救贖
病院の特別病棟上階の広いホールで、蕭珊雅は医師の指示に従い、定期健診のために訪れていた。
あの遠山凛という少女は、いったい何者だったのか。自分と彼女の間には、どんな過去があったのか――そうした疑問は、依然として答えを見つけていないままだった。
彼女は医師に、記憶の欠落があることを打ち明けていたが、その原因については、脳への打撃が残した後遺症だろうと推測されただけで、時間の経過とともに徐々に回復するはずだと言われた。
レポートを手に取り、失われた記憶の行方を思い巡らせていると、突然、喉元に襲いかかるような窒息感が走った。
喘息の発作だと悟った瞬間、急いでポケットから救急用の吸入器を取り出したが、中身はとうに空になっていることに気づき、絶望した。
激しい酸素不足に襲われ、視界が一瞬真っ暗になり、意識はたちまち途切れ、彼女は静かな廊下にそのまま気を失って倒れてしまった。
再び目を覚ましたとき、彼女は静かな診察室のベッドに横たわっていた。優しそうな女性の医師が、穏やかに微笑みながらこちらを見つめている。
「お目覚めですか? 体調はどうですか?」看護師が柔らかな声で尋ねた。「さっき廊下で突然倒れてしまってね。幸い天城先生がすぐに見つけて、ここへ運んでくれたんですよ」
「天城先生……?」その名前に、蕭珊雅は少し戸惑った。
言葉が終わるや否や、診察室のドアが開き、天城由美が入ってきた。
彼女は蕭珊雅の顔色をひと瞥すると、厳しい口調で告げた。
「あなたの状態はかなり悪い。喘息もすでに非常に深刻な段階です。すぐに病院に入院して、本格的な治療を受けたほうがいい」
「無理です」蕭珊雅は即座に身を起こし、考えもせずに断った。「まだやらなければならない大事なことがあるんです。こんなところで時間を無駄にするわけにはいきません」
布団をはねのけ、ベッドから降りようとした。
しかし天城由美は一歩前に出て、彼女の行く手を遮り、まっすぐ目を見据えて言った。
「あなたにとって、その『やらなければならないこと』は、自分の命よりも大切なのですか?」
蕭珊雅はその問いに一瞬たじろぎ、何も答えられなかった。
さらに天城由美は、まるで魂を揺さぶるような鋭さでこう畳みかけた。
「死ぬのが怖くないのですか?」
死……もちろん怖い。
だが、母を殺し、姉をさらった犯人をまだ見つけられていない。二人の仇も討っていないし、行方不明の姫玥もまだ探し当てていない。そんな状態で、どうして死ねるだろう?
けれども、そんな私的な憎しみなど、どうして他人に口にできるだろう? ましてや、もし口にしてしまえば、あの謎の力によって記憶ごと消されてしまうのだ。
彼女の迷いは、天城由美の目にすべて見透かされていた。
天城由美は、どこか自嘲気味な笑みを浮かべて言った。
「あなたは迷いましたね。つまり、やっぱり死ぬのは怖いのでしょう。人は誰でも死を恐れるからこそ、必死で生きるんです」
それは、かつて遠山凛が口にし、彼女の人生を変えたあの言葉そのものだった。
彼女は新しい吸入器と薬の箱を蕭珊雅の手にそっと渡し、続けた。
「これを持っていきなさい。私はあなたの決断に口出しする権利はありませんが、どんなにどうしてもやらなければならないことがあっても、まずは生きていてこそ話は続くのです。
生きていなければ、その後のことは何も考えられません」
薬を握りしめ、複雑な表情を浮かべる医師を見つめながら、蕭珊雅は黙ってうなずき、診察室を後にした。
病院の廊下を歩きながら、頭の中にはまだあの言葉が響いていた――「人は誰でも死を恐れるからこそ、必死で生きるんだ」と。
ふと、隣の病室の周りに看護師たちが集まり、室内からは激しい言い争いの声が聞こえてくるのに気がついた。ナースステーションの主任が、ベッドに横たわる少女を懸命に説得しているところだ。
「東郷さん、お願いですから、少しでも食べてください!」
「もう放っておいてって言ってるでしょ! もう治療なんてしたくないの! 一人にしてちょうだい!」
その少女こそ、東郷天美だった。
わがままに満ちた絶望の言葉を耳にし、蕭珊雅の胸の中で、なぜか怒りがグッと込み上げてきた。
その炎がどこから湧き上がってきたのか、自分でもよくわからない。まるで見えない糸に引かれるように、彼女はドアを押し開けて部屋へと踏み込んだ。
