さえ、涙が頬を伝って線路の上へとこぼれ落ちる佐藤美咲。それでもついに健吾の言葉に従い、名残惜しそうに手を離した。
「逃げられたなら、もし両親に会えたら、代わりにお悔やみを伝えておいてくれ」健吾は念を押した。
「うん、わかった」と佐藤美咲は涙を浮かべてうなずいた。
二人が別れを告げるそのとき、突然、濃い霧の奥から一つの音が響いた。
「シュッ――!」
槍のような鋭い尖った物体が、瞬く間に霧を切り裂き、肉眼では捉えられないほどの速さで飛来した。
狙いは葉山雅子のそばにいた佐藤美咲だ。雅子が反応する間もなく、健吾が素早く二人を押しのけた。
「ブシュッ!」
その鋭い矢は正確無比に健吾の胸を貫き、体をすっぽりと通し去った。
「ゲッ……」
健吾は苦悶の呻きを漏らした。信じられないといった表情で胸に刺さった血の滴る矢を眺め、口からは大量の血が噴き出した。
「ケンゴーー!!」佐藤美咲は悲痛な叫び声を上げた。
健吾は命の最後の力を振り絞り、佐藤美咲を力いっぱい突き飛ばした。
「行け……」
体がぐらりと揺れ、よろめきながら後ろへ倒れ、冷たい線路の上に横たわった。
大きく口を開け、瞳は焦点を失い、唇が小さく震えながら、最後の言葉を吐き出した。
「早く……逃げろ……」
そう言うと、彼の頭は力なく垂れ下がった。
葉山雅子は猛然と顔を上げ、手に持つ灯油ランプを鋭い矢の飛来方向へと向けた。すると、前方の濃い霧の中に、巨大で歪んだ人影がぼんやりと浮かび上がる。
それは人間ではない。
その姿は身長二メートルを超え、輪郭は霧の中で次々と形を変え、無数の触手と影が絡み合った集合体のようにも見えた。厚い霧の奥深くに潜み、忍耐強い狩人さながら獲物をじっと観察し、次の致命的な一撃を狙っているかのようだ。
葉山雅子はその姿を目にして、魂の底から震えが全身に走った。
「逃げろ!」未知の存在を前にして、それが唯一の選択肢だと悟った雅子は、佐藤美咲の手首をつかんだ。
「行くぞ!早くこの場を離れろ!」
全身に力を込めて、地面に崩れ落ちた美咲を引き起こし、濃い霧のない暗闇へと必死に引っ張っていった。
佐藤美咲はよろめきながら雅子に引っぱられ、涙で霞む視界のまま、健吾が倒れた場所へと振り返った。
見ると、健吾の遺体の皮膚は見る間にひび割れ、剥がれ落ち、ほんの数秒の間に、全身が細かな砂礫へと変わってしまった。
その死に方は、列車の車掌や車内の老人たちとまったく同じだ。やはり、あの霧の中の怪物こそがすべての原因だったのだ!
冷たい風が吹き抜け、砂礫と化した“健吾”のかけらは、襲いかかる濃い霧に一瞬でさらわれ、跡形もなく消え去った。残されたのは、土の中にぽつんと突き刺さった黒い矢だけだ。
「嫌だーー!!」健吾の遺体が風に散っていくのを泣き叫びながら見つめる美咲。一方の雅子は、それを聞いても表情ひとつ変えず、ただ彼女の手をしっかりと握り、果てしない闇の中を一心不乱に走り続けた。
「ハァ……ハァ……」
葉山雅子と佐藤美咲は闇の中を懸命に逃げ、口からは荒い息が絶え間なく漏れる。雅子の手に握られた古い灯油ランプが、広がる闇の中で唯一の光となった。疾走するたびに炎は激しく揺らぎ、淡い光の輪が二人の青ざめた顔に映り、恐怖が影のように目の奥へと広がっていく。
背後からは怪物のうなり声が絶え間なく響き、佐藤美咲は思わず振り返って、追いつかれているかどうか確かめてしまう。
背後では濃い霧が渦巻き、怪物はその奥に身を潜めて、孤立した二人の獲物をじっと狙っている。死神に追い立てられるような圧迫感に、背筋は凍りつき、神経は限界まで張りつめてしまった。
「振り返るな!走れ!」雅子が息を切らしながら注意を促した。
その指示を受けて、佐藤美咲はすぐに顔を前方へ戻した。だがその瞬間、彼女は線路脇の小石につまずき、バランスを崩してしまい、冷たい枕木の上へと転びそうになった。
「あっ!」と美咲が叫んだ。
「気を付けろ!」葉山雅子は素早く腕を伸ばし、腰を支えて彼女を引き起こし、転倒を防いだ。
「止まるな!」雅子は低い声で叱りつけた。「健吾が命と引き換えにくれた逃げるチャンスを、絶対に無駄にするんじゃない!」
「健吾……」その名を聞いて、佐藤美咲は力強くうなずいた。
雅子の言うとおりだ。健吾は命を賭けて二人に逃げ道を与えてくれたのだから、その犠牲を決して無駄にしてはならない。
「健吾に絶対に恩を仇で返すわけにはいかない!!」佐藤美咲は心の中で思った。
彼女は唇を噛み締めて自分を奮い立たせようとし、体勢を整えて再び足を踏み出し、雅子の後を追って走り続けた。




