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虚界少女  作者: sara
復生の影
71/102

新生

朝、三森歌月はベッドから目を覚ました。まだ少し腫れている目元をこすりながら、ゆっくりと身を起こした。


天城由美が亡くなってから、もう七日が経っていた。


あの日、診察室で由美の冷たくなっていく体を抱きしめたときから、彼女の心の中にはぽっかりと大きな穴が開いたような気がしていた。


この七日間、食事もろくに取れず、眠りも浅い日々が続いた。


隣には小さなクマのぬいぐるみが置かれている。これは数日前、天城由美がクレーンゲームでゲットしたものだ。最近では、このクマを抱えてやっと眠りにつけるほどだった。


歌月はそっとクマを手に取り、ベッドから下りて、枕もとの化粧台へと歩み寄る。そして、ぬいぐるみをその一角にそっと置いた。そこには二人の写真も飾られている――ショッピングモールのプリントシール機で撮ったものだ。


由美に関わるものはすべて、彼女は丁寧にその隅にしまっていった。それらは、二人のいちばん大切な思い出を宿しているのだ。


写真の中の由美は、まるで今もすぐそばでぺちゃくちゃおしゃべりをしているかのように、まぶしいほどに笑っていた。けれど今は、物はそこにあっても人はいない。ただ一人、彼女だけが“遺品”を前にぼんやりと立ち尽くしている。


三森歌月は足を引きずるようにリビングへと出て、壁の電子時計を見やった。表示は八時三十分――いつもなら、すでに洗顔も済ませ、朝食も終えて、クリニックへ向かう時間だ。


でも今日は休日。院長は由美のことを知り、悲しみを癒やすため、特別に数日の休暇を認めてくれたのだ。


とはいえ、今日で休みも終わり。明日からはまた、いつもの日常に戻らなければならない。


三森歌月は無表情のままリビングのクローゼットへと歩み寄り、服を何枚か手に取ってバスルームで着替え、軽く薄化粧をして髪をざっと整え、バッグを手にしてそのまま玄関へと出た。


今日は天城由美の勤務先である病院へ行ってみようと思った。先日の追悼式で、院長は由美を記念するさまざまな催しを開くと述べていたからだ。その準備がどうなっているのか、一度確かめたい。


通りの両側に並ぶ桜は、いつの間にかまた静かに花開いていた。


早咲きの季節は過ぎ去り、代わりに遅咲きの桜がいっそう華やかに咲き誇っている。彼女は、もう見慣れて仕方がないほど通い慣れた道を、ひたすら歩き続けた。馴染みの交差点を抜け、二人でよく立ち寄ったあのショッピングモールを回り込み、やがてついに、天城由美が生涯をささげた場所――聖マーガレット病院の前に立った。


病院の入り口に佇み、何度も出入りした自動ガラスドアを見つめる。足はわずかに躊躇した。七日前の別れはあまりにもあっけなく、そしてあまりにも残酷だった。


伝えそびれた言葉が、胸の奥底にいくつも詰まったままになっている。過去への赦しも、最後の挨拶も、いまではただ重く心にのしかかるばかりだ。


三森歌月は複雑な思いを抱えながら、病院の建物を見つめ、ゆっくりとガラスドアを押し開けた。


ロビーは相変わらず人の往来で賑わい、ナースステーションでは看護師たちが忙しく行き来している。彼女は慣れた足取りでホールを抜け、天城由美が生前使っていた診察室へとまっすぐに向かった。


ドアは半開きになっていた。


歌月はそっと扉を押した。中は誰もおらず、予想どおりの静けさ。机の上にはうっすらと埃が積もっている。


窓辺では、由美が育てていた幾つかの花が、まるで主人の息づかいを受け継ぐかのように、なおも元気に咲き誇り、陽光に向かって伸びていた。


ぼんやりと眺めていると、背後から突然声が聞こえた。


「歌月さん? どうしていらしたんですか?」


緒方花音が清掃用具一式を手に、驚いた様子でドアのそばに立っていた。


「……由美に会いに来たの」と、三森歌月は少し呆けたように答える。そして体をよけて、花音が入って来られるよう道を空けた。


花音は特に何も聞かずに、道具箱を手に部屋へと入った。小さな掃除セットを床に置くと、今度は繊細な小型の散水器を取り出し、花々に水を注ぎ始めた。さらに清潔な布を一枚手に取り、水で湿らせては、机の上の埃を丁寧に拭き取っていく。


