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虚界少女  作者: sara
復生の影
57/102

印记

青木紗綾は重い足取りで病院のエレベーターホールから歩み出た。その目は血走り、隈が濃く浮かんでいる。


昨夜、天城医師によって花音は一命を取り留めたものの、彼女の第六感はどこか不穏な予兆を告げていた。そのため、この一夜じゅう、彼女はベッドの上で何度も寝返りを打ち、ほとんど眠ることができなかったのだ。


看護ステーションの外へ出ると、中にはすでに大勢の人が集まり、朝の申し送りが始まる寸前だった。


紗綾はこわばった目元を揉み、大きく伸びをして、疲れと眠気を振り払う。身支度を整えてから、ようやく手を伸ばし、看護ステーションのドアを押し開けた。


「おはよう、紗綾」


見知った実習看護師が明るく声をかけてきた。


「あ、おはよう」


「あれ? 花音は?」看護師は首を巡らせて尋ねる。「いつもなら早いのに、まだ姿が見えないわね」


その問いは、紗綾の脆い神経に鋭く突き刺さった。


「あの……」紗綾は口を開いたが、どう答えればいいのかわからない。


そのとき、看護師長が交班記録簿を手に、険しい表情で入室してきた。


「では、全員揃っているみたいだし、朝のミーティングを始めましょう」


「あの、看護師長」と先ほどの実習看護師が手を挙げる。「緒方花音さんがまだ来ていません」


看護師長の顔色は微動だにせず、ただ記録簿をパラリと開き、事務的な口調で告げた。


「緒方花音さんは、ちょっとした事情があって、長期休暇を取っています」


「えっ、長期休暇?」


「何があったの?」


看護師たちの間で小さなざわめきが広がる。


「静かに! では、朝のミーティングを始めます」看護師長が鋭い視線をひと回しして、皆を黙らせた。


例によって今日の業務の指示が続くが、紗綾の耳には一つとして入ってこない。頭の中はただ、「長期休暇」という四文字がぐるぐる回っていた。それは、真実を隠すための病院上層部の方便にすぎない。本当は花音は交通事故に遭い、昨日緊急搬送されて命懸けの救命処置を受けたのだ。


「もしかして、花音は……助からなかったの?」紗綾はなぜかそんな考えに囚われていた。首を振って、その思いを必死に追い払おうとする。


「以上が本日の重点です。これで朝のミーティングを終わります。解散!」


看護師長の号令とともに、看護師たちはそれぞれの持ち場へ散っていった。紗綾もぼんやりと立ち去ろうとしたが、看護師長が肩をポンと叩き、目配せで残るよう合図を送ってきた。


ほどなく、看護ステーションには紗綾と看護師長だけが残された。


「看護師長、私にお呼び立てとは、何かご用件でしょうか?」紗綾は緊張気味に問いかける。


看護師長は咳払いをして、少し複雑そうな表情を見せる。そして低い声で切り出した。


「緒方花音さんのことでね」


紗綾の胸がぎゅっと締めつけられる。「花音は……彼女は、どうなったんですか?」


「天城医師は、まさに奇跡の人だよ」と看護師長は深く息をついて続けた。「緒方花音さんは、天城医師の徹夜にわたる救命治療のおかげで、ずいぶん状態が良くなりました」


「今はもう意識も戻って、ベッドから起き上がれるまでになったんですよ」と看護師長は説明した。


「本当ですか? 意識が戻ったんですか? それなら、本当に良かった……!」その知らせに、紗綾は一瞬で元気を取り戻し、自分の耳を疑うほどだった。


「でもね」と看護師長は話を切り替え、表情を引き締める。「ひとつ、とても奇妙な点があるんです」


「あなたが彼女を運び込んだあの晩、我々も彼女の状態を目にしていました。あれほどの重症の交通事故――内臓損傷に内出血、さらに重度の頭部外傷……。


常識的に考えれば、どんなに腕の立つ天城医師が執刀したとしても、こんな短期間で体が回復するはずがないのです」


紗綾はすぐに悟った。看護師長が自分を残したのは、「緒方花音さんは無事だ」という報告だけが目的ではないのだと。


「緒方花音さんの身体状態はあまりにも異常で、現在の医学的知見をはるかに超えています」と看護師長は厳しく言い放った。「彼女は今、H区の秘密隔離病室で、二十四時間体制の厳重なケアを受けている最中です」


