事故
黄昏時、空はもうすぐ完全に暗くなり、両側の店々もほとんどが閉まっていた。道を行く人もまばらだ。緒方花音は友人の青木紗綾とともに、病院近くの商店街で都竹美緒の到着を待っていた。
あたりはひっそりと静まり返り、緒方花音はふいに背筋が冷たくなるのを感じた。その感覚は、おとといの夜、あのアパートで遭遇したときと同じだった。
「あなたはすでに狙われている。できるだけ人通りの多いところへ逃げて」。彼女は時雨の忠告を胸に刻み、人が集まる場所で都竹美緒を待ち続けた。
だが目の前の店は次々と閉じていき、ちらつくネオンも徐々に消えていく。思わず、彼女は青木紗綾の手をぎゅっと握りしめた。まるで命綱でもつかむかのように。
「花音、いつまで私の手をこんなに強く握ってるの?」と、少し不快そうに青木紗綾が文句を言った。「もう痛くてたまらないわ」
「ちょっと怖いの」と緒方花音は緊張気味に答えた。そして、周囲の暗い路地の入口を何度も気にする。まるで、その影から何かが飛び出してくるのではと恐れているかのようだった。
青木紗綾は足を止め、首をかしげて尋ねた。「いったいどうしたの? 午後からずっと変よ、神経質になって」
「安全第一ってことでしょ」と緒方花音は無理やり笑って説明した。「もし、あくまで“もし”だけど、あの不明失踪事件の容疑者を見かけたら、二人でさっと逃げられるようにって」
「そんなに臆病じゃ困るわ。そんな偶然あるわけないでしょ」と青木紗綾は首を振り、友人の反応がやや過剰だと感じていた。彼女はスマホを取り出し、位置情報アプリで都竹美緒の現在地を確認した。
「焦らないで、従姉はもうすぐそこまで来てるわ」
「じゃあ急いで迎えに行こう!」と緒方花音は、これ以上じっとしていられず、ますます閑散としていくこの場所から一刻も早く離れたい一心だった。
彼女は青木紗綾の手を引いて、早足で歩き出した。その勢いに、紗綾は危うくつまずきそうになった。
「ちょっと、ゆっくりよ!」と紗綾が文句を言う。
しかし花音は聞こえないふりをして、友人を引きずるようにしてさらに急ぎ足で進んだ。彼女は不安げに尋ねた。「ここ、前なの? 紗綾?」
ところが、声を発した瞬間、背後から何の返事も聞こえてこないことに気づいた。答えはない、足音もない。さらには、親しい友のあの話し声すらも。
ハッと振り返ると、そこには誰もいなかった!
長い通りには、彼女ひとりだけがぽつんと立っている。手はまだ前に引くような形のままだったが、その温もりはどこにも残っていなかった。
「紗綾?」
「どうして……」緒方花音の心臓が激しく縮んだ。
慌ててスマホを取り出すと、画面には電波なしの表示。ネット接続のアイコンも、バツ印に変わっていた。
一瞬にして息苦しいほどの恐怖が押し寄せた。彼女は数歩前に出て、大声で叫んだ。「紗綾! 紗綾! どこにいるの?」
しかし広い通りに響くのは、自分の涙交じりの声のこだまだけだった。
「あの犯人はもうあなたを狙ってる」と、ふいに時雨の言葉が脳裏をよぎった。
あの犯人はきっと、すぐ先のどこかに潜んで、二人の様子をじっと観察しているのだ。だとすれば、今自分が紗綾の手を引いて進んだのは、まさに犯人の腕の中に飛び込んでしまったということではないのか?
もし推理が正しければ、ついさっきまで手をつなぎ合っていた紗綾は、すでに犯人に連れ去られてしまったに違いない!