「どうしてそんなに勝手なことを言うの!」冷たい声で言い放つ。
「あなた、誰よ?」東郷天美は苛立たしげに彼女を睨み、「最近うちの病室には、妙な人がやたらと来るのよね」とぼやいた。
「私が誰かなんてどうでもいい。問題は、あなたがどうしてこんなに主任さんを困らせているのかということよ」と蕭珊雅はベッドのそばへ歩み寄り、ほとんど手つかずの食事をちらりと見てから、東郷に向き直った。
「患者なら患者らしく、看護師や医師の言うことを素直に聞くべきじゃないの」
「もうどうだっていいのよ!」東郷は自暴自棄になって叫んだ。「もう生きていたくもない。こんなにたくさんの人に迷惑をかけてきたのに、これ以上は本当に無理なの」
それを聞いて、蕭珊雅はふいに問い返した。
「あなた、死ぬのは怖くないの?」
東郷天美は、まさか自分が第三者にそんな質問をされるとは思わず、一瞬言葉に詰まった。いつも相手を問い詰める側だった彼女は、逆に問われるとは夢にも思わなかったし、そもそもこの問いについて考えたこともなかった。
「私……もちろん……怖く……ないわ……」しどろもどろに答えた。
蕭珊雅はさらに追い打ちをかけるように、冷徹とも言える論理で分析した。
「あなたは迷った。つまり、やっぱり死ぬのは怖いのよ。本当に死を恐れない人間なら、迷ったりしないし、ましてやあなたみたいに大声で騒いで、内心の恐怖をごまかそうなんてしないでしょう」
「じゃあ、あなたは? 死ぬのは怖くないの?」
「もちろん怖い。でも、だからこそ、必死で生きるのよ」
東郷は肩を落とし、小さく呟いた。
「まったく、数日前にも変な人が来て、あなたとそっくり同じことを言ってたわ」
蕭珊雅は、彼女が天城由美のことを言っているのだと思い込み、つい弁護してしまう。
「天城先生は変な人なんかじゃない。ただ、あなたのことを心配しているだけよ」
「天城先生はそんなこと言ってないわ」と東郷は顔を上げ、思い出しながら言った。
「でも、あの変な人が話してるとき、ちょうど天城先生がそばで聞いてたのよ」
「天城先生じゃないの? じゃあ、誰が言ったの?」蕭珊雅が食い下がると、
「さあ、知らないわ」と東郷は唇を尖らせて答えた。「とにかく、あなたと同じ、変な人だったってことだけ」
「ちょっと、彼女と二人だけで話させてくれない?」東郷天美が、そばにいる看護師たちに唐突に切り出した。
「それは……」看護師は困惑した。患者と見知らぬ人を二人きりにするのは、やはり適切ではない。
「まあ、それなら東郷さんとしばらく話してきてください」と主任が蕭珊雅の肩を軽く叩いて言った。
「では、私たちも失礼しますね」と主任は他の看護師たちを促し、部屋をあとにした。
ベッドに横たわる東郷天美は、ふいに蕭珊雅に振り向いて尋ねた。
「あなた、夢ってある?」
小さなその問いが蕭珊雅の耳に届いたとき、さまざまな出来事を乗り越えてきた彼女も、一瞬答えに窮した。
彼女が心に抱いているのは、姉を探すことや両親の仇を討つことばかりで、それらはどちらかというと目標であって、本当の夢とは言い難い。
東郷天美は蕭珊雅の表情を見て、すでに答えがわかっているかのように感じた。
「あなた、きっと夢なんてないんでしょうね。夢がない人には、今の私の気持ちなんてわかるはずがないわ」と、少しうつろな表情で言った。
「あなたには確かに夢はないかもしれない。でも、少なくとも私たちは似た者同士。どちらも夢を持たない、ただ生きているだけのゾンビみたいな存在よ」と東郷天美は自嘲気味に続けた。
「あなたの言うことは正しいのかもしれない。でも、少なくとも一つだけ、はっきりわかっていることがあるの」
「何が?」
「夢を語れるのは、生きている人間だけよ」と蕭珊雅はゆっくりと言った。
その一言は、診察室の重苦しい空気を切り裂く稲妻のように響いた。
東郷天美はその言葉に衝撃を受け、胸の奥底で何かが大きく揺れた気がした。
蕭珊雅はさらに続けた。
「死にたい人間は、夢なんか考えたりしない。ただ目を閉じて、周囲のすべてを遮断し、一日中叫んだりすることもない」
東郷天美は黙ったまま、胸の中では何とも言えない複雑な感情が渦巻いていた。
