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虚界少女  作者: sara
迷雾
72/102

駅

時刻はすでに深夜十一時四十分。街の喧騒もすっかり引いて、あたりには静けさだけが広がっていた。


葉山雅子はひとり、電車の駅のホームに立っていた。


凍てつくような冷たい風が、襟元の隙間から中に忍び込み、まるで鋭利な小刀のように彼女の肌を切り裂いていた。彼女はとっさに首をすくめ、両手でコートの襟をぎゅっと握りしめ、マスクをさらに引き上げて、そのわずかな布地で骨まで染み渡る寒気を少しでも防ごうとした。


最近は原因不明の寒波がやって来ているらしく、四月だというのにこんな極端な天候になるなんて、やはり普通ではない。


「寒い……」と雅子は小さくつぶやいた。


彼女にとって、この寒さは外からのものだけではなく、内側からも押し寄せてくる。最近、勤める大手広告会社がまた新しい案件を受注し、プロジェクトのチーフデザイナーである彼女は、夜遅くまで残業するのが日常茶飯事だった。


今の彼女は、心身ともに疲れ切っていた。


腕時計を上げ、ホームの薄暗い灯りで針をひと目見る。終電が入ってくるまで、あと二分。


バッグからスマホを取り出し、少しこわばった指先で画面を叩き、兄の葉山隼人にメッセージを送った。


「兄さん、仕事終わりました。今、電車待ってるところ。あと四十分くらいで着くから、駅迎えに来てもらえますか?」


最近のニュースは穏やかではない。テレビもネットも、「謎の失踪事件」の報道で持ちきりだ。警察は全力で捜査中だと繰り返しているが、まだ具体的な進展は何もない。


そんな未知の恐怖が、夜更けに帰路につく人々の胸を重く覆っている。それでも会社は、彼女に夜遅くまで残らせていた。


「本当に悪しき資本主義だわ!」と葉山雅子は内心で毒づいた。


「ピロン」と通知音が鳴り、すぐに画面が明るくなる。


「了解。すぐ行く。うろつかないで、安全第一な」――短い返信だった。


それを見た瞬間、ずっと張りつめていた雅子の心はようやく少し落ち着いた。葉山隼人は普段口数こそ少ないが、一度約束したことは必ず守る男だ。


そのとき、遠く暗い線路の果てから、低く重い轟音が聞こえてきた。


「ゴロゴロ……」


真っ黒な闇を切り裂くように、二本の白い光柱が現れ、金属が軋む甲高い音とともに、列車がゆっくりとホームへ滑り込んできた。


停車すると、ドアが「スッと」両側へ開き、内部の明るい車内が姿を現した。


葉山雅子は重い足取りで車内へと歩を進め、暖房の効いた空気に触れると、凍えかけていた体がほっと和らいだ。


乗客はほとんどおらず、雅子は窓際の席に腰を下ろすと、公文書鞄を抱きしめ、まるで抱き枕でも抱いているかのように頬を押しつけた。


いつもの癖で周囲をざっと眺める。


この時間の車内に残っているのは、やはり彼女と同じく、都会で夜遅くまで働き続ける“社畜”たちばかりだ。


左手前方には、濃いグレーのスーツを着た中年のサラリーマンが座っていた。髪は乱れ、ネクタイは半分ほどほどけて、斜めに首に垂れ下がっている。彼は俯き加減で、血走った目をしており、全身から力が抜けきってしまったかのようだった。


右側のベンチには若いカップルが並んでいた。男子は椅子に座ってTikTokをスクロールし、自分のネットの世界に没頭している。女子は男子の肩にもたれ、浅い眠りに落ちていた。


そして、車内のいちばん隅の席には、古ぼけた帽子を被った老人がひとり、ひっそりと座っていた。


褪せた普段着をまとい、帽子のつばを深く下げて顔をすっぽり隠している。両手を膝の上で組み、微動だにせず、まるで彫刻のような佇まいだ。


その不気味な静けさに、雅子は一瞥しただけでなぜか胸がざわつき、居心地の悪さを感じた。とはいえ、老人の胸はわずかに上下しており、呼吸はあるから、ただ眠っているだけなのだろう。


「疲れてるだけかな……」と自分に言い聞かせる。


列車は「ピッ」と電子音を響かせ、ドアが静かに閉じた。軽い振動とともに発車し、車輪とレールが規則正しく擦れる「カン、カン」という音が静寂の車内に反響し、まるで催眠曲のように響いた。


雅子は、窓の外を疾走する景色と、ちらほらと過ぎ去る街灯を眺めながら、次第に睡魔が押し寄せ始めた。瞼がどんどん重くなり、そろそろ目を閉じてひとやすみしようとしたそのとき――


「リンリンリンッ!!!」


鋭く急迫した電話のベルが、何の前触れもなく車内に炸裂した。


突然の音にビクッと跳ね上がり、眠気は一瞬で半分以上吹き飛んだ。男子の肩にもたれて居眠りしていた女子も眉をひそめ、不満げに声の主へ視線を向けた。


音の出どころは、あのサラリーマンの公文書鞄の中だ。


男もさすがに驚いたらしく、あわてて鞄からスマホを取り出し、発信者を確認した。


その瞬間、雅子ははっきり見た。男の瞳孔がぐっと縮み、疲れた表情が一瞬にして恐れに変わる。まるで画面に映ったのが人の名前ではなく、命を狙う鬼の顔のように見えたのだ。