「いやだ――!」
緒方花音はそれ以上考えることを拒んだ。
「紗綾!!」
彼女の胸の中は焦りと自責、そして恐怖が渦巻き、二匹の毒蛇のように理性をむしばみ始めた。彼女は一思いに踵を返し、来た道を必死に駆け戻った。走りながら、悲痛な叫びを上げ続ける。
「紗綾! 紗綾! お願い、返事して!」
走れば走るほど、彼女はますます虚しさと絶望に襲われた。冷たい夜風が喉に吹き込み、口の中は血の味でいっぱいになり、涙で視界はぼやけた。
やがて彼女は交差点の端にたどり着いた。向かいの信号機もすでに消えている。体力は限界に達し、もう走れない。両膝がガクンと折れ、冷たいアスファルトの路上に跪いた。
「頼む、紗綾、からかわないで」と緒方花音は絶望的に泣きながら訴えた。「早く出てきてよ」
希望はほとんどないとわかっていても、どうしても紗綾がただ自分をからかっているだけだと思いたかった。
そのとき、通りの角からまぶしい光が差し込み、涙で濡れた彼女の顔をくっきり照らし出した。
大型トラックだ!
その車体はぐらつきながら進み、エンジンは爆音を立てていた。緒方花音は目を細め、その光を頼りに運転席の中をのぞき込んだ。
運転手は見知らぬ男で、苦しそうにお腹を押さえている。腹部には真っ黒な恐ろしい傷があり、何かに刺されたかのように血が噴き出していた。彼はとてつもなく恐ろしい何かから逃れようとしているのか、片足でアクセルを踏み込み、もう一方の手で必死にハンドルを握っていた。
ほどなく、運転手の身体が大きく震え、力尽きたかのように意識を失った。昏睡の瞬間、身体は右側へと惰性で倒れ、ハンドルに勢いよくぶつかった。
制御を失ったトラックはタイヤが甲高い音を立て、車体が猛然と向きを変えた。檻を破った猛獣のように、交差点の中央に跪く緒方花音めがけて一直線に突進してきた!
緒方花音はまさかこんな事態になるとは夢にも思わなかった。すでに恐怖のあまり凍りつき、極度の怯えと疲労で両脚はガクガクと震え、立ち上がることすらできず、身をかわす本能すらも失われていた。
ドーン――!
重厚な鋼鉄の怪物は容赦なく緒方花音を弾き飛ばした。彼女の身体は勢いよく宙を舞い、十数メートル先の路肩に叩きつけられた。口からは大量の血が流れ出した。
大型トラックはそのまま横転し、積荷は辺りに散乱。運転室の中では、運転手の遺体が目に見える速さで砂となって窓の隙間からこぼれ落ち、やがて隣の排水溝へと消えていった。
エンジンからは黒煙が立ち上り、やがて激しい炎が燃え広がった。
遠くで、緒方花音の意識は次第に薄れ、完全に途切れる直前まで、彼女の口はなおも小さな声でその名を呼び続けていた。
「紗綾…… 紗綾……」
声はどんどん弱まり、まもなく深い眠りへと沈んでいく。
「花音! 花音!」
青木紗綾は街中で花音の姿を必死に探し回っていた。ほんの数分、スマホのナビを覗いただけで顔を上げたとき、隣にはもう誰もいなくなっていた。
「花音? どこに行ったの?」
通りはがらんとして、ただ風の音だけが響く。
すぐに花音の携帯に電話をかけるが、受話器からは「おかけになった番号は現在使われておりません」という冷たい音声が返ってくるだけだった。
彼女は午後に見た花音の奇妙な様子を思い出した。あのときも、「不明失踪事件の容疑者」のことばかり口にしていた。
すると、おそろしい考えが頭をよぎり、立っていられないほど動揺した。花音は午後、自宅近くで不明失踪事件が起きたと言っていた。だからずっと怯えていて、警察官の従姉・都竹美緒の家に泊まりに行くつもりだとも話していた。
もしかして、彼女はうっかり容疑者の姿を目撃してしまい、相手に口封じのために狙われているのでは――?