「この件は現時点で最高機密扱いです。あなたは昨夜の第一発見者であり、彼女を搬送した当事者でもありますから、院の方針として、やはりあなたにも伝えておくべきだと判断しました」


「ということは……?」


「緒方花音さんのケアはあなたが引き継ぎます。それに、天童瑞穂さんの今後のケアも、すべてあなたに任せるつもりです。このことはほかの看護師には一切知らせるわけにはいきません。わかってもらえますね?」看護師長は紗綾の目をじっと見据え、固く守秘を求めるように言った。


「わかりました、看護師長。必ず任務を果たします!」


複雑な思いを抱えたまま、紗綾は専用エレベーターでH区の特別隔離病棟へ向かった。ここは病院の極秘エリアで地下二階に位置し、通常の医学では説明できない特殊な症例を監視・観察するためだけに設けられた施設だ。セキュリティレベルは一般病棟とは比べものにならず、入室には虹彩認証と専用キーカードが必要。廊下の両側には死角のない監視カメラが並び、玄関前には二十四時間警備員が張り込んでいる。


紗綾が病棟の入り口に差し掛かると、黒い制服を着た警備員が腰に警棒を下げて立っていた。


彼女を見て、警備員は即座に手を上げて制止のポーズを取る。


「ここは特殊病棟です。用件と権限カードをご提示ください」


「青木紗綾。H区特別ケアチームへの配属が承認済み。患者・緒方花音のケア担当。権限レベルα」


そう告げて、紗綾はポケットから黒いカードを取り出し、警備員に差し出した。受け取った警備員は素早くカード情報を確認する。


「ああ、昨日運び込まれた患者さんのケアですね……少々お待ちください」警備員はカードを紗綾に戻し、背後の虹彩認証装置へ顔を近づける。認証が終わると、両開きの扉がスッと左右に滑って開いた。


「どうぞお入りください」と警備員が手ぶりで促す。


紗綾は軽く会釈して中へ進み、ほどなく緒方花音の病室の前に立った。


権限カードで分厚いドアをスライドさせて室内へと入ると、明るい病室には各種の精密モニターが整然と並んでいた。緒方花音はゆったりとした青白の縞模様の病衣をまとい、特等の隔離病床にひとり静かに横たわっていた。


頭には分厚い包帯が巻かれ、顔色は青白く、虚ろな視線が天井をじっと見つめている。


「花音!」


紗綾はもう我慢できずに、勢いよく花音のベッドへ駆け寄り、力いっぱい抱きしめた。涙が一気に病衣を濡らす。「よかった……花音、無事で本当に良かった……もう……もう二度と会えないのかと思った……」


しかし、彼女が期待していた反応は返ってこなかった。


しばらくすると、冷たい両手がそっと彼女を押しのけた。


「あの……」緒方花音は涙に濡れた見知らぬ少女をきょとんと見つめながら言った。「あなた、誰ですか?」


彼女の声は少し掠れ、どこか遠い響きを帯びていた。


「それから……花音って誰? 私、知らないんですけど」


紗綾の嗚咽がぴたりと止まった。信じられない思いで友人を見つめる。「花音? あなた、何を言ってるの? 私、青木紗綾よ!」


「私の名前は紗綾! あなたのいちばんの親友でしょう!」彼女は友人の肩をつかんで、大きな声で叫んだ。


緒方花音はその勢いに驚いて身を引いた。頭の中でその名前を探そうとするが、何も浮かばない。


首を振って、淡々と答える。


「青木紗綾という友達なんて、覚えていません」


「そんなわけないでしょ!」紗綾は完全に崩れ落ちた。「嘘だよね? 絶対に嘘だよね! 昨日だって、一緒に私の叔母さんを探しに行く約束してたじゃない!」


「あっ!」強く揺さぶられた花音の頭が激しく痛み、強い吐き気が喉元にこみ上げて、激しい嘔吐が始まった。


「花音!」紗綾はようやく感情の暴走から醒め、花音の頭に巻かれた分厚い包帯に目を留めた。そこでようやく状況を理解する。


交通事故に加え、頭部外傷……。


彼女は記憶を失ってしまったのだ!