「由美のオフィス、ずっとあなたが手入れしてくれていたの?」真剣な姿を見て、歌月は思わず尋ねた。


花音は手を止めて、小さく頷いた。「院長に許可をもらって、毎日一度は片付けに来ています」


再び拭き作業に戻りながら、彼女はこう付け加えた。「天城先生の部屋は、院長が永久保存すると宣言しました。これ以上荒れるのを、黙って見過ごすわけにはいかないんです」


花音の言葉に、歌月の目頭がじわりと熱くなった。ただ、以前のような切なさではなく、胸の中にほんのり温かなものが広がるのを感じた。


彼女は花音の道具箱からもう一枚の布を取り、「一緒に拭きましょう」と言った。


「えっ、でも……」


「二人なら早いですし、あなたは患者さんの世話もしなきゃいけませんよね」


こうして二人は、狭い診察室の中で息の合った掃除を始めた。片方は書棚を、もう片方は医学雑誌や論文を整理していく。


ほどなく、二人の共同作業によって、室内は昔日の清潔さを取り戻した。机の上の埃はきれいに拭き取り、雑誌や新聞も棚の上で整然と並べられた。


歌月は窓辺へと歩み寄り、窓を開ける。朝の光が一気に流れ込み、部屋全体がふたたび生き生きとした輝きを取り戻した。


「由美がこんな風景を見たら、きっと喜ぶでしょうね」と、歌月はそっと呟いた。


「ええ、きっと」と、花音もそっと傍らに寄り添いながら頷いた。


二人は肩を並べて窓の外を眺め、階下の庭先で少しずつ増え始める患者や家族たちを目にした。


ふと花音が横を向き、歌月に語りかけた。


「歌月さん、聞いたことがあるんです。誰もが人の記憶の中に光を残すって。私たちが天城先生を覚えている限り、決して消えないんだって」


花音がその言葉を耳にしたのは、宮野鞠子という患者の家族からだった。天城先生が亡くなってからの七日間、彼女も歌月と同じようにぼんやりとして、仕事どころではなくなってしまった。ある日、ふと先生のことが頭に浮かび、病院の廊下でひとり泣いていた。


それを宮野鞠子が見かけて、こう教えてくれたのだ。花音はその少女がどんな経験をしたのか知らないが、自分と同じように何かを失ったことがあるからこそ、こんな優しい言葉を紡ぎ出せたのだろうと感じた。


歌月はそれを聞き、自分よりずっと年下の少女をふと見やった。生死と別れを経験して、どこかひと回り大人になった気がする。


「そうね。私たちが覚えてさえいれば、先生はいつだってそばにいるのよ」と、歌月はこの七日間で初めての微笑みを浮かべた。


天城由美についてさらにおしゃべりをしたあと、花音と歌月は診察室を後にした。二人が去った直後、廊下の向こう側から足音が近づいてきた。


真島美嘉子が、新しく就職したばかりの研修医二人を連れて、天城由美のオフィスの前に立った。彼女は足を止め、厳粛な面持ちで扉を見つめた。


「ここが、天城由美先生の執務室です。生前、先生が働いていた場所であり、私たち全員に残された贈り物なのです」と、好奇心いっぱいの若い研修医たちに語りかける。


真島は「天城由美」と書かれたプレートを見上げ、懐かしさを込めて続けた。


「先生はよく言っていました。医者の役割とは、病気を治すことだけではなく、人の心を守ることなのだと……」


真島は師匠・天城由美の思い出を一つひとつ丁寧に語り始めた。奇跡を生み出したエピソードも、学生を厳しく指導した日々も――二人の研修医は、まるで遠い伝説でも聞くかのように、一心に耳を傾けた。話を聞き終えると、彼らは憧れの眼差しで診察室を見つめ、心を奪われた。


真島は二人の瞳に宿る輝きを見て、かつての自分と同じ夢に満ちた姿を重ね合わせた。


彼女は二人を促すように歩みを進め、「将来どんな局面に立たされても、医者の原点を忘れず、迷わないでいてほしい」と諭した。


研修医たちは力強くうなずき、その思いを胸の奥深く刻み込んだ。


続いて真島は、病院のロビーに新設された展示パネルへと二人を案内した。今のところ、パネルはまだ何もない。唯一、天城由美の写真と「天城賞」の文字だけが最上部に掲げられている。


「毎年の天城賞は、『医者仁心』という四文字の真意を真正に理解した医師に贈られます」と、真島は説明した。


研修医の一人が空っぽのパネルを不思議そうに見つめ、「では、この賞はいつから授与されるのですか?」と尋ねた。


真島はパネルに掲げられた師の写真をじっと見つめ、「天城賞の選考は、毎年天城先生の誕生日から始まります」と答えた。


二人の研修医は、未来の受賞者用に空けられたスペースを眺め、自分の写真がそこに載る姿を思い描いた。


真島はそんな期待を読み取り、「いずれその場所は、あなたたちの誰かのものになるかもしれません。でも忘れないでください。栄誉はゴールではなく、受け継ぐためのスタートラインなのです」と告げた。


二人の研修医は顔を見合わせ、同時に「はい、頑張ります」と応えた。


「それはよかった」と、真島は安堵の笑みを浮かべた。そして天城由美の写真を見つめ、心の中でつぶやいた。「天城先生、あなたの偉業がまた若い医師たちを勇気づけましたね」