数秒固まった後、彼は結局通話ボタンを押した。


「は、はい……社長ですか?」声は怯えで震えている。


ハンズフリーにしていないのに、静まり返った車内で相手の怒号はくっきりと聞こえた。荒々しい男性の声が、耳障りな罵倒や詰問を交えて浴びせられる。


「バカか! あの案は何だ! こんなもので顧客が納得すると思うのか? 会社を潰す気か!」


「わ、わかりました……社長……私のミスです……」と男は必死に謝罪する。


「今の若いやつは責任感がない! 今どこにいる? どこにいようと、すぐに直せ! 今すぐだ!」


男の額には瞬く間に細かい冷汗が滲み、青ざめた頬を伝って流れ落ちる。周囲の好奇の視線も気にせず、宙に向けて何度も謝りつつ、片方の頭と肩でスマホを挟み、携帯用のメモ帳とボールペンを取り出して、社長の修正指示を書き留めた。


通話を切ると、男は銀色のMacBookを鞄から引っ張り出した。それを膝に乗せるでもなく、そのまま自分の座席の上に置き、床にひざまずいて、指を狂ったようにキーボードに打ち込む。


車内に響く打鍵音と、次第に激しくなる息遣いが、聞く者の胸をざわつかせる。


画面の冷たい光に照らされ、男の顔は紙のように青ざめ、来週提出予定の案を狂ったように削ったり書き直したりしている。まさに憑りつかれたような様子だ。


葉山雅子はその男を見て、ある種の同情を覚えた。自分の上司も短気だから、彼の気持ちが痛いほどわかるのだ。


起こされた女子は、文句を言おうとした口も飲み込み、再び恋人の肩にもたれて目を閉じた。


ただ、隅の老人だけは相変わらず俯き、帽子のつばが顔を隠したまま、周囲の出来事などまるで無関心といった様子で、姿勢ひとつ変えなかった。


「この街、残酷だな」と雅子は思った。


雅子はもうその可哀想な男からは目を逸らし、窓の外へ向き直った。次々と後方に流れる景色で気を紛らわせようとする。


窓の向こうには都市の夜景がゆらめき、遠くのオフィスビル群はまだ煌々と灯りを放っている。明かりの点いた窓の向こうでは、どれほどの人が同じ苦悩を繰り返しながら職場にいることだろう。


ふと、ガラスに映る揺らめく影の中に、黒い何かが列車の脇を一瞬よぎるのを見た。


あれは……何だ?


鳥? 違う、列車の速度が速すぎる。


気のせいだろうか?


雅子はその影に驚き、思わず窓に顔を近づけて、車窓から進行方向の背後をのぞき込んだ。


しかし、視界に広がるのは漆黒の夜ばかりで、他には何も見えない。


「やっぱり疲れてるのかな、幻覚まで見ちゃうなんて」と自嘲的に笑った。


そのとき、列車は真っ暗なトンネルへと吸い込まれていった。


これまで見えていた街灯も建物も一瞬で消え、代わりに果てしない闇が広がる。列車の轟音もずっしりと鈍くなった。


雅子はハッとした。


「どうして……?」


この通勤路線にはもう三年も乗っている。会社から家までの道のりはいつも高架橋か地上を走っていて、トンネルなんか通らないはずだ!


「帰りの電車にトンネルはないはずなのに……」と胸の中で叫び、強い不安が全身を襲った。


そのとき、車内の照明がぱちぱちと幾度か点滅し、「ジジッ」と嫌な音を立てて、ついに完全に消えてしまった。


闇が一瞬で車内を飲み込み、すべてを包み込んだ。


「きゃっ!」


誰かが短く悲鳴を上げた。


雅子はシートの肘掛けを強く握りしめ、闇の中で聞こえるのは、列車の車輪がレールを転がる低い轟音だけ――


違う!


さっきまでキーボードを叩いていたサラリーマンの音が、消えている。


数秒後、いや、もっと時間が経っていたかもしれない。天井の非常灯が何度か点滅し、ようやく再点灯した。以前よりかなり薄暗い光だが、とりあえず周囲の様子は見える。


雅子はまず辺りを見回した。


次の瞬間、全身に冷たい震えが走った。


さっきまで床にひざまずいて狂ったようにキーボードを叩いていたあのサラリーマンが、いつの間にか消えている。


彼が跪いていた場所は空っぽで、座席の上には銀色のMacBookが開いたまま。画面は仄かに白く光り、ドキュメントのカーソルはなおも点滅し、まるで主人が次の文字を打つのを待っているかのようだ。


けれども、主人はもうどこにもいない。


ドアが開いた音も、足音も、悲鳴さえもない。生身の人間が、ほんの一瞬の闇の中で、まるで煙のように消えてしまったのだ。

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