紗綾は慌てて手を離し、自分自身を落ち着かせる。看護師としての冷静さを取り戻し、そっと友人の背中を撫でて呼吸を整えた。


「ごめんね、ごめんね」と震える声で、それでも相手を慰めようと努める。「ちょっと興奮しちゃったみたい」


弱々しい花音をベッドに導き、丁寧に毛布をかけてやる。


「あの……」紗綾は深く息を吸い込み、すべての悲しみを胸の奥へ押し込め、泣き顔よりも辛い笑みを浮かべた。


「私はあなたの担当看護師、青木紗綾です」


「ごめんなさい。あなたと、私の知り合いの誰かが似ていて、つい勘違いしてしまったみたい」


緒方花音の呼吸が落ち着き、ぽつりと口を開いた。


「そうだったんですね。お世話になります、看護師さん」


記憶喪失という事実を受け入れても、やはり「看護師さん」と呼ばれる言葉は、紗綾の胸を鈍く痛ませた。


「じゃあ……もし何かあったら、このナースコールで呼んでくださいね」


紗綾はポケットから黒い通報装置を取り出し、花音の手元にそっと置いた。これは病院が秘密病棟の患者向けに特別に作らせた緊急通報装置で、特殊な電磁波を発信し、担当看護師のスマート端末に直接連絡が届く仕組みだ。


さらに腕に装着した黒い時計を指差し、こう説明する。


「これが私の専用端末です。コールを押すだけで、すぐにお知らせが届きます」


この黒い時計は通報装置と連動するスマート端末で、病室の生体データをリアルタイムで同期。内部には小型の量子通信チップが埋め込まれており、強力な耐干渉性能を持つため、どんな環境でも確実に通報信号を受信できる。


普段は普通の時計として使えるが、患者からの緊急コールが入ると自動的に暗号化通信モードに切り替わり、病室内のホログラフィック監視システムと接続。看護師はリアルタイムで室内の様子を確認できるのだ。


「わかりました。ありがとうございます、看護師さん」緒方花音は礼を述べ、通報装置を枕元のサイドテーブルにそっと置いた。


「では、特に用件がなければ、失礼しますね」紗綾は早足で病室をあとにし、もう一秒たりとも居続ける勇気がなかった。また感情が抑えきれなくなるのが怖かったのだ。


目の前の親しい友人が、今や距離を置かなければならない患者になっていることが、どうしても信じられなかった。数十メートル歩いたところで、紗綾は力なく壁にもたれかかり、顔を覆って泣き崩れた。


病室内では、緒方花音がひとりベッドに横たわっていた。わずかな痛みを抱える頭を抱えながら、先ほどの出来事をじっくりと思い返す。


「青木紗綾」


彼女は小さくその名を呟いた。なぜだろう、その名を聞くだけで胸が締めつけられるような不安が湧き起こるのか。あの看護師さんが泣いているのを見ると、自分まで涙が出そうになるのはなぜなのか。


彼女は誰で、自分は何者なのだろう?


混乱する思考に沈みかけたそのとき、突然、右手の掌が焼けるような痛みを感じた。訝しがりながら掌を広げると、白い肌の中央に、いつの間にか現れていた奇妙な黄色い印が目に飛び込んだ。


その印は不吉な光を放っていた。


一体、これは何なのか? 文字入れの痕跡だろうか? でも、幼い頃から大人に言われてきた通り、従順で行儀の良い子だったはずの自分が、ヤクザのようなタトゥーなどするはずがない。


ベッドサイドの棚から湿らせた紙タオルを取り出し、掌を一生懸命拭いてみる。だが、黄色い印はびくともしない。まるで皮膚に焼き付いたかのように、根深く残ったままだ。


納得がいかないまま、彼女は身を起こし、頭が少しフラフラする以外は体に痛みもないことに気づいた。隔離病室にある独立洗面台へ行き、印を水道水でしっかり洗い流そうと考えた。


蛇口をひねる。


ところが、バルブから流れ出したのは透明な水ではなく、さらさらとした乾いた砂だった。


「シャッ、シャッ」


金色の砂が次々と蛇口から溢れ出し、白い陶器のシンクに降り積もる。緒方花音はその奇怪な光景に呆然と立ち尽くした。


さらに恐ろしいことに、その砂はすぐに排水管へ流れ込むどころか、シンクの底で蠢き、まるで生き物のように動き始めた。そしてゆっくりと、そこに漢字が形作られていく。


「死」


その文字はシンクの中央で三秒間静止し、やがて排水管へと消えていった。


ようやく、蛇口からは正常な水が流れ出した。


緒方花音はよろめきながら二歩後退し、目の前のシンクと、なおも熱を持ち続ける黄色い印を恐ろしげに見つめた。この瞬間、彼女は冷たい殺意が全身を覆っていることを、はっきりと感じ取った。

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