真島は二人の若き研修医を連れて、次の目的地へと向かった。


一方、三森歌月は病院を出て、東京・上野公園へとやって来た。


ここでは、桜が見事に咲き誇っていた。早咲きの季節は完全に終わり、遅咲きの桜がひっそりと花開き、早咲きよりもいっそう華やかに、ピンクと白の花弁を暖かな春風に揺らしながら、一面のピンク色の海のように広がっていた。


歌月は空を見上げ、天を覆うほどの花の海を仰ぎ見た。そしてゆっくりとポケットから、天城由美と撮った写真を取り出した。


「由美、見て。また桜が咲いたわ」と、写真に向かって囁いた。


写真の中の天城由美は、相変わらず優しい笑顔を浮かべている。


そのとき、ふいに風が吹き、薄い紙片をそっと持ち上げた。歌月が思わず手を離すと、写真は風に乗って遠くへと舞い去ってしまった。


「あっ!」


写真は風に翻られ、やがて花見に興じる若い夫婦の足元へと落ちた。


男性が何かが飛んでくるのに気づき、屈んで拾い上げると、写真の人物が目に飛び込んできた瞬間、思わずつぶやいた。「あれ? これは天城先生の写真じゃないか」


歌月が急いで駆け寄り、「ごめんなさい、私のものです」と必死に訴えた。


夫婦は写真と、悲しそうな表情の女性を交互に見つめ、やがて写真の中の天城由美の隣にいるのが目の前の女性だと気づいた。彼らは優しく写真を返してくれる。


「天城先生のお友達ですか?」と、妊娠中の妻がそっと尋ねた。


「ええ」と、歌月は写真を撫でながら、慎重にポケットへとしまい直した。「彼女は私にとって、いちばん大切な人なんです」


「あなたたちも由美さんをご存知なのですか?」と、歌月が問い返した。


「私たちは病院の玄関先で天城先生と出会いました」と、夫の谷村智也が振り返った。「当時、私たちはお腹の赤ちゃんを産むべきかどうか、とても迷っていました。いくつかの理由で、どうしても踏み切れなかったんです」


「そのとき、天城先生が通りかかってくださったんです」と、妻の小野友里が続ける。「親切に私たちを励まし、人生の意味は感じること、そして期待することにあるのだと教えてくださいました。この子と一緒に世界を感じてほしい、と。先生の言葉に、私たちの親になる決意が固まったんです」


歌月はそれを聞き、目頭がじわりと熱くなった。


「由美は、いつもそうでした。どんな命にも、いちばん優しいまなざしを注いで、大小問わず宝物のように大切に扱ってくれた。なのに、彼女自身は……」


歌月は声を詰まらせ、これ以上は語りたくない様子だった。夫婦もまた、胸に込み上げる悲しみを抑えきれなかった。


小野友里はすでに大きく膨らんだお腹を優しく撫でながら、小さな声で言った。「天城先生は、新しい命はみんな未来の光だと教えてくれました。その希望を信じることを、私たちに教えてくれたんです」


「だから」と、彼女は夫と顔を見合わせて微笑みながら、「智也と私は、この子の名前を『谷村由美』に決めました」


三森歌月は一瞬、言葉を失った。


小野友里はさらに微笑みながら続けた。「性別はまだわかりませんが、なんとなく、健康で優しい女の子になりそうな気がしています。天城先生の優しさと慈愛を受け継ぎ、同じように周りを照らせる存在になってほしい――そんな願いを込めました」


谷村智也も傍らで補足した。「私たちの夢は、この子が天城先生のような人間に育ってほしいということです」


三森歌月は、新たな命を宿す小野友里の腹部を見つめ、とうとう涙を零しながらも、口元にはかすかな微笑みを浮かべた。


「由美は、きっと喜んでくれるでしょう」


「あの」と、小野友里が歌月の手を引いて誘った。「私たちは毎年、このあたりで桜を見に来ます。そのときは子どもも連れてきます。ぜひ桜の季節に、一緒に先生を偲んでいただけませんか」


「もちろん、楽しみにしています」


その後、谷村智也が小野友里を支えながら、三森歌月に別れを告げ、桜の林の奥へと静かに消えていった。春風が再び吹き、桜の花びらがさらさらと舞い落ち、まるで優しい雨が降るかのようだった。


歌月は二人の遠ざかる背中を見送りつつ、遥か彼方の桜の雨にも視線を向けた。淡いピンクと白の光の粒の中で、彼女は多年の歳月を越え、同じ桜の木の下で親友を懐かしむ自分の姿を、ふと見てしまった。


そのとき、遠くから元気いっぱいの小さな女の子が駆け寄ってきた。彼女は歌月の前に立ち、可愛らしい声でこう告げた。


「お姉さん、こんにちは。わたしの名前は谷村由美です」


笑顔は甘く、その姿は写真の中の天城由美と驚くほど似ていた。


けれど歌月は知っていた。もちろん、それは由美ではない。


でも、本当に由美ではないのだろうか?

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