蕭珊雅はその心情を見透かすように、なおも語り続けた。
「あなたが本当は生きたいと思っていることは、私もよくわかる。誰かに救ってほしいと願っているし、死やすべてを失うことへの恐怖もある。それでも、口にする『夢』という言葉を捨てられない」
「だからこそ、『夢』を口にしながら、本当は誰かにこの泥沼から抜け出す手助けをしてほしいと願っているのよ……」
「黙って!」東郷天美は突然、震えと怒りを帯びた声で叫んだ。
しかし蕭珊雅は意に介さず、一字一句逃さないように訴え続けた。
「あなたが本当に求めているのは、死ではなく、救いなのよ!」
その言葉は、鋭い刃のように東郷天美の最も秘められた心の奥底へと突き刺さった。見栄のために張り巡らせた虚飾の殻は、蕭珊雅によって容赦なく引き剥がされ、彼女は顔を真っ赤にして、居たたまれない気持ちになった。
一方の蕭珊雅は、鋭い鷹のような眼光で少女を見つめ続け、その圧倒的な視線の前に、東郷天美は屠られる羊のように、もはや抵抗する力を失ってしまった。
それでも頑固な少女は現実を認めようとせず、唇を強く噛み締め、両手を拳に固めて、怒鳴った。
「もう黙って! 夢なんて持たないあなたに、今の私の気持ちがわかるはずがない。ここに立つ資格なんてないのよ! さっさと出て行きなさい!」
突然の騒ぎに、ドアの外で待機していた看護師たちも驚いた。
慌てて部屋へ駆けつけた看護師は、顔を紅潮させ、瞳に悔しさの涙を滲ませた東郷天美を見て、蕭珊雅をそっと引き寄せた。
「ここは静養が必要な場所です。これ以上刺激を与えるわけにはいきません。まずは私と一緒に外へ出てください」
そう言いながら、彼女は蕭珊雅の腕をそっと取って、火薬臭い空気の漂う部屋から静かに連れ出した。ドアが閉まる瞬間、室内の緊迫した空気は少し和らいだが、東郷天美の胸の中では、怒りの炎がなおも燃え盛っていた。
二人が去ったあと、診察室のドアがまたそっと開き、真島が静かに足を踏み入れた。
「あなた、いったい誰? 彼女たちが送り込んだ回し者なの? 言っておくけど、無駄な努力はしないでね!」東郷天美の顔には、まだ怒りの影が色濃く残っていた。
真島は東郷の問いには答えず、ただ静かにドアを閉めると、落ち着いた口調で説明した。
「私は真島美嘉子といいます。誰かに遣わされたわけではありません。あなたに、あるものを聴いてほしくて来ただけです。その後はすぐに立ち去ります」
そう言って彼女は携帯電話を取り出し、再生ボタンをそっとタップした。すると、以前廃墟となった診察室の前でこっそり録音した三森歌月と天城由美の会話が静かに流れ始めた。
昨日、廊下で三森歌月が天城先生を背負って不審な様子で廃墟の診察室へ向かうのを目撃したときから、真島は何か秘密があるに違いないと考え、そっと後をつけ、ドアの隙間から二人の会話をすべて録音していたのだ。
録音の中では、天城由美の声がひどく疲れている。手術の直後なのだろう。やがて、肺腑を引き裂くような激しい咳が十数秒にわたって響き渡った。
咳が止むと、今度は三森歌月の驚きの声と、天城先生の声が続いていた。
「私、一人で少し休ませて。これは誰にも治せない病気なの。誰を呼んでも無駄よ」
「東郷天美の様子を見て。あの子、気性が強くて、しかも悩みが深いの。どうすれば安心して手術を受けさせることが出来るのか、あなたも一緒に考えて」
そのとき、真島美嘉子はそっと身をかがめ、東郷の肩に手を添えて、優しく語りかけた。
「実は、天城先生はずっと重い病気を患っています。その病気は私たちが想像していた以上に深刻なのに、先生は一度も自分自身を諦めず、どの患者さんも決して見捨ててはいませんでした。どんなに疲れていても、最後まで全力を尽くして、みんなを助けてきたのです」
真島の言葉を聞き終えたとき、東郷天美はようやく悟った。これまで天城先生に浴びせ続けてきた厳しさは、どれも鋭い刃となって、すでに傷だらけの医師の心を何度も抉ってきたのだということを。
人はいつだって、自分の痛みだけがいちばんリアルで唯一無二だと信じ、鋭い言葉で次々と他人を傷つける。けれども、口から滑り落ちた一言が、相手の決して見せたくない傷口を深くえぐっているなんて、思いもよらないのだ。