「花音! 花音!」
青木紗綾は慌ただしく走り出した。闇夜の通りでは狂風が吹き荒れ、沿道のゴミ箱がカランカランと鳴り、木々の枝も激しく揺れて不気味な音を立てる。
「緒方花音! どこにいるの?」
紗綾は声を限りに叫ぶが、吠えるような風に吞まれて、誰からも返事はない。彼女はさらに足を速め、路地裏をくまなく捜索した。
突然、隣の小路からかすかな物音が聞こえた。紗綾の鼓動が自然と高まる。用心深く、音のする方向へと近づいていく。
スマホのライトを点け、路地の中を照らしてみると、黒っぽい人影がゴミ箱のそばで何かを探していた。
「花音、あなたなの?」と紗綾が試しに声をかけてみたが、その影は聞く耳を持たず、相変わらずゴミを漁り続けている。
紗綾は一歩ずつ慎重に近づき、歩くたびに心臓が口から飛び出しそうになる。
とうとうライトの光がその影に当たったとき、それがただの野良犬だとわかった。ゴミ箱の脇で餌を探す黒い犬だ。光に驚いた犬は「ワンワン」と二度鳴き、素早く路地の奥へと逃げていった。
紗綾はがっかりしながらため息をつき、引き返そうとした。そのとき、地面に見覚えのあるものが落ちているのに気づいた。
緒方花音の髪留めバンドだ!
そのリボンは紗綾に一抹の希望を与えた。暗闇の中で見つけた一筋の光だった。
「花音はきっと、この近くにいるはずだ」と紗綾は思った。
「ワン! ワン!」
耳元で犬の鳴き声が聞こえ、振り返ると、あの黒い野良犬が路地の奥でじっとこちらを見つめていた。
「もしかしたら、この子が花音を見つけてくれるかも」と呟き、紗綾はポケットから昼に食べきれずに残していたビーフジャーキーを取り出し、包装を破って差し出した。
小さな黒い犬は一歩一歩近づき、首をかしげて匂いを嗅ぎ、紗綾の手のビーフジャーキーをパクリと口にした。食べ終えると、尻尾を軽く二度振った。
どうやら紗綾の好意を受け入れ、信頼してくれたらしい。紗綾はもう一度、手に持った髪留めを鼻先でそっとかすめさせ、「これは私の親友のリボンよ。匂いを覚えて、それを頼りに彼女を見つけよう」と促した。
黒い犬は髪留めを何度も嗅ぎ、匂いをしっかり記憶すると、前方に向かって「ワンワン」と二度吠え、一目散に走り出した。紗綾もすぐにその後を追った。
すると、ふいに焦げ臭い匂いが漂ってきた。近くで何かが燃えているらしい。
息を切らせて交差点にたどり着くと、そこに横転した大型トラックが鎮座し、猛烈な火の手が上がっていた。
そして、その先の交差点で、見覚えのある人影を見つけた。
友人の緒方花音だ! 小さな黒い犬が彼女の周りをくるくると回り、絶え間なく吠えて紗綾の注意を引いている。
「花音!!」
青木紗綾は悲鳴を上げて駆け寄った。彼女は花音のそばにひざまずき、全身が血だらけで意識不明の状態であることを確認した。
「花音! 目を覚まして! 花音!」
看護師として、彼女はすぐに花音のバイタルサインをチェックした。
生命兆候は極めて悪く、失血性ショックの症状が現れていた。
「ごめんなさい、私がちゃんと見守ってあげられなくて……」と青木紗綾は目頭を潤ませ、自責の念を抱いた。それでも気持ちを奮い立たせ、すぐに勤務先の病院へ救急要請の電話をかけた。
この深刻なケガを救えるのは、たった一人だけだと彼女は心の底で理解していた。
電話はほぼ即座に繋がった。
「こんにちは! 私は病院の看護師、青木紗綾です。城東区の十字路口で重大な交通事故が発生しました。至急救急車を派遣してほしいのですが、負傷者は……」紗綾は落ち着いた口調で事故現場と負傷状況を伝えた。
「救急車をすぐに送ってください、お願いします」と電話を切り、血溜まりに横たわる友人を一瞥したあと、彼女の手をそっと握りながら言った。
「怖がらないで、花音! がんばって! 天城先生が、必ずあなたを助けてくれるから!!」
黒い犬も紗綾のそばにやって来て、彼女の隣にちょこんと座った。救急車が来るのを一緒に待っているようだ。紗綾はその頭を優しく撫で、もう一つのビーフジャーキーをポケットから取り出して差し出した。
「ありがとう、君」と言うと、黒い犬はそれをくわえてあっという間に平らげた。そして、紗綾と犬は二人三脚で花音のそばで見守り続けた。




